本年度も,我が研究室の卒論生は皆無事に卒論を提出することができました。この研究室に来て4年,50人近くの卒論生をそれなりに見てきてちょっと思ったことがあるので書いておきます。 端的に言えば,ほとんどの卒論生が,論文を書くための訓練を受けていないか,あるいは,受けていても定着していない。これは卒論生を否定したくて言っているのではなくて,大学教育どうなってんだという話です。ちなみに僕が所属しているのは文系心理系。どちらかというと量的研究よりも質的研究のほうが多いかな。でも観察して数値化してみたいなのも多いです。対象は乳幼児が多い。でもその限りでもないです。 卒論を書くための技術というとそれはもうなんでもそうなんですが,特に彼らに足りていないのは以下の2点かなと思いました。 1,統計的検定など,研究法 2,先行研究のレビュー 論文を「書く」技術ってのもあるかなと思いましたが,それは2を進めること
読売新聞2009年11月27日付,「私の教育直言」というコーナーの,政策研究大学院大学教授,岡本薫さんのご意見が面白かったのでご紹介を。一応全文をテキスト化したんですが,著作権とかありそうなので,引用の形で。 日本には,教育の結果として子どもが身に着けるべきことの基準が存在しません。学習指導要領は,子どもに教える内容の基準であり,子どもが達成すべき目標ではありません。国として子どもをどういう状態にしたいのか,目標を決めずに今日まできたことに根本的な問題があります。 目標設定で第1に重要なのは具体性です。ところが,教育については,誰もが「あいまい病」に陥ります。「生きる力」や「確かな学力」は,目標ではなく,スローガンに過ぎない。『○○力を高める』も同様です。具体的にどういう状態を目指すのか特定しないと目標とは言えません。 これ,色んなところで聞く話ですが,こういう公の場で聞くのは結構珍しいか
つねづね申し上げているように、学校教育というのは、「そこでなぜ学ばなければならないかの理由を子どもたちは知らないが、大人たちは知っている」という「知の非対称性」に基づいて構造化されているからである。「いいから黙って勉強しろ」というのが学校教育にかかわる大人たちの基本文である。自分がなぜ学ばなければならないのか、その理由がうっすらとはわかるが完全にはわからないという「グレーゾーン」に子どもを置くのが学校教育の目的である。そうすると、どういうわけだか知らないけれど、子どもの学力は向上することが経験的に知られているからである。 ようやく内田先生の教育観が見えたような気がします。そして,反対します。 「学力」というのは「学ぶ力」のことである。何を知っているかではない。知識や情報や技芸のことではない。「学びたい」という抑えがたい欲望のことである。「学びたい」という欲望は、自分が何のために何を学んでい
「いやいや、先端の人が益々強くなれば、いつかは弱者までおこぼれが回ってくるから、弱者も得しますよ」という言い方に「そんなの詭弁だ!先端企業や勝ち組の人にいくら投資しても、下の人にはメリットは回ってこないのだ!」って言ってたじゃん。「より直接的に、下の人達、弱者にそのお金を回すべきだ!」ってことで民主党政権になったんでしょ? そういうことですよね。この, 彼等は一貫して「競争してトップを目指す」という世界を否定してるんです。 という感覚,意外に浸透していないというか,こないだも友人と飲んでいてこんなことを言ったら,「そこに成長はあるの?」という話になりました。全員が1位を目指すことによって全員の成長にもつながるし,集団としての成長にもつながって,結果全員幸せみたいなイメージってこびりついてますよね。実際はそこに必ず負け組が生まれるし,その人達の声は驚くほど上の人には届かないみたいな社会になる
『加治隆介の議』という漫画の中で,「外交」についてこんなセリフが出てくる。 「外交とは喧嘩ではありません。右手で殴り合っていても,左手は握手しているということが重要です」(原文とは少し違うと思う) 私は,これは外交に限らず,人間関係においてもかなり重要な考え方ではないかと思ってる。特に教授−学習関係においてこの考え方の重要性が浮き彫りになる。日本人は人を褒めるのが下手であるそうだ(http://d.hatena.ne.jp/favre21/20090618#1245293123)。いきおい,日本人の後輩指導は,叱りが中心になる。そこにおいて,後輩が左手での握手を認識できていれば,それほど問題はないが,両手で殴られているという認識に至ってしまうと,悲劇を生みだすことになるだろう。つまり,「この人は自分のためを思って言ってくれている」という感覚と,「この人はただ自分を否定したいだけだ」という感
さて,昨日は配達時間の深夜1時〜5時ごろに台風直撃で,すさまじい雨風の中での配達となったわけですが,そんな状況を配達人の方々が苦々しく思っているかというと実は逆で,みんな妙に楽しそうに準備なり配達なりしていたというのが現実だったりするわけです。 要するに,なんであれ変化は歓迎ということなのかなと思います。あとは,「こんなつらい状況で頑張ってる俺偉い」みたいな自己賞賛かな。すごくつらいことも,何度も続くと嫌になるけど,1,2回なら人間って経験してみたくなるものなのかもしれません。 じゃあ新聞屋はどういうとき本当につらいかというと,「毎日徐々につらさがたまっていく」みたいなのが実感に近いかな。1回1回はそれなりに楽しかったりするんですよ。ああいう仕事って労働の実感みたいなのが得られるし,他の人から駄目出しとかされることもそうないし。 ただ,やはり深夜1時ないし3時に起きて,5時ごろまで新聞配っ
http://d.hatena.ne.jp/kotorikotoriko/20081201/1228091980 面白い。問題は,おばさんが自分のスキルを大したことじゃないと思ってるところにあるんでしょうね。だから後輩に厳しく当たることになる。おばさんが自分のスキルをなぜ大したことじゃないと思うかというと,それ相応の評価を受けていないからということなんでしょう。教育における教師と生徒の衝突のひとつの構造がここにあるような気がしますね。 ところで,スーパーに行くと僕はいつも思うんですが,なんか全体的に雰囲気がよどんでませんか。殺伐としているというか。活気があるっちゃある場合もあるんですけど,そういうときにもあまり笑顔とかはない気がする。特にレジ打ちの人はその傾向が顕著で,やってることは非常にレベルが高いのに雰囲気が死んでる。こめかみの絆創膏がよく似合う感じ。あれなんでですかね。もっとみんな楽
http://www.amakiblog.com/archives/2008/11/29/#001260 田母神氏は不快な人ではなかった。いい人であった。正直で、単純で、そして、失礼な言い方をさせてもらえば、やはり軽率な人である。 ここですよね。僕の印象とほぼ一緒。「軽率」という部分を重く見るか,「不快な人ではなかった。いい人であった。正直で,単純で」という部分を重く見るか。それは個人の関心に相関していると思うのです。 田母神さんのインタビュー(http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081128/plc0811280138001-n1.htm)なんか見ても,上記のイメージがまさにぴったり。そして,僕はどうもこの人が嫌いになれません。 ところで,この件と,今話題の,東大卒で逮捕された人の話は僕の中でちょっと関連していたりします。逮捕された彼に漂うも
ふとそんなことを思った。まあ,卵が先か,鶏が先かみたいな話ではあるが。「人に優しく」ということを考えたとき,障害となるのが,優しくしようとする相手は自分のことをどう思っているのかということだ。人間,嫌われている相手に優しく接するのはなかなかに難しい。具体的に言えば,朝,部屋に入ったとき件の相手を見つけて「おはよー!」と元気に挨拶したとき,相手が「ふん」と向こうを向いてしまっても,まだその人に優しく接することはできるだろうかということ。この場合,人に優しくしようとする自分の側の問題もあるが,相手の側の問題として,自分に話しかけられたら迷惑なのではないかなんてことを考え始めてしまうと,もうその人と笑顔で話すのは難しいことになるだろう。 で,世の中そんな人ばかりだと思っているような人にとっては,誰に対しても,優しく接するのは難しいということになる。なぜなら,みんなが自分のことを嫌っているからだ。
今日は大学のparents dayだとかで,保護者の方々を前に,各ゼミがポスターおよび口頭による発表を行っていた。環境系,福祉系,情報系とあって,僕は環境系で発表を終えたあと,各系の発表をうろうろと見て回っていた。結論から言えば,環境系は概ね分かりづらかった。福祉系は,意義は立派なのだが,発表者が理解しきれていないように感じた。情報系は,大体面白かった。 最近こういうことが多くて,僕はいわゆる文系のさらに基礎的な領域を研究対象にしていると思うのだが,それなのに,いわゆる理系の発表は大体面白いと思う反面,文系の発表は見ていて退屈することが多い。単純に文系より理系のほうが全体的に分かりづらいと思うのだが,反対意見を持つ人間もいるので,これは僕の興味関心に相関した話なのかもしれない。 ただ,研究の道具としての二枚看板と言える「数字」と「言葉」について無理矢理単純化して考えたとき,数字については,
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2008111900991 麻生さんが医者をけなしたとかで話題になってますが,個人的にはこちらのニュースのほうが興味深い。でもあまり報道されてない気がしますね。幼稚園PTA大会に出席した麻生さんが,出席者を保護者ではなく幼稚園教師だと勘違いして,保護者をけなしちゃったという話。 幼保小あたりでは,「家庭教育がねえ・・・」というのはもはや合言葉のようになっており,「問題児はなぜ問題児なのか」という問題に対して,とりあえず「家庭教育に問題あり」と結論付けてしまう風潮は,ないと言えば嘘になります。monster parentsの報道なんかも相まって,そういう傾向は強まりを見せつつあると思いますね。 ただ僕は,以前からこの問題については反論を唱えてきたつもりです。家庭教育が「悪くなった」のではなく,保護者の方々が信念を持って教
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