藤原維基(ふじわら の これもと)、のちに三条維基(さんじょう これもと、元永3年(1120年)4月1日-寿永3年(1184年)4月1日)は、平安時代後期の公卿。従三位・中納言。政治的には長く不遇であったが、自らの屋敷に多くの書物・資料を集め、文芸の振興に力を尽くした。 維基は大納言であった藤原維力の長男として、1120年京都に生まれた。長承4年(1135年)、15歳にして叙爵し以後昇進を重ねたものの、やがて鳥羽上皇と対立し傍流に追いやられ、逼塞を余儀なくされた。このころより世にあるすべての知識の収集を志したとされる。やがて保元の乱が起こり、後白河法皇が院政を開始すると中央政界に復帰。平治の乱では平家側に立ち、これによって平清盛の知遇を得、漢文や中国に関する知識を買われて日宋貿易に参画し、巨万の富を得る。その富で維基は書籍を始め、あらゆる知識の収集を開始し、これを「百科」と名づけた。一般に