長期割引価格 8,400 円 (税込 9,240円) 月あたり 700 円 (税込 770円) ※12カ月分一括のお支払いとなります。 ※プランは12カ月ごとに9,240円(税込)で自動更新です。
ども~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!! しとしとぴっちゃん、梅雨ですね~~。 なんか、気圧のせいか、午後から中ずっと激しい頭痛で、死にかけましたY(>_<、)Y さて、昨日は、「もうひとつのインパール」ということで、歩くパワハラ野郎こと、花谷中将についてチラっとご紹介しました。 しかし、牟田口だけでも強烈だったのに、さらに、花谷、そして、日本に戻った棚橋連隊長を待っていたのは、辻政信の「なんで戦死しなかった!!」という罵倒ですよ。東條もそうだったらしい。 まあ、いまさらですが、この日本軍のショボい体育会みたいなノリは、何に由来するものなのか、頭をかかえてしまいました。 しかも、今の日本にも、プチ牟田口や、プチ花谷みたいな人はゴロゴロしてる。 実は、ボクが地元に帰ってきた最初の職場の上司(病院の事務長)がそういう奴で、「(女性職員の)誰それを何回泣かせてやった。」とか
ギャラリー 前へ 1 2 3 4 5 6 7 8 次へ 資料画像のご利用についてはこちらをご覧ください ※画像をクリックすると拡大表示されます ※うまく表示されない場合は、ブラウザの更新ボタンを押してください 本ウェブサイト内で使用されている版画類の画像はすべて大英図書館から提供されています。また、これらの画像はパブリック・ドメインに属します。 大英図書館請求記号: 16126.d.1(1) タイトル: 黄海之戦我松島之水兵死臨問敵艦之存否 タイトル和訳: 絵師: 小林清親 (1847-1915) 出版元: 松木平吉 出版情報: 1894.11 大英博物館受入情報: 1895/06/11 内容: 黄海海戦 注記: 製作国: 日本 サイズ (cm): 74.8 x 39.9 大英図書館請求記号: 16126.d.1(2) タイトル: 我軍平壌ヲ陥ル之図 タイトル和訳: 絵師: 進斎年光 (?
加藤春江 1945年 夏 私は挺身隊の一員として被服廠に通っていた。 それも女学校4年生の終り、突然、多賀谷先生がコヨリの先に青や赤や黄色を先にぬり、 色とりどりのコヨリを束ねて、手に持ち、両手で上手によじった。 そして生徒皆んなの席に順番に来ては1本づつ引かせた。 皆んなは赤や青のコヨリを手に持った。 先生は真剣な面持でチョークを持ち黒板に書きつづっていった。 赤―被服廠 青―兵器廠 黄―糧秣廠(りょうまつしょう)……… 皆んなは、赤は赤、青は青、と、ひとかたまりになり、わあーわあーきゃあーきゃあーさわいだ。 (皆んな静かにしなさい。皆んな仲良し同吋で行きたいでしょうが、それでは困る人があるんで 公平にする為めに、くじにしたのです) と云った。 私はいやだった。 被服廠10人と云われた時、仲良しは1人もいなかった。 でも決まった事だから我まんした。食べるものがない時だったので母は喜んだ。
今回、『昭和陸軍全史1 満州事変』(講談社現代新書)で取り上げた永田鉄山は陸軍統制派の指導者として、石原莞爾は満州事変の首謀者として、よく知られている。永田は1884年(明治17年)生まれ、石原は1889年(明治22年)生まれで、5歳の年齢差がある。 二人はともに、1929年(昭和4年)に結成された陸軍中堅少壮幕僚のグループ「一夕会」の会員だった。 満州事変当時、永田は陸軍省軍事課長、石原は関東軍作戦参謀。関東軍参謀として石原が現地で満州事変を推進し、永田は陸軍中央の一夕会系幕僚とともに、石原ら関東軍の動きを支援した。満州事変期の二人の関係はそのようなものだった。 そして、永田と石原は、ともに満州事変以後の陸軍で大きな影響力をもつようになる。ただし、石原が実際に陸軍中央で重要な役割を果たすようになるのは、1936年(昭和11年)の二・二六事件後である。永田はすでに皇道派と統制派の抗争激化の
アイドルの起源をどこに求めるかというのはなかなか難問である。「アイドルとは何か」という問いと同様に、何を条件とするかによって答えが変わってくるからだ。1971年の南沙織をアイドル第一号とするのが定説になっているけれど、これにしても仮説がいつしか定着したというだけの話であって、それ以前から「アイドル」という言葉は使われていたし、アイドル的な存在というのもいた。 南沙織=アイドル第一号説の論拠はいくつかあるのだが、一番大きいのは「テレビ(の普及)」だ。つまりメディアにより作られる虚像(とその質)に要点があるということで、映画、ラジオ、レコード……とメディアの変遷を遡っていくと、アイドル的な存在の元祖は、「カチューシャの唄」でポピュラーソング初のヒットを放った松井須磨子に行き着く。「カチューシャの唄」が大流行したのは1914年。ちょうど100年前のことだ。 だが、ということは、メディアという縛り
工学研究科吉田建築系図書室書庫で発見された映画フィルム「関東大震災」の映像が、7月8日に京都大学デジタルアーカイブシステムで一般公開されました。 本フィルムは昨年10月、吉田建築系図書室の貴重書庫において発見されました。フィルムの素材が、劣化に伴い自然発火を引き起こす恐れのあるナイトレートフィルムであったために、慎重に中身の確認を進めたところ、関東大震災直後の都心の様子を収めた記録映画であることが分かりました。その後、工学研究科建築学専攻と京都大学研究資源アーカイブの協力のもとに、不燃フィルム・デジタル映像ファイルへのメディア変換を進めてきました。この度、その映像が京都大学デジタルアーカイブシステムに収録され、下記サイトで閲覧できるようになりました。 【京都大学デジタルアーカイブシステム】 http://das.rra.museum.kyoto-u.ac.jp/ コレクションからみる>京都
明治・大正・昭和の若い男性をガチ恋させた存在≒アイドルの追っかけ生態をひもとく「幻の近代アイドル史」、最高におもしろかった。 明治・大正・昭和の若い男性をマジ恋させた存在≒アイドルの追っかけ生態をひもとく「幻の近代アイドル史」全ページおもしろい…!出待ち入り待ち、レス乞食、執拗なファンレ、親衛隊、友人と書簡でリプ、新聞の投書欄で匿名罵り合い…全部入りすぎる http://t.co/qGZ6wQML9h— もぐもぐ (@mgmgnet) June 23, 2014 ステージに向かっての名前や合いの手のコールの嵐、出待ち入り待ちでの牽制、目線を求めるレス乞食、執拗なファンレターと愛のささやき、親衛隊の結束、書簡でヲタ友とリプ(Twitterみたいだ)、新聞の投書欄で匿名罵り合い(はい、2ちゃんねるですね)……全部入りすぎる!人間はそうそう変わらないぜ!愛はいつだって人を狂わせる!!!! 本書は
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』がそれだ。特に、若い子にはお奨めの1冊だ。 当時の政府が、いかに国民から搾りとることだけを考え、すべてを戦争へと投入していったかが当時の世相とともに、じかに感じ取れる「作品」ばかりだ。それらの多くは、今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。中には、国民をそのもの
執筆者プロフィール 日本には全国いたるところに孫文の逸話が残っている。 たとえば横浜──。京浜急行線の京急富岡駅の近くにある慶珊寺には、「孫文先生上陸之地」と書いた記念碑がある。中華街のある横浜山下町には、華僑の支援者たちが孫文を匿った住居や店舗として、横浜市中区山下町五十二番地、同百二十一番地、同百五十六番地など七、八カ所も記録に残されている。 たとえば長崎──。熱烈な支援者だった鈴木天眼の創刊した「東洋日の出新聞」跡地に「孫文先生故縁之地」の記念碑がある。一九一三年に孫文が寄港した際、「東洋日の出新聞」は連日孫文の動向を報道したという。料亭花月で孫文のおつきの日本人たちが遊興し、酒の飲めない孫文は隣接する鹿島屋で静かに昼食をとったという話も面白い。華僑の集会所である福建会館には、上海市から寄贈された孫文の銅像が立つ。長崎は、孫文の絶大な資金援助者であった梅屋庄吉の出身地でもある。
► 海軍電測学校の開校は1944年9月1日からである。初代の学校長は高橋雄治大佐。 あまりにも遅きに失した。 これは 「あ号作戦」の大敗で後がなくなった時期であった。 海軍が開発した電探(レーダー)はこちら 南太平洋海戦(1942年10月26日)、日本の空母艦載機の攻撃を受け大きく傾いた空母「エンタープライズ」 すでに、艦橋や櫓にはレーダーアンテナが観察できる。 FDレーダー ドップラー効果による機速測定用レーダーである。もう一つは 対空見張用SCレーダーアンテナ。 早くから実戦経験を積み重ね1年8カ月後のマリアナ沖海戦で空戦管制システムを完成させたのである。 日本海軍でも昭和16年(1941)12月には艦船に搭載する対空見張用レーダー二号一型の試作機が完成する。 そして、1942年12月二号二型の量産が決定されたが、艦政本部はその資材を充分に提供しなかった。 紆余曲折をえながらも
東志津『「中国残留婦人」を知っていますか』を読む。 ジュニア新書と思って侮るなかれ。 良書である。 ほかにも読まれるべき個所をいくつも含んでいるのだが、ここでは、数か所のみ引用とコメントをする。 (要するに実際に本を手に取ってくれということだ。) 「開拓移民が渡った先で与えられた土地の多くは、もともとは中国人のものでした。彼らが苦労して開墾した農地に日本人が入植したのです。土地や家屋を奪われた中国人は、その後、小作や苦力(日雇い労働者)として日本人のもとで働くことになりました」 (6頁) これは著者による解説である。 ここでいう中国人とは、満州人を含む中国人を指している。 まず基本的なことだが、満州国とは、このような土地の収奪によって成立している。 結婚を前提に募集をおこなえば、応募者が見込めないと考えた為政者たちは、本当の目的を伏せて人を集めていました。そうした事業に応じて満州に送られた
だよもん氏(@V2pPq9SqY)による『日本郵船戦時戦史』の紹介から同社が戦時徴用で受けた損害の大きさを受けて、ユキカゼ氏(@NAVY_ICHIHO)が終戦後も戦時保障特別措置法と財産税法で結構ふんだくられて(企業再建整備法で何とか生き延びたものの)その時の恨み骨髄は相当なものだった筈で未だに尾を引いていると解説。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く