西ボルネオの港町、ポンティアナックが未だオランダの統治下にあった頃のこと。やがては赤道直下の諸都市群中、最大規模に膨れ上がるインドネシアのこの街も、第二次世界大戦以前に於いては人口せいぜい三万程度の一植民地に過ぎなかった。 (ポンティアナック市街の遠望) 衛生状態は悲惨の一言。昭和八年、クラーレ毒の研究のため当地を踏んだ日本の医学者、小倉清太郎なる人物は、当時の街の実景を次のように報告している。 市の人口の大部分を占めてゐるのはマレー人であるが、彼らは一日二、三回、多きは数回のマンデー(水浴)をする。男女を問はず、市街を流れてゐる泥水に近い濁水の中でバチャバチャとやってゐる。否それどころか、彼等は泥水浴?と同時にこの水で、平気で合嗽(うがい)もやってゐる。――かういふ風であるから彼等には風呂といふ言葉はない。 それから飲料水は雨水を溜めて用を便じてゐるが、どこの水槽を覗いて見ても孑孑(ぼう