小学校の夏休み、8月6日は登校日と決まっていた。体育館に集まって黙祷し、教室に戻って被爆者の写真や映像を見たりした。火傷でただれた皮膚の画を初めて見た日の夜、怖くて眠れなくなり、母の布団にもぐりこんだ。 少し大きくなって、「持たず、作らず、持ち込ませず」を習った。なんだか誇らしかった。 もう少し大きくなって、「核の傘」のことや「駐留米軍の費用負担」について知った。なんだかとてもがっかりした。 もっと大きくなって、「密約」が交わされていたらしいことを知った。もういい大人になっていたし、外交上、安全保障上、「機密」扱いにせざるを得ないものがあることは分かっていたつもりだ。それでも、なんだかひどく裏切られた気がした。 そして、やはり「密約」は存在していた。しかも、それがよその国の公文書で明らかにされたことがもっと悲しい。 5年ほど前、大戦後の日米関係を研究していた友人の手伝いで、メリーランド州の