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ブックマーク / technique.hateblo.jp (3)

  • ひきこもり臨床論としての美術批評 - Freezing Point

    斎藤環『アーティストは境界線上で踊る』(みすず書房)刊行記念のトークショー、 斎藤環×岡崎乾二郎 「アートに“身体”は必要か」 を熟読した(掲載は『みすず(no.563)』2008年8月号)。 これを私は、美術批評であると同時に、ひきこもり臨床論として読んだ。 岡崎乾二郎の議論は、斎藤環の「発想のあり方」へのあからさまな批判なのだが、斎藤は最後までそれに気づいていないように見える。 私はこの対談を、ひきこもりや就労支援の関係者にこそ読んでほしい。 誰かの努力や存在が社会的に排除され、誰かがぬくぬくと「内側」にいることになっている*1。 そこに批評を口にするときの態度の違いは、そのまま支援案のちがいになる。 排除された努力や存在を受け止めるときに(あるいは無視するときに)、どんな発想が必要なのか。 作品であり、労働過程である私たちは、単に全面受容されるべきではない。 では、どんな厳しさが必要

    ひきこもり臨床論としての美術批評 - Freezing Point
  • (4) 差別と批判の見分け方 - Freezing Point

    連続エントリ: 第1回 「《つながりの作法》 としての差別」 第2回 「《不定詞の束としての人格》という考え方」 第3回 「生の様式そのものとしての不定詞 infinitif」 第4回 「差別と批判の見分け方」(今回) 第5回 「【追記】 民族浄化ならぬ、当事者浄化」 【承前】  3回にわたってエントリしてきましたが、今回でようやく核心です。 批判的な議論をするとき、それが「意図せざる差別」なのか、それともフェアな批判なのか、よくわかりません。 この違いを明らかにしておかないと、 「差別される側のやってることは、誰も批判できない」 「被差別部落のことは、論じちゃいけないのか」 になって、みんなが萎縮してしまいます。 私の提案するポイントは、《名詞か、動詞か》 という一点だけです。 (1)《名詞形カテゴリ》 に還元していれば差別。 相手をほめる場合でも、あるいは自分についてでも、《名詞形カテ

    (4) 差別と批判の見分け方 - Freezing Point
  • 2004-05-26

    ここのところ、過去のコメント欄にとても興味深い投稿をいただいています。 うれしい。 少しずつお返事しますね。 今日は、少し新しい話題を。 引きこもりの苦しみに、「流動性の高すぎる世界での自意識」が関わっているとしたら、性愛をめぐる考察が何かをもたらしてくれるかもしれない。 「モテと愛のちがい」を考えるうちに、「固有名」論と「無意識的な愛」の話を掛け合わせ、何か雛型を作れないか、と思うようになった。ぜんぜん考えを練れていないが、アイデア・スケッチとして書いてみる。 固有名をめぐる「三種の哲学的言説」については、東浩紀氏『存在論的、郵便的』ISBN:4104262013 の p.248-9 にきわめて簡潔に整理してある。が、ここでは p.40-41 の柄谷行人氏の議論を要約した部分から。(段落分け、太字や色変えは私です。) もし名「アリストテレス」が「アレクサンダー大王を教えた男」という確定記

    2004-05-26
    ja_bra_af_cu
    ja_bra_af_cu 2011/10/03
    このあたりが日本の文芸批評/柄谷・東的な文脈での固有名・単独性などの議論か。
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