17日の藝術学関連学会連合シンポジウムで話した中身を(やっと)アップしておきます。 擬態としての「音楽学」と奇妙な近代の復活 http://homepage3.nifty.com/MASUDA/ronbun/strangemodern.html この一週間は忙殺に次ぐ忙殺であったよ…。ほんの一週間前のことなのに遠い昔のことのように思える。これ話したときはまだクロアチア戦も始まってなかったのに、いまやオシム監督(候補)について云々しているようなありさまだ。いやはや。 まあそんなことはどうでもいい(ことにする)。先週は楽しかったです。前川さん(id:photographology)がタバコ吸わはる方だったのでたいそう心強かったおいらでありました。美学会でも喫煙者シンポジウムいつか実現しましょう(笑)。久しぶりにへべれけになるまで呑んで3次会の記憶がなかったことは秘密な。 でシンポジウム自体なん
英国王立美術館で 彫刻を飾るための台座が 作品として展示されたミャ〜 これはもちろん ミス 間違い! 事の真相は・・・ 台座と頭部の彫刻が別々に送られ 台座(←作品としての扱い)と頭部の彫刻を選考した結果 頭部の彫刻は落選し、台座が芸術的と判断され 選
某画家の「盗作」とかが、お昼のニュースでまで取り上げられていてびっくりした。アレは盗作などというセンセーショナルなものですらない、戦略も悪意も欠けたルーズな事件で、当然参照元の画家の権利は守られるべきだろうが、どうでもいい話ではないだろうか。そもそも、あの画家が受けていた評価が、それほど大騒ぎするほどのものだったのか。しょせんはその程度の画家が偉くなってしまうような構造しかないのが目に見えただけだ*1。 当たりまえだがシュミレーショニズムどうこう、という水準の話しでもない。今どきシュミラクルがあーだこーだ、と言うだけで時代遅れのレッテルしか張られないが、無論「コピー」が美術上話題性を持つのは教科書的マスターを相手にするか美術の範疇の外のものを取り込んだ時だけで、単なる歴史性の欠除した保守的(とも言わないだろうなあれは)絵画をモノマネしても、ネタにもならない。それをあえて逆手にとって、件の画
……ちょっと小難しくなりますが、社会学的にコンテンポラリーアートを定義づけた Nathalie Heinich さんの文章を借りれば、それは以下のようになります。 (うまく訳せなくてごめんなさい。) 〈造形芸術における現代アートのゲームは3つのパートナーによって行われる。アーティストによるアートの境界線違反、一般鑑賞者の否定的リアクション、そして専門家による統一、この3つがより挑発的な提案、より暴力的な拒否、そして絶えずより唖然とする常態化を生成させる〉 (中略)…… インテリのお遊びということではないんです。過去の美術遺産やさまざまな理念をしらなくても別に問題ではないのでしょう。石原知事が好きなDADAとは違うんですよ。だから石原知事はインテリのムーヴメントの線上にあるアートはお好きだけども、一般大衆向きなテーマを扱った現代アートはお好きではないのかもしれない。 http://blog.
23 名前:番組の途中ですが名無しです 投稿日:2006/05/27(土) 22:25:21 ID:V9zjNmTg0 ルイス・ウェイン(猫のイラストレーター) 発症前 ※以下グロ画像注意。 23 名前:番組の途中ですが名無しです[] 投稿日:2006/05/27(土) 22:25:21 ID:V9zjNmTg0 発症後 自分的にはこれが一番来る 33 名前:(´・∀・`) ◆gNd0Uqckak [] 投稿日:2006/05/27(土) 22:32:02 ID:ZQx32VKz0 ?# 絵には感情がこもる。 >>23を見ていると胸が突かれるような苦しみがある。 58 名前:番組の途中ですが名無しです[sage] 投稿日:2006/05/27(土) 22:39:51 ID:CegEXUPf0 >>23 これはすごい 118 名前:番組の途中ですが名無しです[] 投
2006.05.20 専門家の言う事は分かりにくいですけど。1 (2) カテゴリ:美術 さて、石原都知事の発言を取り上げた際にTBしてくれた方のブログを見ていて、面白いと思ったところがありました。その方も私のブログを肴に論を進めてくれているので、私も返礼せねばと思いつつ、時間が経っておりました。 理解出来ぬ作り、理屈抜きで怒り(回文)kasuhoさん(Tres tristes tigres...) まあ私のは、あくまでも無学な素人の意見ですからね。 さて、kasuhoさんは私の書いたブログの、以下の部分を引用して論を展開されております。 ―紺洲堂の文化的生活より引用部分― 「説明無しには何もわからない。美しくも無く、これという感興も呼び起こさないものは「コミュニケート」を拒絶している、もしくは「分かる人だけ分かればよい」という態度では、無いのと同じじゃないかという彼の不満として、私は理解し
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村上隆氏を今批判している声は、美術的というより社会的文脈しか見ていない。村上氏が「文脈」の人であり「情勢」の人であったことは事実だと思うが、しかし村上氏はそこから外れる部分も持っていると思う。そして、僕が思うのはこの“外れた部分”こそが村上氏の貴重な部分だということだ。 事の発端の概要は以下。村上隆氏が、子供服メーカーと著作権問題で争い和解した。 ●産経新聞のwebページ http://www.sankei.co.jp/news/060424/sha099.htm ●村上隆氏のコメント http://www.kaikaikiki.co.jp/news/list/murakamis_lawsuit/ しばらく前の報道だった。この問題に関しては、東浩紀氏が村上氏に対して疑問点を指摘している。 ●東浩紀氏のコメント http://www.hirokiazuma.com/archives/0002
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060430/1146374995やhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060501/1146508243との繋がりなのだが、kasuhoさんという方の「理解出来ぬ作り、理屈抜きで怒り(回文)」*1を見つける。曰く、 「説明なしには何もわからない」芸術作品、「美しくも無く、これという感興も呼び起こさない」芸術作品、「分かる人だけ分かればよい」芸術作品。そしてこれに真っ向から対立する、一目で理解出来る芸術作品。そして万人が美しいと思える芸術作品。このような二項対立の図式は、果たして正当なものなのだろうか。 しかし、芸術の目的が「美しい」ものや、多くの人が楽しめるものを生産することでしか無い世界は僕にとっては絶望的な世界だ。分からないものがあるからこそ我々は知ろうとするのだし、またそれによって新たな
http://cruel.org/diatxt/diatxt5.html ぼくはアートでなにやら社会問題を表現する、という話には非常に懐疑的だ。でも、アートや芸術作品の魅力の一つが、それが何か自分の状態――それは社会との関係も含む――をうまく表現してくれることにある、というのは否定できない。それは必ずしも特定の社会問題とは直結していない。ただ、ある社会環境の中におかれた自分の状態とは結びついている。ムンク『叫び』に人気があるのは(これを等号で結んでいいかどうかは議論のわかれるところだけれど、この場合その人気は同時にそれが持つ芸術的価値とも同じものだ)、それが何か特定の社会問題と結びついているからじゃない。 うーん、今ひとつ浅いかな。 確かに、現代のコンセプチュアル・アートは生理的な強度というよりは意味的な強度を重視していて、それを味わうためには「文脈」を認識している必要があります。つまり、
ついにゴールデンウィークですね。日本に住む大半の人にとっては、仕事が休みになるシーズンですし、私たち、東京のアート・デザイン“中毒者”にとっては、数え切れないほどあるアート・デザインの展覧会に足を運ぶ願ってもないチャンスです。 ついにゴールデンウィークですね。日本に住む大半の人にとっては、仕事が休みになるシーズンですし、私たち、東京のアート・デザイン“中毒者”にとっては、数え切れないほどあるアート・デザインの展覧会に足を運ぶ願ってもないチャンスです。 現在、東京アートビートには300以上の展覧会情報が掲載されています。いろんな展覧会、イベントの中には、あなたにインスピレーションを与えてくれるもの、笑わせてくれるもの、しかめっ面にさせるもの、考えさせるものもあるでしょう。もちろん失望させるものもあると思います。中には、あなたの考え方そのものを大きく変えてしまうようなものもあるのかもしれません
アート、それからその享受の前提となる教養、そしてポピュリズムというか、エリート主義/反エリート主義といった問題系について、ちょっとは原理的に考えてみないといけないなと思った。石原慎太郎の現代美術を巡る言いたい放題についてのLiberationの記事(の翻訳)*1、そして九谷さんのロックを巡るメモ*2を読んだのが直接のきっかけであるとはいえるのだが。 九谷さんのメモ(というよりも久谷さんがネタにしている南田さん)に対してコメントを差し挟めば、先ず(これも古くて新しい問題だが)フォーク・タームとテクニカル・タームというか、当事者視点と研究者(批評家)視点の関係について、もっと考えるべきだろうと思う。例えば、ロックの「アート」志向云々という場合、その「アート」という概念の意味(定義)について、研究者側が想定している「アート」とミュージシャンが想定している「アート」とファンが想定している「アート」
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