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文学に関するkaiokiwaltherのブックマーク (31)

  • 「威張ってはいけない時代」になったなあ。

    今は誰でも書いて発信できる時代になった。誠に喜ばしい。これこそ真の意味で、大衆文化の時代だと思う。 だが、残念ながら「大衆文化」はこれまであまり肯定的な文脈で捉えられることはなかった。大量消費文化と同一視されることが一般的だったからだ。 例えば、ヘブライ大学のユヴァル・ノア・ハラリは現在の支配的な考え方である消費主義について皮肉を言う。 今日では殆どの人が資主義・消費主義の理想を首尾よく体現している。この新しい価値体型も楽園を約束するが、その条件は富める者が強欲であり続け、更にお金を儲けるために時間を使い、一般大衆が自らの渇望と感情にしたい放題にさせ、ますます多くを買うことだ。 これは信奉者が求められたことを実際にやっている、史上最初の宗教だ。 だが引き換えに当に楽園が手に入ると、どうしてわかるのか?それはテレビで見たからだ。*1 発信手段を独占していたマスメディアは企業と結びついて消

    「威張ってはいけない時代」になったなあ。
  • 夏目漱石が「I Love You」を「月が綺麗ですね」と訳したという伝説について

    INOHARA Tohru @tukinoha2 漱石が「I Love You」を「月が綺麗ですね」と訳したという話、ほぼ確実にデマなのだけど、だれがそんなことを言い出したのかというのが気になる。どうも1970年代にはすでに言われていたらしい。

    夏目漱石が「I Love You」を「月が綺麗ですね」と訳したという伝説について
  • 『ボルヘスの「神曲」講義』を読み返したのだが……

    少し前の『第三の警官』に関するエントリを書くためにベケットの「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」を読み返したのだけれど、その流れで、ついでと言ってはなんだが、『ボルヘスの「神曲」講義』をも読み返してみた。……のだが、これが、ちょっと驚くほどつまらなかったのである。 もともと私にとってホルヘ・ルイス・ボルヘスという作家がどのような存在であったのかというと……学生時代にその存在を初めて知ったころには夢中になって読み進めたのだが、時を経るごとに評価が下っていき……最近では、その著作を改めて手に取ることも少なくなっていたのであった。 もっとも、ボルヘスを知った当初の時点から既に、ボルヘスに対する懐疑がなかったわけではない。……というのも、この人の場合、思想・哲学への言及を読んでいると、恐ろしく保守的な凡庸極まりないことを平気で述べていたりしたからだ。古典的で広く読まれたような哲学書であれ

    『ボルヘスの「神曲」講義』を読み返したのだが……
  • 村上春樹さん:単独インタビュー 「孤絶」超え、理想主義へ - 毎日新聞

  • 文体練習 - アンサイクロペディア

    概要(昔話的)[編集] 昔むかし、あるところにフランス人の作家レーモン・クノーがおったそうな。おばあさんは川へ洗濯に、クノーは文体練習(ぶんたいれんしゅう)という文学作品を発表しに出かけたそうな。クノーは「バスの中で見かけた乗客を罵倒する若者を、2時間後に別の場所でもう一度見かける」という短い話を、99通りもの文体で叙述したそうな。 概要(映画の宣伝的)[編集] 全仏No.1ヒット! あの巨匠、レーモン・クノーが送る、前代未聞の実験小説! バスの中で見かけた乗客― 悲劇はここから始まった。罵倒し、別の場所で再び出会う若者を、99通りの文体で描ききる感動の超大作! 全仏が泣いた! 概要(テレビショッピング的)[編集] あのレーモン・クノーが1947年に発表した、バスの中の男の話を書いた小説「文体練習」が、なんと驚きのこのお値段!(えー!) しかも今なら、表現を変えた同じ話が98個も付いてきて

    文体練習 - アンサイクロペディア
  • - Ficciones -

    伝奇集 Jorge Luis Borges 分かれゆく小道の庭苑 プロローグ Tlön, Uqbar, Orbis Tertius アル・ムターシムを求めて ピエール・メナール、『ドン・キホーテ』の著者 円環の廃虚 バビロニアのくじ ハーバート・クエイン作品の検討 バベルの図書館 分かれゆく小道の庭苑 工匠集 プロローグ 記憶の人フネス 剣のやり方 裏切り者と英雄のテーマ 死とコンパス 隠れた奇跡 ユダについての三つの解釈 結末 フェニックス宗 南部 奥付

  • なぜ私小説は勝利したか?-3分でわかる身も蓋もない近代日本文学史

    信じられない話ですが、日では一時期、文学といえば私小説のことでした。 笑い事ではなく、その災禍はいまも希薄化しながら続いているとも言えます。 たとえば作家を〈自由業〉だと考える習慣は、この希薄化した災禍の一部です。 私小説に反対した後続の作家たちの作品も、読者にはほとんど私小説であるかのように、その生活の反映であるかのように読まれました。 では何故、私小説はそんなにも成功を収めたのでしょうか? それを知るには、日の近代文学の歴史を簡単におさらいする必要があります。 1.戯作者上がりの新聞記者 江戸時代を通じて、執筆専業でえたのは滝沢馬琴ひとりでした。 幕末~明治初期にかけて活躍した仮名垣魯文も、戯作者の兼業としては伝統的な売薬を営み、維新後は商品広告である「引札」の執筆で禄をはんでいました。 やがて日でも新聞という新しいメディアがはじまり、その会社員となり定収を得ることで魯文ははじ

    なぜ私小説は勝利したか?-3分でわかる身も蓋もない近代日本文学史
  • コメットイケヤ放送版

    BACK TO PROGRAM コメット・イケヤ  Commet Ikeya 寺山修司の戯曲1(思潮社)を基に放送された作品を示す 作品との異同は赤字で示す。 (1966年9月26日に行われたイタリア賞グランプリ受賞作品 受賞記念レコ-ドより) 佐々木昭一郎 演出 湯浅譲二 音楽 はじめに音の暗黒のなかを男性による天体表現のヴォーカリーズがひろがってゆく。 それはシリウスをあらわし、時にアンドロメダをあらわし、時に何億光年も彼方の名もない小さな星をあらわす。 声による星座の表現。 そのはてしない荒漠とした空の下、ひとりの盲目の少女が日記を読んでいる。 盲目の少女の日記 あたしはやぎを知った つくえにさわりながらはなした うしがいた そらもいた こむぎもあった あたしは手でさわりながら うたをした あたしは全盲です 全盲とはぜんぜん目が見えないことです あたしはケフェウスと ペガサスのゆめが

  • Way Harsh: Famous Authors Who Hated Each Other's Writing

    Lillian Hellman1905 – 1984 Mary McCarthy1912 – 1989 Jack Kerouac1922 – 1969 Truman Capote1924 – 1984 Norman Mailer1923 – 2007 Elizabeth Bishop1911 – 1979 J.D. Salinger1919 – 2010 Gore Vidal1925 – 2012 Ernest Hemingway1899 – 1961 Fyodor Dostoevsky1821 – 1881 Joseph Conrad1857 – 1924 D.H. Lawrence1885 – 1930 Herman Melville1819 – 1891 James Joyce1882 – 1941 Virginia Woolf1882 – 1941 Vladimir Nabokov

  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • もちつけblog(仮)、、、の跡地(はてなダイアリーに移転。) 今まで言わなかったけど、中島敦『山月記』の漢詩に出て来る「長嘯」は、「詩を吟じる」って意味じゃないんだ 齋藤希史『漢文スタイル』(後編)

    またも、齋藤希史『漢文スタイル』 を読む。 著者曰く、今の時代に必要なのって、韓愈じゃなくて、焚紹述かも、と(119頁)。 どういうことか。 今の「国語」の衰退をめぐる議論は、近代の「国語」以前の型の集積を訴えたりはする(『声に出して読みたい日語』とか)けど、結局、その型へ反発する力というのは養われない。 (型を養うこと自体が不必要なわけでは、もちろんない。) 文章って、書けば書くほど、何かか言い切れないようなものが残ってしまうもの。 そういう言い切れなさの中から、それに立ち向かう初発のエネルギーが出て、新しい表現が生まれる。 韓愈は、その初発のエネルギーを古の文章に感じて、道を開いた(彼は、単なる"いにしえの文章オタク"じゃない)。 そんな韓愈の先駆者こそ、焚紹述だった。 先人の一言一句を踏襲しない、と韓愈に褒められながら、後世に"分かりにくいし区切りも付けられない"と評されたこの人物

  • 〈村上春樹 特別エッセイ〉こんなに面白い話だったんだ!(全編)|『フラニーとズーイ』J.D.サリンジャー、村上春樹 訳|新潮社

    J.D.サリンジャーは自分のの中に訳者の「まえがき」とか「あとがき」とか、そういう余分なものを入れることを固く禁じているので、そのかわりにこのような少し変わった形で、訳者からのメッセージを送らせていただくことになる。「余計なものを入れるな。読者は作品だけを読めばよろしい」というサリンジャー氏の基姿勢もそれなりに理解できるのだが、『フラニーとズーイ』という文芸作品が既に古典として機能していることを考えれば(国で出版されたのは一九六一年だ)、読者に対してある程度の基情報を提供することは、翻訳者としてのひとつの責務であると考えるからだ。だけをぽんと与えて「さあ、読めばわかるだろう」というのでは、やはりいささか不親切に過ぎるのではないか。同時代的なであればそれでもいいだろうが、古典についていえば、その立ち位置の意味合いや方向性についての最小限の説明は必要となる。そんなわけで、このに関

    〈村上春樹 特別エッセイ〉こんなに面白い話だったんだ!(全編)|『フラニーとズーイ』J.D.サリンジャー、村上春樹 訳|新潮社
  • 「神に背いた少年」は「一杯のかけそば」 - 映画評論家町山智浩アメリカ日記

    実の母親に男娼をさせられていた少年の回想録というふれこみで売った『サラ、神に背いた少年』と『サラ、いつわりの祈り』の著者J.T.リロイが実在しないことが判明したわけですが、知らない人のためにいちおう説明しておくと、 1月発売の雑誌New York誌によれば、 30歳代の作家志望の女性ローラ・アルバートが自分で書いたやおい小説「サラ」を売り込むため、JTリロイという少年が書いた自伝ということにしたそうです。 それで、リロイがインタビューに出る時は、ローラのBFのジェフリー・ヌープという男の妹にリロイの役を演じさせたということ。 要するに竹宮恵子が「風と木の詩」を「ジルベールという少年の自伝です」と言って売り込んだようなものだ。 でも、リロイに会った人はすぐに女だとわかったので、今、性転換の途中だとか言ってごまかしたんだって(なんとマヌケな)、 カンヌ映画祭で一緒にいたアーシア・アルジェントは

    「神に背いた少年」は「一杯のかけそば」 - 映画評論家町山智浩アメリカ日記
  • 物語要素事典

    <BODY> <P>このページは、フレーム機能をサポートするブラウザで表示するようデザインされています。このテキストは、フレーム機能をサポートしないブラウザで表示されます。 </P> </BODY>

  • 枕詞一覧 全210語

    「枕詞とは主に和歌に見られる修辞法。他の語の前に置いて修飾したり語調を整える言葉。五音節のものが多い。」  枕詞210語を50音順に一覧できるようにしました。 茜さし (あかねさし)→ 照る 茜さす (あかねさす)→ 日・昼・紫・君 赤ら引く (あからひく)→ ひ・あさ・皮膚 秋草の (あきくさの)→ 結び 秋津島 (あきつしま) → やまと 朝霞 (あさがすみ)→ 八重・ほのかに・春日(はるひ)・鹿火屋(かひや) 朝霧の (あさぎりの)→ おほに・思ひ惑ひ・乱る・消(け)やすし・八重山・かよふ・黄幡(よこはた) 朝霜の (あさしもの)→ 消(け) 浅茅原(あさぢはら)→ 茅生(ちふ)・小野・つばらつばら 浅茅生の(あさぢふの)→ 小野 朝露の (あさつゆの)→ 消ゆ・消(け)やすし・置く 朝鳥の (あさどりの)→ 通ふ・音(ね)泣く・朝立ち 麻裳よし (あさもよし)→ 紀・城上へ(きのへ

    枕詞一覧 全210語
  • 純文学 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "純文学" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2019年5月) 日の近代文学の始まりを告げた作品は、二葉亭四迷の『浮雲』(1887年 - 1889年)といわれる。言文一致による文体、近代人の苦悩を描いたテーマは、近代文学の体裁を整えたものであったが、二葉亭自身はその出来に満足せず、その後20年近く小説執筆から離れている。 日の文学用語としての純文学は、明治時代(1868年 - 1912年)の作家北村透谷の評論『人生に相渉るとは何の謂ぞ』(『文学界』二号・1893年2月28日)において、「学問のための文章でなく美的形成に重

  • 中間小説 - Wikipedia

    中間小説(ちゅうかんしょうせつ)は、20世紀後半の日小説の分類で、純文学と大衆小説の中間的な作品。この層の作品を掲載する雑誌である、中間小説誌(ちゅうかんしょうせつし)という言葉でむしろ多く使われる。第二次世界大戦後の小説の大きな位置を占めるようになるが、大衆小説(娯楽小説)自体の地位の向上につれて、小説の分野を指す言葉として使われることは少なくなる。また個々の作家、作品については、歴史・時代小説、推理小説恋愛小説、冒険小説などといった、娯楽小説の分類に従って呼ばれることが多く、中間小説とそれ以外の小説の厳密な区分けも存在しない。 純文学と大衆文学の接近は、大正時代に菊池寛や久米正雄が家庭小説へ転身するのを背景に、芥川龍之介の1926年「亦一説?」での「大衆文芸家ももっと大きい顔をして小説家の領分へ切り込んで来るが好い。さもないと却って小説家が大衆文芸家の領分へ切り込むかもしれぬ」[

  • 『「青空文庫」はアブナイ?』に、日本語学研究者から一言

    yhkondo @yhkondo 「「青空文庫」はアブナイ?」という話題で盛り上がっているようなので、古典語を電子アーカイブにする仕事(研究)をしている日語研究者の立場から、ちょっと続けて書いてみます。 yhkondo @yhkondo まず、ひとつ。「夏目漱石の原稿にあって、(活字)印刷された東京朝日新聞、単行にはなくなってしまっているものは何か。この問いに稿者なりに答えてみようとしたのが書である。」というがあります。今野真二『消された漱石』(笠間書院)です。 yhkondo @yhkondo 今野真二氏には、同様の趣旨をわかりやすく書いた岩波新書の新刊『百年前の日語』もあるのでお読み下さい。そのまま「写す」ということが至難であり、出版社や研究者にも「難しい」ということがよくわかります。

    『「青空文庫」はアブナイ?』に、日本語学研究者から一言
  • 「青空文庫」はアブナイ?

    「「青空文庫」はアブナイ」と題した記事を、twitter経由で知った。ファイル作成上の問題点を指摘するウェッブ上の記述にリンクしてあり、自身で確認した誤りの例として、「坊っちゃん」における送り仮名が上げてあった。名詞の「話」には「し」を送らない。漱石は、正しい用法を守っている。1917年から刊行された岩波版『漱石全集』でも、「し」は送っていない。にもかかわらず、青空文庫のファイルには、「し」が数多く送られている。「こんな杜撰な不正確なテキストで漱石作品が広まることを、とても悲しく思います。」と。疑問に思った点を筆者にお尋ねし、重ねてのご指摘があったので、まとめを作成した。

    「青空文庫」はアブナイ?
  • 神曲 ダンテ・アリギエーリ - Wikipedia

    出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2009年6月) 題名に La Divina が付け加えられた最初の版の表紙 (1555年) 神曲の初版(1472年4月11日発行) Comencia la Comedia, 1472 『神曲』(しんきょく、伊: La Divina Commedia)は、13世紀から14世紀にかけてのイタリアの詩人・政治家、ダンテ・アリギエーリの代表作である。 地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から成る[1]、全14,233行の韻文による長編叙事詩であり、聖なる数「3」を基調とした極めて均整のとれた構成から、しばしばゴシック様式の大聖堂にたとえられる。イタリア文学最大の古典とされ、世界文学史上でも極めて重きをなしている。当時の作品としては珍しく、ラテン語ではなくトスカーナ方言で書か

    神曲 ダンテ・アリギエーリ - Wikipedia