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宗教に関するkotobukuのブックマーク (33)

  • 『イザヤ書』の歴史的背景とメッセージの焦点、キリスト教に最も影響を与えた預言書

    この記事ではキリスト教でもユダヤ教でも重要な預言者である「イザヤ」が描かれる『イザヤ書』の背景や登場人物について簡単に解説します。 『イザヤ書』の歴史的背景: イザヤの時代と中東の政治動向 イザヤは紀元前8世紀に活動した預言者です。その時代は世界最初の帝国と言われるアッシリア帝国が勢力を拡大していました。この時代の中東において、アッシリア帝国の軍事力は圧倒的で、周辺国を次々と征服していきました。ユダヤ人の王国であったイスラエルとユダ王国も迫り来る脅威にさらされていました。この危機の時代が『イザヤ書』の舞台なのです。 イスラエルとユダの関係 イザヤが活躍する前の時代から、当時のユダヤ人の国はイスラエル王国(北王国)とユダ王国(南王国)に分裂してしまっていました。そしてイザヤが預言を行っていた時期には、イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされることが決定的となり、もはや避けられない事態となっ

    『イザヤ書』の歴史的背景とメッセージの焦点、キリスト教に最も影響を与えた預言書
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    kotobuku 2023/08/31
    旧約聖書のイザヤ書がいくら読んでも分からないので、歴史的な背景とか登場人物を少しまとめてみました。イザヤ書は長い預言書で著者も3人いるという説もあり、長くて難しいですがキリスト教とユダヤ教を知るため
  • [書評]浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか(島田裕巳): 極東ブログ

    書「浄土真宗はなぜ日でいちばん多いのか」(参照)の表題の問いについて関心がある人なら、それは「おわりに」の数ページが扱っているだけなので、さっとそこだけ立ち読みすれば終わる。ただ、さっと読んでわかる回答は書かれていない。筆者の用意した回答としては「庶民の宗教だから」というのが筆頭に来るが、それが明瞭に支持された解説に拠らずややわかりづらい印象を受ける。しかし、そこは書の欠点ではない。 むしろ書全体を読めば、明瞭な答えに導かれる。つまり、浄土真宗は帯から家系による寺の相続が可能になったこと(来寺はそういうものではない)と、帯に伴う縁組みで閨閥が形成できることだ。 浄土真宗を宗教としてみるとわかりづらいが、諸侯や商店の特異とも見ればよいとも言えるだろう。浄土真宗藩や浄土真宗店とでもいうようなものである。さらに江戸時代に幕府から特別に保護されたことの要因も大きい。 ただし、それらの

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    kotobuku 2012/04/26
    浄土真宗は妻帯から家系による寺の相続が可能になったことと、妻帯に伴う縁組みで閨閥が形成できることだ。浄土真宗を宗教としてみるとわかりづらいが、諸侯や商店の特異とも見ればよいとも言えるだろう。
  • 俺がお坊さんだった頃の話書く:ハムスター速報

    俺がお坊さんだった頃の話書く Tweet カテゴリ☆☆☆☆ 1 :名前:1:2011/09/03(土) 09:35:01.28 ID:A1YbAfRM0 小僧時代でよければ 全ての始まりは六歳の時だった 19 :名前:1:2011/09/03(土) 10:19:38.84 ID:A1YbAfRM0 両親が五歳ぐらいの時離婚 俺はまだ保育所時代だから苗字が変わったーぐらいの意識だった 小学校に上がり女子のパンツを追いかけながら学校に行ってた その頃に母が職場の人間に勧誘され入信 これがいけなかった 1:2011/09/03(土) 10:23:34.30 ID:A1YbAfRM0 ずるずるとはまっていった母は俺のお年玉まで寺に入れるようになった 家でも変な仏壇に毎日一時間以上拝む始末 もちろん俺も姉も隣りに座らされた 寺にも週何回も行った 子供の俺には正座が辛かった

    kotobuku
    kotobuku 2011/09/08
    お寺の暗黒面
  • 荒ぶる神の鎮め方 - 内田樹の研究室

    秋葉原のリナックス・カフェで、ラジオカフェの収録。今回はustで画像放映。 平川くん、中沢新一さんと、「カタストロフの後、日をどう復興するか」について、語り合う。 その中で、中沢さんが「第七次エネルギー革命」で人類ははじめて、生態系に存在しないエネルギーを、いわば「神の火」を扱うようになった、という話を切り出した。 そのときmonotheisticとい単語が出て来た。 原子力テクノロジーというのは、いわば「荒ぶる神」をどう祀るかという問題である。 そうである以上、それぞれの社会の「神霊的」なもののとらえ方をストレートに繋がるのではないか。 という話を中沢さんから聞いているうちに、いろいろなことが「がちゃがちゃ」っとつながった。 数千年前、中東の荒野に起きた「一神教革命」というのは、人知を超え、人力によっては制することのできない、理解も共感も絶した巨大な力と人間はどう「折り合って」いけるか

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    kotobuku 2011/04/12
    中東の荒野に起きた「一神教革命」というのは、人知を超え、人力によっては制することのできない、理解も共感も絶した巨大な力と人間はどう「折り合って」いけるかという問題に対しての一つの「答え」であった。
  • 人間が人間であるための神について - 内田樹の研究室

    前に「辺境ラジオ」で名越康文先生と西靖さんとおしゃべりしたときに、「うめきた大仏」の話が出た。 これは海野つなみさん(このペンネーム、今はちょっと口に出しにくいですね)というマンガ家さんが投稿してくれたものである。 大阪駅の北ヤード開発はずいぶん前から衆知を集めて議論されていたのだが、いまだに話がまとまらないようである。 昨日もある雑誌から「北ヤードの再開発について」、三菱地所の役員ふたりと鼎談して欲しいというご提案を頂いた。 もちろん私が「うめきた大仏」構想の推進者であるということなどご存じないままに出た案であろうから、「私の話を聞いたら、不動産会社の役員さんたちは激怒されることでしょう」とお断りした。 「激怒」くらいで済めばいいが、そのせいで「誰だ、ウチダなんて野郎を連れてきたのは!」と上司に叱責されて起案した担当編集者が進退伺いとか減俸処分とかいうことになっては気の毒である。 でも、

    kotobuku
    kotobuku 2011/04/11
    大阪のメインストリートである「御堂筋」はご存じのように、北御堂と南御堂という二つの浄土真宗の寺院を結ぶ道筋のことである。@内田樹
  • 原発供養 - 内田樹の研究室

    昨日の話の続き。 それぞれの社会集団は、「恐るべきもの」と折り合うために、それぞれ固有の「霊的作法」を持っているという話だった。 日人は外来のものを排除せず、それを受け容れ、「アマルガム」を作る。 ユーラシア大陸の東端にあり、これから先はない、という辺境民が採用したのは、いわば、「ピジン型」の文明摂取方法だった。 これはヨーロッパの辺境、アイルランドの文明史的地位と構造的に似ている。 聖パトリキウスはケルトやドルイドの土着の神々たちとのまじわりの中でキリスト教を布教した。 そのときに土着の神々を「根絶」するというユダヤの神の苛烈さを避け、地祇たちを生き残らせた。 それがアイルランドに今も生き残る「妖精たち」である。 前に中沢新一さんとおしゃべりしたときに、『伊勢物語』に出てくる「在原業平」というのは固有名詞ではなく、ある種の「集団」ではなかったのか、という話になったことがある。 彼らは「

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    kotobuku 2011/04/08
    呪鎮の目的は「危険を忘れ去ること」にあるのではない。逆である。「恐るべきもの」を「恐るべきもの」としてつねに脳裏にとどめおき、絶えざる緊張を維持するための「覚醒」の装置として、それが必要だった
  • 『時間封鎖』ロバート・チャールズウィルスン 世界の滅亡を前にじたばたするアメリカの人々の例 - あんとに庵◆備忘録

    正月からこっちなんか色々読んでる。書評がたまりまくったんでまとめ書きしてるんだが、当は日は26日。でも沢山あるんで遡った日付にしてますよ。 先日東京創元社のSF文庫は何故か漢字率が高いと書いたが、漢字で埋め尽くされた題字のがあったので買った。『時間封鎖』ホーガンのに『時間泥棒』バラードのに『時間都市』というのがあるが創元社さんはどーやら「時間」がつくと4文字熟語にしたくなる傾向でもあるのか? 時間封鎖〈上〉 (創元SF文庫) 作者: ロバート・チャールズウィルスン,Robert Charles Wilson,茂木健出版社/メーカー: 東京創元社発売日: 2008/10/31メディア: 文庫購入: 11人 クリック: 68回この商品を含むブログ (118件) を見る時間封鎖〈下〉 (創元SF文庫) 作者: ロバート・チャールズウィルスン,Robert Charles Wilson,茂

    『時間封鎖』ロバート・チャールズウィルスン 世界の滅亡を前にじたばたするアメリカの人々の例 - あんとに庵◆備忘録
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    kotobuku 2011/02/03
    『時間封鎖』書評 終末に対して示す様々な極端な文化的例を読むという感じ@あんとに庵
  • オウム真理教(Aleph・ひかりの輪・山田らの集団)研究はここから オウム真理教リンク集

    現役: 家:宗教団体アレフ ひかりの輪: 21世紀の思想の創造(上祐) ・ ひかりの輪の広場・ アレフ問題の告発と対策 ・ ひかりの輪から、地域の皆様へ ひかりの輪大阪教室のブログ ・ ひかりの輪・長野教室山口雅彦のブログ ・ ひかりの輪・東京部教室 細川美香のブログーカタカムナ(吉野信子) ・ 水野愛子のつれづれ草 ・ 心・からだ・気の鎮めかた研究室(略)(宗像真紀子) 山田らの集団(人は否定): 自由を求めて(アーチャリー) ・ 木の葉が沈み石がうく(カーリー) 引退: 闇が深ければ深いほど星はたくさん見えるから(菊地直子) ・法友(とも)へ(元R師)・テレビが広めたオウム真理教 ・みどりの家族代表野田成人のブログ ・それら全て愛しき日々(新實由紀)-2 ・風邪の彼方へ(マチク) ・宮前一明さんの手記 ・ EiliPrivate~思索の森…奇蹟を求めて(山英利) ・融通無碍(元

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    kotobuku 2011/02/03
    オウム真理教についての資料が色々ある。
  • 毎日新聞心のページ - 内田樹の研究室

    今日の毎日新聞心のページにレヴィナスについてのインタビューが載りました。 毎日新聞お読みでないかたのために、転載しておきます。 -レヴィナスとの出会いを。 三十数年前に修士論文を書いている時、参考文献として読み始めました。でも、何が言いたいのか、当時の私の知的な枠組みではまったく理解できなかった。でも、私が成長するために学ばなければならないたいせつなことを述べていることは直感的にわかった。レヴィナスが理解できるような人間になる、それがそれから後の私の目標になりました。 -レヴィナスから見たユダヤ教とは。 第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていました。なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか。若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出てきました。その時、レヴィナスは不思議な護教論を説いたのです。 「人間が人間に対して

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    kotobuku 2010/12/02
    わが身の不幸ゆえに神を信じることを止めるものは宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるというかたちをとるはずである。レヴィナス@内田樹
  • 御霊信仰 - Wikipedia

    では、人が死ぬと魂が霊として肉体を離れるという考え方は、例えば縄文期に見られる屈葬の考え方のように、原始から存在していた。こうしたことから、「みたま」なり「魂」といった霊が人々に様々な災いを起こすことも、その頃から考えられていた。古代になると、政治的に失脚した者や、戦乱での敗北者などの霊が、その相手や敵に災いをもたらすという考え方から、平安期に御霊信仰というものが現れるようになった。[要出典] 政争や戦乱の頻発した古代期を通して、怨霊の存在はよりいっそう強力なものと考えられた。[要出典]怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王などは亡霊になったとされる。[要出典]こうした亡霊を復

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    kotobuku 2010/09/23
    御霊信仰=人々を脅かすような天災や疫病の発生を怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ平穏と繁栄を実現しようとする
  • 新書120冊目。 - 春のそよ風夏の雨

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    kotobuku 2010/09/16
    キリスト教信者で、仏教徒というのもありではないかと思うくらい。無常を受け容れる心のあり方の智恵という感じで。
  • 「待つ」という宗教心理ー疑いと信仰の間 - 熊田一雄の日記

    年代順に配列しました。超越者を「待つ」状態とは、「半信半疑だが、できれば信じたい」、W・ジェイムズの古典的表現を借りれば「潜在意識的自己」(W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相(下)』岩波文庫、1970年(原文1901ー1902年)、p.376)の水準では信じている、という宗教心理のことでしょう。 ー(生まれて、すみません)(太宰治『二十世紀旗手』初出1937年、エピグラフ) ー私は愛といふ単一神を信じたく内心つとめてゐた(太宰治『満願』初出1938年) ー私を忘れないでくださいませ。毎日、毎日、駅へお迎へに行つては、むなしく家へ帰って来る二十の娘を笑はずに、どうか覚えて置いて下さいませ。その小さい駅の名は、わざとお教え申しません。お教へせずとも、あなたは、いつか私を見掛ける(太宰治『待つ』執筆1942年)。 ー他の点ではすべて健康で可愛らしく感情も豊かでありながら、しかし「僕(わたし) I」

    「待つ」という宗教心理ー疑いと信仰の間 - 熊田一雄の日記
  • 初期新宗教と<原罪感覚> - 熊田一雄の日記

    (前略)けれども、かつて父祖たちが門口に物乞いが立つと施しをしないでおかれなかった気持のなかには、ある種の原罪感覚があったのではなかろうか。 生まれ育った村のなかに無事に今日あるのは、神仏の恩寵そのものであり、そのために隣人を見殺しにするなど、われ知らずに犯した罪はどれほどあるかわからないと、そういう意識はおそらくすべての村人に共通していたのではなかろうか。それほどに飢饉のときの記憶はなまなましく、悔恨にみちたものであった。ようやく平穏をとりもどした日に、物を粗末にすると目が潰れるといって子どもを戒め、少しでも余裕があれば物乞いに施し、災害の日とはうって変わって善根を積もうとしたのも理由のあることであった。昔からの門付けの物乞いが近代社会のルンペンとちがい、つねになんらかの意味で宗教的流民の形をとっていたのはこのためである。彼らへの施しとは、字義どおり贖罪のための喜捨であったといえよう(

    初期新宗教と<原罪感覚> - 熊田一雄の日記
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    kotobuku 2010/08/17
    第二次世界大戦後20-30年間の、日本の新宗教の爆発的な成長は、「戦死者に対する<原罪感覚>」と無関係ではないでしょう。
  • 日本の宗教伝統と<暴力> - 熊田一雄の日記

    特殊にして具体的なる人倫的組織が絶対視されると、それを擁護し発展させることが絶対的意義をもつようになる。したがって自己の所属する人倫的組織の存立がおびやかされる場合には、武力をもってでもそれを守ろうとする。(中略) 日人の尚武の気風は、一部の禅者が弟子を鍛えるにあたって機鋒峻烈であった事実にも認められる。(中略) こういうわけで、日では仏教が特に禅を通じて剣道の精神的根拠を与えることになった。(中略) ここでは戦いにおける殺生の行為が仏教に基礎づけられている。仏教が、戦いにおいて生かされるということをめざしたのは、おそらく日仏教にのみ見られることであろう(中村元『東洋人の思惟方法3』春秋社、1962年;pp.224-232、「力による人倫的組織の擁護」より)。 オウム真理教事件の問題は、おそらくここまで掘り下げて考察する必要があるでしょう。

    日本の宗教伝統と<暴力> - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/17
    戦いにおける殺生の行為が仏教に基礎づけられている。仏教が、戦いにおいて生かされるということをめざしたのは、おそらく日本仏教にのみ見られることであろう(中村元『東洋人の思惟方法3』
  • 宗教者が最大の薬 - 熊田一雄の日記

    (前略)私も学生時代がちょうど抗生物質が入ってきたころですから、抗生物質以前のドクターというのはよくあれであんなに尊敬されてちゃんと信用があったのはおかしいなと思っていたのですがやはりそこはその理由があったわけですね。 幾つかの理由があると思うんで好かれども、一つはやはり肺炎一人治したら名医だと言われたそうですけれども、とにかく医者は患者のそばにいてくれたわけです。往診して一緒に徹夜してカラシを塗れとか何とか言ったわけです。あれで肺の炎症を外におびき出すということがどれだけ科学的根拠があるかどうかわかりませんがとにかく一晩ついていてくれた、それは非常に病人には他にかえがたい一つの処方だったと思います。やはり病気という苦しい過程、特に患者の孤独なところをとにかく医者がそばにいてくれるということ、医者というのは最大の薬のひとつだということ、まず医者を処方しなければならないということを私のクラブ

    宗教者が最大の薬 - 熊田一雄の日記
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    kotobuku 2010/08/17
    「医療崩壊」が言われる現代日本においては、1.病人が孤独なところをとにかくそばにいてくれる、2.我が身の危険を顧みず病人から逃げない、という前近代の医者の役割はむしろ宗教者が担うべきではないでしょうか
  • <掟の門>または個人化した宗教 - 熊田一雄の日記

    ・・・彼は門を通る人ではなかった。又門を通らずに済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった(夏目漱石『門』初出1910年)。 「誰もが掟を求めているというのにー」 と男は言った。 「この長い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれといって来なかったのです?」 いのちの火が消えかけていた。うすれていく意識をよびもどすかのように門番がどなった。 「ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門は、おまえひとりのためのものだった。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」(フランツ・カフカ『掟の門』初出1914年) *100年前にこんなことを考えていたなんて、漱石もそうですが、カフカはつくづくすごい作家です。

    <掟の門>または個人化した宗教 - 熊田一雄の日記
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    kotobuku 2010/08/17
    100年前にこんなことを考えていたなんて、漱石もそうですが、カフカはつくづくすごい作家です。
  • ゲリオン化する身体/再人間化する身体 - 熊田一雄の日記

    (1)さっき私申しましたのは、あれは一端ですけど、女性のほうは思春期を通過する時ステレオタイプな女性の像を描きますね。男性はあれ描けないですね。描くものがない。せいぜい武器ですね。やっぱりあの時期に男性の身体というのはウォリアー、戦士として再編成されますよね。それは平和な時代であろうがなんだろうが、戦士に近づくんですね、身体が。あれはある種の男性にとってはもうそれだけでいいわけなんですけれども、ある種の男性にとっては大変な強制というか、引きずり込まれるという感じがしますね、私のような文弱の徒は非常に嫌だったですよね(中井久夫『記憶・徴候・外傷』みすず書房、2004年、「身体の多様性」をめぐる対話より、p.367)。 永井豪原作の『マジンガーZ』(放映は1972年から1974年)に始まった現代日の「巨大ロボットアニメ」は、「テーマはアダルトチルドレン」という庵野秀明監督の『新世紀エヴァンゲ

    ゲリオン化する身体/再人間化する身体 - 熊田一雄の日記
  • 心理療法の再宗教化のために - 熊田一雄の日記

    心理学科の学生を対象とした宗教心理学演習というゼミを担当しており、毎年三木善彦さんの「内観療法入門ー日的自己探求の世界」(創元社、1976年)を輪読しています。つくづく思うのは、内観療法(内観法)は、やはり基的には浄土真宗の修行法であり、アメリカの12 Steps Spiritualityと同様に、「心理療法の顔をした宗教」だということです。内観療法(内観法)の創始者である浄土真宗の篤信者であった吉伊信さん(1916-1988)は、内観療法(内観法)を、「(罪深いものを救う阿弥陀仏を)信じていた方がいいのですが、信じていない人でも一定の効果はあります。」と位置づけていたそうです(三木善彦さんのご教示による)。 「他者の愛/自己の罪」を凝視させる内観療法(内観法)は、確かに「罪深いものこそ救われる」という宗教的世界観に後押しされなければ、実践はなかなか困難でしょう。また、吉伊信さんの

    心理療法の再宗教化のために - 熊田一雄の日記
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    kotobuku 2010/08/14
    21世紀初頭の先進諸国では、「心理療法の再宗教化」が切実に要求されているのではないでしょうか。
  • オウム真理教のニヒリズム - 熊田一雄の日記

    「新宗教新聞」1997年4月号のエッセーより再録 松被告の初公判こそ、犯罪に関係しなかったオウムの一般信者を脱会させる絶好の機会であった。松被告が頑として自身の松アイデンティティを否定して、聖無頓着の教えをとうとうと述べた時に、裁判官は一言静かに「松被告は聖無頓着なのに、どうして自分は松ではないということにそんなに頓着するのですか」と聞き返すべきではなかったか。 松被告のパーソナリティは、従来のイメージでの宗教家というよりも、むしろ「頭の切れる不良少年」に近いように思う。松被告は「戸籍は忘れた」と述べたが、頭の切れる人間が戸籍を忘れるとは思えず、嘘であろう。当に「聖無頓着」ならば、自分が松であるかどうかですら、もはやどうでもいいはずなのだ。 このように裁判官が一言聞き返せば、松という名の頭のいい不良少年はおそらく立ち往生したであろうし、一般信者は、目がさめていたかもしれ

    オウム真理教のニヒリズム - 熊田一雄の日記
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    kotobuku 2010/08/14
    オウム事件の最大の教訓は、松本被告のように親子関係を整理しきれない、深いレベルであるがままの自分を愛せない人間の愛情は支配でしかなく、自己犠牲もファシズムでしかない
  • 熊田一雄の日記

    太宰の「人間失格」の中に女の義侠心に触れた箇所があります。「自分の経験によると、少なくとも都会の男女の場合、男よりも女のほうが、その、義侠心というべきものをたっぷりと持っていました。男はたいてい、おっかなびっくりで、おていさいばかり飾り、そうして、ケチでした」 https://note.com/sototakei/n/nd27030020275 より転載 記事は「茶道人口減少の原因について」の第三章です。 ではいよいよ題に入りたいと思う。 ここでは私が流派内外で得てきた個人的経験や知識に基づいて書く。3つの原因とは、「免状の価値の凋落」、「流派運営の茶道離れ」、「教授者の茶の湯離れ」である。 toyokeizai.net 川嶋:日語の「触れる」という言葉には、直接触れるというだけでなく、心に触れるという意味もあります。心をこめた手で触られれば、相手は共感されている、支えられている、励

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