明治維新で8万騎と言われた幕臣は失職、一夜にして路頭に迷うところとなった。 公称8万騎と言っても、実数はその半分程度だった。5千家あった旗本のうち、半分強は「無給でもいいです」とばかりに、徳川本家に従って駿河に下ったものの、その大半はロクに住む家もなく、当然扶持は支給されず、まともな仕事もなく、塗炭の苦しみを味わうところとなった。こうした状況を横目に、退隠した徳川慶喜は自転車を乗り回し、大きな写真機を従者に持たせて写真を撮って歩いていたため、「情のかけらもない」と陰口をたたかれた。 残りの半数弱は江戸に残り、そのうちの半分強が新政府や新設の東京市に出仕、半分弱は商人や農民に転身した。しかし、業種転換したものの多くは、「武家の商法」という言葉の通り、失敗に終わった。結局のところ何とか「イエ」を保てたのは、同僚から陰口をたたかれ、肩身の狭い思いをしながらも明治政府に仕えたものだけだった。 わが