エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
安原 知種 やすはら ともたね - 戦国日本の津々浦々 ライト版
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
安原 知種 やすはら ともたね - 戦国日本の津々浦々 ライト版
備中国早島庄塩津出身の鉱山師。官途名は田兵衛尉。後に徳川家康より「備中守」の名乗りを与えられた。... 備中国早島庄塩津出身の鉱山師。官途名は田兵衛尉。後に徳川家康より「備中守」の名乗りを与えられた。弟に徳忠、子に直種がいる。16世紀末から17世紀初頭にかけて石見銀山における銀採掘で辣腕をふるった。銀山や生国である備中国の寺社造営にも多額の資金を提供したとみられる。 徳川家康への銀献上と釜屋間歩の開発 毛利氏の時代 備中国との繋がり 死後 参考文献 徳川家康への銀献上と釜屋間歩の開発 『徳川実紀』によれば、慶長八年(1603)八月一日、「石見国の土人安原伝兵衛(安原田兵衛知種)」が大久保長安に伴われて徳川家康に拝謁した。 知種は、大久保長安の許可を得て石見銀山で銀を採掘し、年に三千六百貫、あるいは千貫・二千貫の銀を上納していたとされる。さらに拝謁にあたり銀を献上。その際、一間四面の盤の上に敷き詰めた白砂の上に蓬莱山のかたちに粋精(銀鉛鉱)を積み上げていたという。 八月三日、家康は小堀正次を使