ブックマーク / smbiz.asahi.com (7)

  • 捨てられる麦芽かすから生まれた新しいお菓子 紅梅4代目から亡き祖父へ

    1965年創業の紅梅(宮城県気仙沼市)は、こだわりの自家製餡を使った和菓子や1日800個を売り上げる揚げパンなどを製造する老舗の菓子製造企業です。若者の和菓子離れに危惧した紅梅の4代目、千葉玄武(げんぶ)さん。人気クラフトビール製造の背景にある、大量の廃棄材「麦芽かす」をアップサイクルして、和菓子離れの進む若者たちに響く商品を作ろうと奮闘します。その原動力の源は、大好きな亡き祖父から託されたある言葉と、伝えたい特別な思いです。 1日揚げパン800個 気仙沼の老舗和菓子店「紅梅」 気仙沼にある老舗和菓子店「紅梅」は、お菓子の向こう側に見えるお客様の笑顔を大切に、伝統的な製法を守りながら、北海道産の小豆を使用した自家製餡にこだわり、地元・気仙沼に人々に愛されるお菓子作りをしてきました。 人気商品「亀の子もなか」 創業以来、65年丹精込めて作り続けている人気商品「亀の子もなか」や季節限定の上生

    捨てられる麦芽かすから生まれた新しいお菓子 紅梅4代目から亡き祖父へ
    kaku_q-karakuwa
    kaku_q-karakuwa 2023/11/23
    若者の和菓子離れに危惧した紅梅の4代目、千葉玄武さん。人気クラフトビール製造の背景にある、大量の廃棄食材「麦芽かす」をアップサイクルして、和菓子離れの進む若者たちに響く商品を作ろうと奮闘します。
  • 「失うものは何もない」から始めた復興 北三陸の「うに牧場」が世界へ

    質の高いウニを一流店や海外に 水産加工会社の長男として生まれた下苧坪さんは、常に海を身近に感じて育ちました。今は豊富な昆布をべて育った質の高いキタムラサキウニを武器に、国内の一流料理店や海外市場へとシェアを拡大しています。 2023年4月には地元で培ったウニの養殖技術を移転し、海外に販路を拡張するため、オーストラリアに現地法人を設立しました。 「北三陸から、世界の海を豊かにする」。そんなスケールの大きいチャレンジは、2010年、父から引き継いだ取引先3社だけが頼りの小さな会社から始まります。 北三陸ファクトリーで扱っているウニ 高級車がボロボロの軽自動車に 下苧坪さんが幼いころ、洋野町の海は「豊か」という言葉そのものだったそうです。昆布やわかめなどの海藻が熱帯雨林のように生い茂っていました。 そのような海域では、ウニや貝類が豊富な海藻をべて育ちます。卵を産み付けたり隠れたりする場所とし

    「失うものは何もない」から始めた復興 北三陸の「うに牧場」が世界へ
    kaku_q-karakuwa
    kaku_q-karakuwa 2023/10/12
    「北三陸から、世界の海を豊かにする」。そんなスケールの大きいチャレンジは、2010年、父から引き継いだ取引先3社だけが頼りの小さな会社から始まります。
  • 「コスパの悪い」製法を強みに 伝統の鰹節を広めるヤマ加商店4代目

    三重県南東部の南伊勢町は熊野灘に面し、県下一の水揚げ量を誇ります。この地で1895(明治28)年から続く「ヤマ加商店」は、4代目の奥村兼一さん(43)が江戸時代からの製法を守りながら鰹節をつくっています。父が他界して37歳で経営を担った奥村さんは補助金などを活用しながら、リーフレットやホームページで希少な伝統製法を強みとして情報発信を展開し、積極的な地域活動で地域の認知度もあげるなど、過疎化の町での商いを続けるために奮闘中です。 江戸時代から続く伝統製法 ヤマ加商店は鮮魚店として創業。屋号は初代が「豊かさの象徴である山がいくつも加えられるくらい繁盛するように」との思いを込めて付け、鰹の加工も創業時から手がけていました。 奥村さんの父の代のとき、地元の古和浦漁港の水揚げが少なくなってから鮮魚の扱いをやめ、鰹節製造のみにシフト。現在は家族4人で、鰹生節、花かつお、くんせいなどを年間10トン以上

    「コスパの悪い」製法を強みに 伝統の鰹節を広めるヤマ加商店4代目
    kaku_q-karakuwa
    kaku_q-karakuwa 2023/07/01
    「鰹くんせい」は鰹の身を薄くスライスしてオリジナルのタレにつけ、サラミ風にくんせいした商品で、かめばかむほどに鰹のうまみと香りが口いっぱいに広がるのが特徴です。製造するとすぐ品切れになるほどの人気商
  • 富士フイルム辞め故郷・獅子島へ 漁師4代目が届けたい「島のごちそう」

    「島のごちそう」社長の山下城さん(39)。獅子島で代々続く漁師の4代目でもある(画像は注記のあるものを除き山下城さん提供) 鹿児島県の離島・獅子島にかつて、漁師たちが立ち上げた「水産加工グループ・島のごちそう」がありました。長らく休眠状態でしたが、島にUターンした山下城(じょう)さん(39)が2019年に活動を再開させ、3年で売上4000万円の事業に成長させました。大企業を辞めて島に戻った決断と、急成長の軌跡について聞きました。 父ら漁師4人で結成、水産物を加工販売 熊県の西側、八代海に浮かぶ獅子島。天草諸島の1つで、行政区分は鹿児島県長島町に属します。鹿児島県の公式サイトによると、人口689人(2015年時点)、全周36.5キロメートル。2021年には島の海岸で翼竜の化石が見つかったとしてニュースになりました。 赤い四角で囲った部分が獅子島(国土地理院のウェブ地図「地理院地図Vetct

    富士フイルム辞め故郷・獅子島へ 漁師4代目が届けたい「島のごちそう」
    kaku_q-karakuwa
    kaku_q-karakuwa 2022/08/23
    (ツギノジダイ)熊本県の西側、八代海に浮かぶ獅子島。天草諸島の1つで、行政区分は鹿児島県長島町に属します。鹿児島県の公式サイトによると、人口689人(2015年時点)、全周36.5キロメートル。
  • 「やる気がない」2代目を変えた震災 「イカ王子」が広める協業の輪

    「イカなんてさばきたくない」 1981年生まれの鈴木さんは幼少のころから、共和水産の息子として地域住民に知られていましたが、当時家業を継ぐ気は全くありませんでした。 「イカを加工する会社なんてダサい。都会に行って派手に暮らしたい」と思っていたと打ち明けます。 中高時代は6年間ソフトテニス部に所属。高校時代に県大会3位になり、2000年4月にスポーツ推薦で仙台市の大学に進みました。 しかし、鈴木さんは遊びやバイトに明け暮れ、02年春に退学し、その後は仙台の繁華街・国分町のダイニングバーで働きました。 「当時、耳や鼻にピアスを開けてツンツンの髪をしていて、地元ではホストクラブで働いているのではとうわさされるほどでした。料理べることが好きで、バーテンにあこがれていました。バイトリーダーから社員になり、そこからホールチーフになって、最後には店を任されていました」 家族からは反対されていたといい

    「やる気がない」2代目を変えた震災 「イカ王子」が広める協業の輪
    kaku_q-karakuwa
    kaku_q-karakuwa 2022/07/29
    (ツギノジダイ)百貨店の水産フェアでは鈴木さん自ら王冠を頭に被り、「イカ王子フェア」を開催。その傍ら、水産業について岩手大学農学部で臨時講師をしたり、観光業者とタッグを組んで宮古市の水産市場を案内する
  • 水産加工業の原材料調達、政府が緊急支援 最大5500万円を補助

    水産加工業原材料調達円滑化緊急対策支援事業の概要(水産庁の公式サイトからhttps://www.jfa.maff.go.jp/j/kakou/kakouenkatsuka.html) 水産加工業原材料調達円滑化緊急対策支援事業とは、おもに中小の水産加工業者の①原材料の調達方法の変更、②販路の維持・拡大、③加工機器の導入を支援する水産庁の補助事業です。補助上限は5500万円、中小企業の補助率は2/3以内です。公募締め切りは6月30日までですが、予算残額や応募状況次第で、再度公募を実施する場合があります。 水産加工業原材料調達円滑化緊急対策支援事業とは 事務局の水産物安定供給推進機構の公式サイトによると、ロシアウクライナ侵攻により、水産加工品の原材料の確保が難しくなっています。この影響が続けば、中小の水産加工業者は厳しい経営状況に陥るため、原材料調達先の多様化などの経費を支援するのが水産加工

    水産加工業の原材料調達、政府が緊急支援 最大5500万円を補助
    kaku_q-karakuwa
    kaku_q-karakuwa 2022/06/13
    (ツギノジダイ)水産加工業の原材料調達、政府が緊急支援 最大5500万円を補助 支援対象となる水産物は、ロシアからの水産物の輸入実績・動向から選ばれています。
  • 社員が大量離職でも……中華食材卸3代目が気づいた料理店からの信頼

    フカヒレをはじめとするたくさんの中華材を扱う「中華・高橋」3代目の高橋滉さん。家業を継ぐと顧客に選ばれる企業を目指して、安定供給や歩留まりの改善などに取り組みました。社員の4分の1が離職する危機もありましたが、逆に取引先との長年の信頼関係を感じるきっかけになりました。中華料理のニーズの移り変わりを機敏に察知し、新しい事業を次々と打ち出しています。 中国人に恩返ししたいと祖父が創業 サメの尾ビレを原料に中華・高橋が製造する最高級品のフカヒレの姿煮(同社提供) 中国語が堪能だった高橋さんの祖父・正(ただし)さんは、第2次世界大戦中、日軍の通訳として中国に赴任していました。そのとき、現地の中国人に大変世話になったそうで、中国人に恩返しがしたいと、終戦後の1953年に高橋商店(後の中華・高橋)を創業。ホタテの貝柱、ナマコ、干鮑、フカヒレなどの中華料理材を築地の乾物問屋市場から仕入れ、周辺の高

    社員が大量離職でも……中華食材卸3代目が気づいた料理店からの信頼
    kaku_q-karakuwa
    kaku_q-karakuwa 2022/03/04
    (ツギノジダイ)フカヒレの仕入先であった、宮城県気仙沼のフカヒレメーカーから事業を譲り受け、製造業にも進出すると、工場の規模を10倍に拡張し、フカヒレ専門店としての存在感を高めていきました。
  • 1