ブックマーク / kuregure.hatenablog.com (43)

  • 野田 実家 のだ さねいえ - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    石見小笠原氏の重臣小笠原長実の被官。官途名は三郎兵衛尉。実名の「実」は、長実からの偏諱かもしれない。小笠原氏被官として大家東郷の町や大家大宮八幡宮の支配に関与した。 小笠原氏の大家東郷支配 大家大宮八幡宮との関わり 参考文献 小笠原氏の大家東郷支配 天文十四年(1545)九月、邑智郡河郷を拠とする石見小笠原氏当主の小笠原長徳が大檀那となって、大家大宮八幡宮(石清水八幡宮)拝殿の造営が行われた。大家大宮八幡宮は、天文三年(1534)二月には大家兼公らが大檀那となって宝殿を造営していたが、大家氏惣領家は天文十四年には既に没落していたとみられ、小笠原氏が大家東郷など大家氏旧領を支配下においていた。 野田実家は、小笠原氏のもとで「町中」の支配に関わったとみられる。 天文十五年(1546)二月、小笠原氏重臣の小笠原長実は、野田実家と大宮八幡宮神主須子宮内大夫に対し、「おも田原」から「大かめ岩」に

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    k10no3 2024/06/29
  • 大家 兼公 おおえ かねきみ - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    石見国邇摩郡大家東郷を拠とした国人大家氏の当主。大嶽山城(今西山)に拠を構えたと伝わる。永正元年(1504)に石見小笠原氏と一揆契約を行い、天文三年(1534)に大家大宮八幡宮を造営した。 室町期までの大家氏 石見小笠原氏との関係 天文年間の没落 参考文献 室町期までの大家氏 鎌倉期、大家氏は石見国大家荘*1の下級荘官であり、領家である大山崎(京都府乙訓郡大山崎町)の成恩院から惣公文職に補任され、現地支配を担っていた*2。一方で鎌倉幕府の御家人でもあり、弘安六年(1283)六月十三日付関東下知状で「大家庄内東郷地頭職」を安堵されている(「長府毛利家文書」)。 その拠地は大家東郷*3であり、大家氏はこの大家東郷を中心に周辺地域に勢力を拡大。明徳元年(1390)十一月、大家太郎左衛門尉公兼は足利義満から大家東郷だけでなく、その南および西側に境を接する三原郷佐木・白木地域と大家西郷井田上村

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    k10no3 2024/06/25
  • 大家 おおえ - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    石見国邇摩郡大家東郷の中心となった市場町。現在の大田市大代町大家地区。大家東郷を支配した国人大家氏の拠地であり、同氏没落後は石見小笠原氏の支配を受けた。交通の要衝でもあり、邑智郡川方面・大田市大田方面・邇摩郡温泉津方面・江津市方面、これら四者を結ぶ接点に位置していた。 大家荘と大家氏 大家の寺社と小笠原氏の進出 町と市場 関連人物 参考文献 大家荘と大家氏 中世の大家荘は、平安末・鎌倉期には、郷東(大家東郷)、同西郷、温泉郷、祖式、福光、字福*1、佐摩、三久須、白杯、稲富*2、福原の各地域からなっていた(「益田家文書」)。南北朝期には、邑智郡三原郷も大家荘の中に組み込まれた(「荘厳寺文書」)。 大家荘の史料上の初見は『玉葉』安元二年(1176)十一月三日条であり、「今日頼輔朝臣給女院御領石見国大宅庄可知行之庁下文云々」とある。治承四年(1180)五月、皇嘉門院から九条良通に譲渡され、

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    k10no3 2024/06/23
  • カカオ(エクアドル) cacao - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    チョコレートの原料となるカカオ(テオブロマ・カカオ)の栽培は、南米エクアドル南端の高地アマゾンにおいて、紀元前3300年には始まっていた。その後、カカオ栽培は品種改良と並行しながら太平洋沿岸地域、さらにはメソアメリカ地域にも伝播していったと考えられている。 カカオ栽培の起源 周辺地域への伝播 参考文献 カカオ栽培の起源 カカオ(テオブロマ・カカオ)の植物としての起源は、アンデス山脈の東側、アマゾン川上流域とされる。 カカオの栽培と利用の起源に関する痕跡は、エクアドルの南端の高地アマゾンで栄えたマヨ・チンチペ/マラニョン文化のサンタアナ・ラ・フロリダ遺跡(紀元前3500~1700年頃)でみつかっている。すなわち2018年に発表された研究によれば、海抜1040mに位置する同遺跡において、紀元前3300年頃に制作されたとみられる複数の鐙(あぶみ)型ボトルからカカオの残滓*1が発見された。カカオの

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    k10no3 2024/06/18
  • 天逆鉾(御調八幡宮) あまのさかほこ - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    御調八幡宮(三原市八幡町宮内)に伝わる神宝。弥生時代中期(紀元前1世紀〜紀元1世紀)頃のものと推定される青銅製の戈であり、御調八幡宮北方の鉾ヶ峰から出土したものとされる。 御調八幡宮の神宝 弥生時代中期の銅戈 参考文献 御調八幡宮の神宝 御調八幡宮で神宝「天逆鉾」が収蔵されている木箱の蓋には、以下のように記されている。 天逆鉾 寶永四丁亥天三月吉日/御調郡宮内村/八幡宮寶物之内/神宮寺現住宥仙代造焉 宝永四年(1707)にはすでに「天逆鉾」と呼ばれて神社の宝物となっていたことが分かる。また寛政四年(1792)の「御調郡宮内村指出帳」には「ほこのうねト申名所 八幡宮宝物ほこ、此所へふり申ニ付、ほこのうねト申伝候」とある。さらに文政二年(1819)の「御調郡八幡之庄八幡宮記氏十ヶ村辻書留」には、戈の図とともに下記にようにある。 御神寶 天逆鉾 長 一尺ニ寸 厚サ 一歩 但、宇佐ヨリ此鉾止ル所御

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    k10no3 2024/06/16
  • 藍染料(メソアメリカ) あいせんりょう - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    メソアメリカ地域では先スペイン期から19世紀まで、様々な文化・地域で藍染料が使用された。特に後世にマヤ・ブルーと呼称される青色顔料は、藍(インディゴ)とある種の粘土鉱物をミックスし、適当な熱を加えることによって造り出された。非常に堅牢な顔料であり、水はもちろんのこと、酸、アルカリおよび他の溶液や熱にも強く、古くから色料として壁画や土器、絵文書や石彫の着色に広く利用されていた。 メソアメリカの藍染料 修道士ランダの記録 原産植物からの生成 サアグンの見た藍染料 マヤ・ブルー スペインによる栽培と輸出 参考文献 メソアメリカの藍染料 メソアメリカでは、もっぱらマメ科インディゴフェラに属する藍草から藍染料を採っていた。藍染料採取に多く利用された藍草は、俗にヒキリーテ(シウキリートル)と呼ばれた。アステカ人らが話したナワトル語で「青の草」「青を生む草」を意味する*1。また、ユカタン・マヤではCh’

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    k10no3 2024/06/09
  • トニナ Toniná - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    海抜800〜900mの丘の上と山腹に建造されたマヤ古典期の高地性集落。現在のメキシコのチアパス州に位置した。なお「トニナ」は現代の呼称で、古典期には「ポ」または「ポポ」と呼ばれたとみられる。 トニナ遺跡 トニナ王朝の始まり パレンケとの戦い 蛇王朝カラクムルとの関係 最後の繁栄と衰亡 トニナの末裔 関連交易品 参考文献 トニナ遺跡 トニナ遺跡では、300以上の砂岩製彫刻*1や漆喰彫刻に王や戦争捕虜の図像及び碑文が刻まれ、少なくとも10人の王が君臨したことが分かっている。化粧漆喰のレリーフにみられる造形美は卓越しているとされ、北へ64.5kmのところにあるパレンケ遺跡のそれにもひけをとらないとの評価もある。 遺跡の中心である「アクロポリス」(高さ70m、底辺320×320m)は、山腹を人工的に整地した計7段のテラス状基壇からなり、260日暦*2と同じ260段の階段が設けられた。 「アクロポリ

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    k10no3 2024/05/31
  • 笛吹きボトル(中南米) ふえふきぼとる - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    紀元前から紀元後16世紀まで南米で栄えたアンデス文明では、水や空気を入れると音が鳴る「笛吹ボトル」と呼ばれる土器が数多く使われていた。儀式の際などに神聖な酒「チチャ」を注いで音を鳴らしたともいわれる。その内部構造は複雑で、製法や音の鳴らし方については、いまだ不明な点が多いという。 チョレーラ文化と笛吹きボトルの始まり ビクス文化での発展 インカ帝国への継承 笛付き土偶と土笛 参考文献 チョレーラ文化と笛吹きボトルの始まり 様々な証拠から、最古の笛吹きボトルは、エクアドル太平洋岸で紀元前1000年頃から紀元前100年頃まで続いたチョレーラ文化で誕生したと考えられている。 初期の笛吹きボトルはシングルチャンバー(単胴)タイプだった。チチャ酒(トウモロコシを発酵させて作られる酒)の入った甕に浸けると、注ぎ口から入った酒により中の空気が圧縮され、内蔵の笛玉(ホイッスル)からシンプルな「ピー」という

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    k10no3 2024/05/28
  • 熱田 秀信 あつた ひでのぶ - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    石見銀山内の佐毘賣山神社の社家。官途名は平右衛門尉。毛利氏の被官として銀山支配の一端を担ったとみられる。秀信の子は銀山の賦課徴収を委任された「当役人六人」の一人であったが、熱田氏は慶長四年(1599)以降、史料上にみえなくなる。 山神社の社家 銀山の「当役人六人」 参考文献 山神社の社家 天正二十年(1592)二月、「熱田平右衛門平秀信」は「狩野源介藤原重信筆」による絵馬を銀山内の清水寺に奉納している。清水寺は慶長四年(1599)に鉱山師の安原知種が施主となった堂が建立されているが、天正末年は熱田秀信が外護していたことがうかがえる。 kuregure.hatenablog.com 熱田秀信は、山神社(佐毘賣山神社)の社家であったらしい。天正十年代の二月二十三日、毛利家臣林就長は山神社における銀山大盛の祈念を「熱平右」(熱田平右衛門)に依頼している(「佐毘賣山神社文書」)。 天正十九年(1

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    k10no3 2024/05/26
  • 安原 知種 やすはら ともたね - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    中国早島庄塩津出身の鉱山師。官途名は田兵衛尉。後に徳川家康より「備中守」の名乗りを与えられた。弟に徳忠、子に直種がいる。16世紀末から17世紀初頭にかけて石見銀山における銀採掘で辣腕をふるった。銀山や生国である備中国の寺社造営にも多額の資金を提供したとみられる。 徳川家康への銀献上と釜屋間歩の開発 毛利氏の時代 備中国との繋がり 死後 参考文献 徳川家康への銀献上と釜屋間歩の開発 『徳川実紀』によれば、慶長八年(1603)八月一日、「石見国の土人安原伝兵衛(安原田兵衛知種)」が大久保長安に伴われて徳川家康に拝謁した。 知種は、大久保長安の許可を得て石見銀山で銀を採掘し、年に三千六百貫、あるいは千貫・二千貫の銀を上納していたとされる。さらに拝謁にあたり銀を献上。その際、一間四面の盤の上に敷き詰めた白砂の上に蓬莱山のかたちに粋精(銀鉛鉱)を積み上げていたという。 八月三日、家康は小堀正次を使

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    k10no3 2024/05/19
  • 服部 就久 はっとり なりひさ - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    毛利家臣。官途名は二郎左衛門尉。毛利氏に討滅された城常光の家臣の一族とみられる。毛利氏が城氏から山吹城を接収すると、銀山代官として銀山支配に関わった。また銀山には就久の他にも服部一族が多く居住していたことが「浄心院姓名録」から分かっている。 城氏の滅亡と服部氏 石見銀山代官 銀山居住の服部一族 参考文献 城氏の滅亡と服部氏 服部就久は城常光家臣の出身と推定されている。城氏は石見国阿須那(現在の島根県邑南町阿須那)を拠とした国人高橋氏の一族であり、享禄二年(1529)または享禄三年(1530)に、惣領家が周防大内氏・備後和智氏・安芸毛利氏によって滅ぼされると出雲尼子氏に属した。 その後、城常光は出雲国須佐郷を拠点としていたが、弘治二年(1556)に尼子氏が石見銀山(佐摩銀山)を攻略すると、銀山山吹城の城番となった。一方で永禄三年(1560)頃には毛利氏と何らかの交渉を行ってお

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    k10no3 2024/05/17
  • 生田 就光 いけだ なりみつ - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    毛利家臣。官途名は左衛門大夫。毛利氏が滅ぼした高橋氏一族の出身とみられる。永禄五年(1562)、石見銀山(佐摩銀山)を掌握した毛利氏によって銀山の代官に補任された。 生田就光の出自 毛利氏の銀山代官 寺社の造営事業 芸石国人高橋氏旧領と石見銀山 参考文献 生田就光の出自 生田就光は、石見国阿須那(現在の島根県邑南町阿須那)を拠とした高橋氏の一族である生田氏の出身と考えられている。高橋氏は同国邑智郡南部・安芸国高田郡北部を領した有力な国人であり、旧高橋領だった現在の広島県安芸高田市美土里町に「生田」の地名がある。 文明八年(1476)九月十五日付の「高橋命千代・同一族被官連署契状」によれば、円を中心に放射線状に加えられた署判の中に「生田右馬助秀光」がみえる(「益田家文書」)*1。「光」字を名前の後字として用いていることから、高橋氏一族における「地位の高さを示す」との指摘がある。 しかし享禄

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    k10no3 2024/05/13
  • 田辺 治綱 たなべ はるつな - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    石見銀山の栃畑谷の住人。官途名は対馬守。永禄十一年(1568)に安芸国厳島神社に寄進した。 銀山栃畑の住人 参考文献 銀山栃畑の住人 かつて安芸国の嚴島神社の廻廊には、多額の寄進をした者を「廻廊一間檀那」と記した棟札が掲げられていた。江戸期の享保三年(1718)に作成された「厳島神社廻廊棟札写」によると、永禄十一年(1568)九月に「石州銀山住」の「田辺対馬守治綱」が安芸国の厳島神社に廻廊一間を寄進している(「大願寺文書」)。 「浄心院姓名録」*1にも銀山栃畑の住人として「田辺対馬守」の記載があり、治綱の居住地が分かる。栃畑では同族とみられる田辺源左衛門も天正十六年(1588)一月十七日の紀年とともにみえる。 なお文禄五年(1596)の出雲国秋鹿郡大野荘の内神社(現松江市大垣町)棟札には、施主の小林成久が当時「銀山桜栃畑田辺屋敷」に居住していたことが記されており、栃畑には「田辺屋敷」と称さ

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    k10no3 2024/05/11
  • 吉田 与三右衛門 よしだ よそうえもん - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    石見銀山開発初期の大工。元は出雲国の鷺銅山の採掘に従事していたとみられる。大永七年(1527)三月、吉田藤左衛門、於紅孫右衛門とともに三島清右衛門に同行して石見銀山に入る。その後、於紅孫右衛門が横死し、吉田藤左衛門も没落した為、銀山ただ一人の大工となった。 石見銀山初期の大工三人頭 周防大内氏への接近 ただ一人の銀山大工 「浄心院姓名録」 参考文献 石見銀山初期の大工三人頭 16世紀末に成立したとみられる覚書である「石州仁万郡佐摩村銀山之初」と「おべに孫右衛門ゑんき」には、16世紀前半の石見銀山の歴史が記されている*1。 これらによると、大永七年(1527)三月、出雲国田儀浦の三島清右衛門が出雲国杵築の鷺銅山より吉田与三右衛門、吉田藤左衛門、於紅孫右衛門の3名の大工を連れて石見銀山に入山し、銀を入手したという。 kuregure.hatenablog.com 当初は上記の吉田与三右衛門、吉

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    k10no3 2024/05/11
  • 小林 成久 こばやし しげひさ - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    石見銀山の栃畑谷の住人。仮名は万助。拠は出雲国秋鹿郡大野荘であり、栃畑では「田辺屋敷」に居住していた。天正年間には同族とみられる小林之久・同吉久も安芸国厳島神社に回廊を寄進している。 銀山の一時的な来住者 参考文献 銀山の一時的な来住者 文禄五年(1596)、小林成久は出雲国秋鹿郡大野荘の内神社(現松江市大垣町)の随神社・神体造替に施主として関わった。その際の棟札には以下のようにある(「内神社縁起」)。 信心施主大野庄内藤原朝臣小林万助成久 当時者石州銀山桜(栃)畑田辺屋敷居住也 当時、小林成久は石見銀山にあった栃畑地区の「田辺屋敷」に居住していたことが分かる。ただ、内神社の他の棟札銘によると、小林氏は17世紀以降も大野荘内の公文や庄屋として名を連ねている。成久自身も、上記の棟札名に「大野庄内」と明記されていることから、拠の基盤を大野荘に確保した上で銀山に住んでいたことがうかがえる。

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    k10no3 2024/05/08
  • 銀山 ぎんざん - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    石見銀山の鉱山町。大永七年(1527)に銀山開発が始まると、仙ノ山一帯には鉱山労働従事者や職人、商人らが集まって巨大な都市が形成され、膨大な物資集散が行われた。なお石見銀山自体は戦国期は「佐間(佐摩)銀山」と呼称されていた。 石見銀山開発の始まり 銀山をめぐる諸勢力 石銀集落跡 文献史料にみえる石銀地区 大谷地区の銀生産 大谷・栃畑谷・昆布谷・出土谷 銀山川沿い 遠隔地から訪れる人々 関連人物 参考文献 石見銀山開発の始まり 大永七年(1527)三月、石見国田儀浦の三島清右衛門により石見銀山の開発がは始まる*1。清右衛門は吉田与三右衛門、同藤左衛門、於紅孫右衛門の3名の大工を同行して銀を入手したとされる(「石州仁万郡佐摩村銀山之初」)。 「おべに孫右衛門縁起」および「石州仁万郡佐摩村銀山之初」では、「銀山正主」(銀山の所有者か)を三島清右衛門と博多商人の神屋寿禎としている。寿禎は小田藤右衛

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    k10no3 2024/05/07
  • 肥中屋 孫二郎 ひじゅうや まごじろう - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    石見国温泉津に居屋敷を持っていた商人。居屋敷は毛利元就から給与されており、元就死後に輝元によって安堵された。その名から、長門国肥中との関係性が指摘されている。 毛利輝元による居屋敷の安堵 温泉津と長門国 参考文献 毛利輝元による居屋敷の安堵 元亀二年(1571)六月十四日、毛利元就が没する。元就死後、温泉津 における権益安堵は元亀三年(1572)初頭に確認できるが*1、居屋敷一般の安堵は、元亀四年(1573)の四月から五月にかけて一斉に行われたらしい。 元亀四年(1573)四月十八日、肥中屋孫二郎も毛利輝元の袖判で「温泉津町之内」で「居屋敷壱ケ所」の安堵を受けた。書状には「任日頼証判之旨」ともあり、肥中屋の温泉津における屋敷が「日頼」(毛利元就)からの給与であったことがうかがえる。 毛利氏による温泉津支配は永禄五年(1562)からはじまる。翌年の永禄六年(1563)十二月二十二日には、毛利

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    k10no3 2024/05/05
  • 石田 春俊 いしだ はるとし - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    石見国邇摩郡波積郷の地侍。官途名は主税助。毛利氏の警固衆として軍事活動の一翼を担った。平時には船を用いて経済活動を行っており、毛利氏領国の諸関での役料免除特権を与えられている。 石田氏の所領 毛利方としての軍事行動 石田氏の海上活動 参考文献 石田氏の所領 江戸期の石田氏は波積郷の庄屋であり、文化十四年(1817)成立の地誌『石見八重葎』は、石田主税助(春俊)について「波積郷利光ノ城主市場初代」とする。これらのことから石田氏の拠地は、石見国邇摩郡波積郷であったとみられる。 石田春俊について年次が確定できる史料のうち、最も早いものが永禄五年(1562)七月とされる。この時、春俊は毛利元就・隆元父子から「温泉津町之内岡五郎左衛門屋敷一所」を給付されている(「熊谷家文書」)。次いで同年十二月には邇摩郡波積郷内で計8箇所(分銭7貫100文)の給地を遣わされており、永禄七年(1564)十月には

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    k10no3 2024/05/01
  • 萩原 おぎはら - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    石見銀山東方の宿場町。森林資源の豊富な石見国邑智郡や出雲国と石見銀山を結ぶ道筋の要地にあった。銀山の最盛期は荻原千軒ともいわれる栄えた町場であったという。 荻原千軒 明治初期の地引絵図からの復原 参考文献 荻原千軒 荻原は石見銀山の灰吹銀輸送路における最初の宿場として知られた。江戸期、石見銀山の灰吹銀が大森から大坂御銀蔵に納められるとき、輸送の陣が堂原(荻原の旧名)に置かれ、堂原は荻原千軒といわれるほど栄えたという(『石見八重葎』*1)。 kuregure.hatenablog.com また正徳五年(1715)、年貢の減免が認められた村々のリストである「村々定引ヶ之事」が作成されているが、その中に荻原村がある。土地条件の悪さを理由として減免が認められた例が多かったが、荻原村や西田村、久利村などの石見銀山周辺の村では、銀山の衰退による戸口の減少などを理由として、年貢の減免が許可された。 同

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    k10no3 2024/04/28
  • 宅野 たくの - 戦国日本の津々浦々 ライト版

    石見国邇摩郡の北東端に位置する港町。現在の島根県大田市仁摩町宅野。沖合に韓島(辛島)、麦島、逢島があって北風を防いでいる。17世紀初頭には町場が形成されており、石見銀山への物資補給基地であったともいわれる。 益田氏と宅野氏 17世紀初頭の宅野とその住人 「銀山正主」神屋寿禎の足跡 「宅野殊外繁昌候」 参考文献 益田氏と宅野氏 平安末期には益田氏の支配がおよんでおり、元暦元年(1184)の「源範頼下文案」に藤原(益田)兼栄・兼高の所領の一つとして「毛(宅カ)野別符」がみえる(「益田家文書」)。 貞和七年(1351)三月の「益田兼忠去渡状」には、宅野別符の地頭職が益田兼忠の「重代領」とあり、益田氏宗家が代々領地してきたことが知られる(「長門益田家文書」)。また至徳元年(1384)十一月の「益田祥兼譲状」には「宅野別符惣領職」とみえ、宅野別符がさらにいくつかに分割されていたことがうかがえる(

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    k10no3 2024/04/24