ブックマーク / gitanez.seesaa.net (22)

  • わかっていることから逃げろ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 カオスを前にして、ただただ混乱してパニックになるだけか、それともカオスをなんとか制御する手立てを発見しようとカオスのディテール、全体の動向を共にみて思考を巡らせるか。基的には知的に考えるということは、後者のような態度をいうはずだ。 その後者の態度をむずかしくさせるものこそ、すでにわかりきって整理された状態である。 それはもはや制御されすぎていて、どう制御すればよいかを問う余地がないのだから。 その意味ではカオス(混沌)の逆はコスモス(秩序)ではない。真にカオスの反対に位置するのは、操作された状態だろう。 外にあるプログラムを疑うことなく、それに操られて日々スムーズに動き続ける状態。何にも悩まないし、何にも躓くことはない。すべては苦もなく手に入る。 もちろん、そこまで完璧に

  • 人間にとって「創造」という概念自体、発明品だったのかも…: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 前回の「デザインという思考の型から逃れる術があるのか?」という記事のなかでも告知していたイベント「デザインの深い森」。その第3回の講演を昨夜開催しました。 「ウロボロスの洞窟と光の魔術師」と題して行った講演は、keynoteのスライドにして105枚、しゃべった時間はあんまりはっきり憶えてないけど、2時間近かったんじゃないか、と。もちろん、最長講演時間の更新。質疑応答のときは声が出なくなりました。 ▲講演で使用したスライドのサムネイル(クリックして拡大すればもうすこし見える) それこそ2時間も話したので、その内容を要約するのは、むずかしいんですが、 17世紀中頃を境にした「見る」ことと「思考する」ことの関係の歴史的な変遷だとか似たような観点で「照らす」ことと「知る」ことの関係

    人間にとって「創造」という概念自体、発明品だったのかも…: DESIGN IT! w/LOVE
  • デザインという思考の型から逃れる術があるのか?: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近、デザインとは「思考の型そのものである」と考えるようにしています。 しかも、その思考の型は決して特別なものではなく、むしろ、現代に生きる僕たちはデザインという思考の型以外で考えられなくなっている。僕はそう考えるようになりました。 昨今、「デザイン」という概念の重要性が増し、誰もがその力を身につけようと方法論や事例をかき集める風潮がみられますが、この僕の観点からいえば、�むしろ僕らはデザインという型を使わずに考えることができないのだから、当に願うべきはデザイン力を身につけることではなく、いかにしてデザインという思考の型に無意識のうちに縛られている自分を自覚するか、デザインという思考を当の意味で認識対象にするかということではないかと思うのです。� 僕らはみな、デザイン力

    デザインという思考の型から逃れる術があるのか?: DESIGN IT! w/LOVE
  • 読書の歴史―あるいは読者の歴史/アルベルト・マングェル: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 考えるためには「知識」というリソースが欠かせません。 考えるということは、さまざまな知識を組み合わせ、組み立て、その集合・レイアウトから、新たなストーリーや価値、企画や謀略などを生み出す活動に他ならないのだから。その活動の質を左右するものの1つが、知識というリソースをどれだけ有しているか、また、有したリソースにどれだけ可用性を担保できているかということでしょう。 思考のための訓練には、日々、そうした知識のアーカイブをどれだけ進めているかということも含まれるはずです。 そうした観点において、知識をアーカイブし、かつ、その可用性を高く維持するものとしての書籍の地位は、現在においてもさほど低くはなっていないと感じます。 インターネット時代となり、いつでも手元で容易に情報が引き出せ

    読書の歴史―あるいは読者の歴史/アルベルト・マングェル: DESIGN IT! w/LOVE
  • 「途中」を開放することをサービスとして捉える: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日ふと、「作らない」デザインどころではないのだな、と気づきました。 むしろ、僕らには「作れない」んだと思いました。 作らないデザインといったことをよく耳にするようになっていますが、むしろ、作れないと認識したほうが常識的な誤解から抜け出しやすいんじゃないかと、そんな風に思ったんです。 僕らがこれまで当たり前のように感じ享受していたはずの、完成品としての製品を作るということが社会的にもかつてほどは輝きを失いつつあるなかで、僕らは、たとえば「街づくり」といったような作れないものを作り続けるという場に立ちあうことが求められていることを各自がはっきりと自覚しなくてはいけないんだ、と。 閉じた系としての製品をデザインするのと、開かれた系である街やコミュニティをデザインするのは別「街」

  • 記憶や観察力と考える力: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 普段はあまりテレビは見ないのですが、先日風邪をひいて熱をだした際に、ぼんやりとした頭で見ていたテレビ番組でやっていた「絵が描けない人」の特徴の話がとても興味深かったので、今日はその話題から「記憶や観察力と考える力」という話を展開していくことにします。 布団にはいって半分目をつむったような状態で見ていたので、番組がなんだったかも含めて詳しく覚えていないのですが、いま話題にしたいのはこんな2つの事柄です。 絵が下手で、描いた絵を人から笑われることが多い人は、そもそも絵がうまく描ける人に比べて、物事の観察力が弱く、物事に対してあいまいな記憶しかもっていないために、描こうとする対象を頭の中でさえ非常にあいまいにしか思い描けないため、当然ながら実際の絵としても表現できない絵が下手な人

  • デザイン思考による人間中心のイノベーション(講演資料の公開): DESIGN IT! w/LOVE

    普段からいろんなところで、デザイン思考はイノベーションの方法ですというお話をしていますが、今回の講演では、なぜいま「デザイン思考」や「イノベーション」が求められているのか?という理由について、世界的な「未来志向」の高まりという観点から考え、お話させていただきました。 詳しい内容については、会社のほうでやっているThink Social Blogのほうの「未来をつくる方法の1つとしてのデザイン思考」という記事で紹介していますので、あわせて参照ください。

  • 人間や社会にどんな知的ソフトウェアがインストールされているかを知り、それが変更されると何が変わるかを想像できるようにすることの必要性: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 はい。今までで一番長い記事タイトルじゃないでしょうか? 最近、読み始めたウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールという2人の博覧強記の愛書家の対談『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』の序文はこんな文章ではじまっています。 「これがあれを滅ぼすだろう。書物が建物を」 ヴィクトル・ユゴーのこの名言は、『ノートルダム・ド・パリ』に出てくるパリのノートルダム大聖堂の司教補佐クロード・フロロの言葉です。おそらく建築物は死にませんが、変貌するある文化の象徴という役割を失うでしょう。「それに比べて、思想が書物になるのには、わずかの紙とわずかのインクとペンが一あれば充分だということを思えば、人間の知性が建築を捨てて印刷術を選んだからといって、どうして驚くことがあるだろう」。

  • 「原因→結果」から「関係性→変化」へ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近、デザインをめぐる価値観にシフトが起こっているという印象を持っています。 これまでのようにモノのかたちや機能を設計したり、ユーザーの利便性や経験価値の向上を直接デザイン活動の目的にするのではなく、そこからつながりが生まれ、そのつながりを何らかの変化が生れ出るようなベースとしてのシステムをデザインの対象にするトレンドが生まれてきているように感じるのです。 例えば、iPhone/iPadのDockやiTunes Storeを軸としたエコシステム、FacebookのFacebook Connectによる他サービスとのゆるやかな連携などがその例です。 いずれも人、データ、プロダクトの振る舞いといったものとの関係性を定める各種のモジュールを提供するだけで、それを使ってどのような変

  • すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである。: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである。 これはマーシャル・マクルーハンのメディア論の根幹をなす考えです。 マクルーハンがいうメディアは、いわゆるや新聞、テレビやインターネットなどを指すだけでなく、言葉や数、道路や車輪、家や衣服を含めたすべての人工物を含みます。つまり、すべての人工物は人間の機能および感覚を拡張するとマクルーハンは考えているのです。 ここで着目すべきは、メディアが人間の機能および感覚の拡張であるとすれば、新たなメディアを使いはじめることで人間そのものが変化するということでしょう。 ずっと前に、このブログで「ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか」と書きましたし、その考えを中心として、僕は『ひらめきを計画的に

    kybernetes
    kybernetes 2010/11/20
    人工物=メディアだという捕らえ方では十分ではない、ということはひとまずおいておく
  • 経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ/エドワード・S・リード: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「いわゆる情報化時代のアイロニーには、当惑をおぼえざるを得ない」。 このの著者であり、アフォーダンス理論の創始者J.J.ギブソンの流れを引くエドワード・S・リードでそう書いて、「経験のための戦い」をはじめます。 情報を処理し伝達するためのテクノロジーはここ数十年で急速に進んだが、テクノロジーのこの進歩にもかかわらず、人々のあいだの、意味にみちたコミュニケーションは、はなはだ退化しつつある。 と続けながら。 この情報化時代にあって、人々が経験から積極的に意味を形作り、経験から知を獲得することから離れて、すでに加工済みのテキスト情報や動画情報などを受動的に受け取ることやその情報の加工や処理ばかりに、時間や労力を費やすことを、著者は問題にするのです。 それが日常生活のみならず、

  • 常識という無知: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 時々驚かされることがある。 常識人のアナーキーさに。 「無理せず流れにまかせればいい」などと、近代以降の「進歩」「改善」を基的な行動指針を根から覆すような言葉をさらっと口にだす。 このブログにも明らかなように時々、近代以降の方向性に対して批判的な考えを口にする僕さえも、口にすることを躊躇してしまうような言葉をいともたやすくさらっと。そんな根的な近代否定をなんの迷いもなく口にされると、僕のほうが驚いて近代擁護側にまわってしまうくらいだ。 もちろん、それを口にした人にそんな深い考えはない。 きわめて常識的に「無理なく」という保守的な態度を表明しただけだろう。 けれど、だからこそ恐ろしい。 無知であるが故に、過去に人びとが努力して行ってきたことを、さらっと何気なく否定して

  • ユーザー理解とは―: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ユーザーを理解するというとき、その「理解」というものを間違った形でイメージし、理解しているケースが意外と多くみられます。とりわけ多い間違いは、ユーザーとなりえる人の人となりすべてを理解することが、ユーザー理解だと思ってしまうことではないでしょうか。あるいは、漠然と理解するというだけで、何を理解しようとしているのかのフォーカスがなかったりすることもあります。 そもそも、特定の人間のすべてを理解するという漠然としたイメージでそもそもどんなことを理解しようとしているのかもよくわかりませんが、普通に考えて、ひとりの人間のすべてを理解することなんて、そうそうできるはずもありません。長年付き合いのある友人や家族だって、その相手のことを理解できているなんていえないでしょう。 それなのに、

  • マーケティングとユーザビリティに対するデザイナーの失望: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日「製品中心から人間中心のデザインへ」というエントリーを書いたが、それに関連して「デザインの新しい基礎理論」で紹介したクラウス・クリッペンドルフの『意味論的転回―デザインの新しい基礎理論』というのなかに、僕がずっと感じているマーケティングやユーザビリティに対するデザイン側からの疑念と一致するくだりがあったので紹介しておこうと思います。 マーケットリサーチはデザインの革新を制限するだけでなく、人工物の生涯におけるきわめて限定された段階、すなわち販売に焦点を当てることで、デザイナーを失望させた。 まずはマーケティングリサーチに関してですが、ほとんどのマーケティングリサーチがデザイナーにとっては意味をなさない結果しかもたらすことができないのではないかと僕もずっと感じています。

  • モダンデザインの歴史をざっと概観する1: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「モダンデザインの歴史をざっと概観する」<1・2・3> 膨大な視覚表現資料をもとにこの18世紀を中心としたアーリーモダン研究を広範かつ精緻に行い、イメージング・サイエンスという新しい研究分野を牽引しているバーバラ・スタフォードという人がいます。彼女はこの時代の視覚中心の文化に、現代の分析的思考によって様々な分野がバラバラの状態で孤立した閉塞感を突き破る力を見てとります。 スタフォードが書いたに『ヴィジュアル・アナロジー』という一冊がありますが、タイトルが想起させる通り、視覚表現がもたらすアナロジーの力に着目したです。そのの中でスタフォードはこう書いている。 アナロジー化の良いところは、遠くの人々、他の時代、あるいは、現代のさまざまなコンテクストさえ、我々の世界の一部に

  • テキスト情報過多の時代に人は何を感じるか: DESIGN IT! w/LOVE

    いまの時代って、もしかたら単純に情報過多というよりもテキスト情報過多といったほうがいいのではないのかなんて思います。 言い方を変えると文字情報過多。さらに言い方を変えると、一人の人間が摂取する情報全体の割合のなかで占める文字情報の比率がもしかしたら高くなっているんではないかと思います。 「方法依存症」というエントリーでは、方法論の情報収集ばかりを行う割には、自分でその方法を試してみてそこからのフィードバック情報を自分で活かすことが少ない人を方法依存症という風に仮に呼んでみました。 ただ、それは方法論の話に限らず、もっと一般的な話としてみた場合でも、テキスト化された情報の収集には熱心な割に、自分で何かを実際に体験してみて得られる生の情報を役立てるということが相対的に少なくなっているのではないかと思うんです。 純化された情報自分で体験してみて直接情報を得るよりも、誰かがテキスト化した情報を間接

    kybernetes
    kybernetes 2009/03/10
    本当にテキストが情報不足なら、ここまで表現の道具として使われることはない(テキスト≠確定された意味)。自然の移ろいを感じることが難しくなったのは、テキストのせいではなく、合理性の仕業だろう。
  • 基礎デザイン学: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 こういう捉え方、好きだな。 私は、デザインは「あるべき生活世界の形成である」という問題提起をたえず繰り返してきました。(中略)デザインという行為は、基的に、人間の生命や、生存の基盤と安全、日々の生活やくらし方、生き方や生きる方法、生きていくうえでの人々の関係やコミュニケーションや社会形成などにおよぶ、人の誕生から死までの生のプロセス全体と、生命の源泉としての自然環境や、生命あるものとの共生関係を包容する「あるべき生活世界の形成である」に広く深くかかわるものだといえます。 1953年に「芸術と技術の統一」というバウハウスの理念を引き継ぐ形で、バウハウス出身のマックス・ビルが初代校長となって設立されたウルム造形大学で学んだ向井周太郎さんは、社会的改革という理念を失い単なる商業

  • デザインする人に必要な能力は?: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 発作的に、なんとなくデザイン(企画・設計)をする人に必要な能力なるものをまとめてみたくなったので実行(ようは自分の頭のなかを整理するため)。 もちろん、ここでいう「デザイン」は、ある問題を発見して解決するためのプランを考え実現させることをいう。なので、決して狭義のデザイナーのことではありません。 で、そういう意味での「デザイン」をする人にとって必要な能力をまず、ザクッと分類すると以下の4つに分けられるのではないか、と思います。 知る・感じる・疑問に思う解釈する・発想する・組み立てる具体化する・検証する・洗練させる仕事をはじめ、終わらせる どれもデザインをする上では欠かせない。 というわけで、ひとつひとつ整理していくことにします。 知る・感じる・疑問に思うスタート地点はやっぱ

  • ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか。 それはものづくりやデザインに関わる人にとって非常に重要なことではないかと思います。 マーケティング的発想やユーザー中心のデザインというものを誤解していたりすると、ユーザーにはもともと不満やニーズというものがあると想定してしまいがちです。なるほど、調査をしたり、ちょっと話を聞いたりすれば、人は自分が使っているものや自分が置かれた環境に対する不満をいろいろ述べるかもしれません。時にはもっともらしい話で、ある時、○○をしようと思って××をつかったら、△△の問題があってうまくできなかったという話をあなたに聞かせてくれるかもしれません。それを聞いたあなたはなるほどユーザーには「○○をしよう」というニーズがあるんだ

  • ゆゆしき人間中心設計者: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 うーむ。やられた。まさにこの通り。この問題はきちんと考えないといけない。 そもそも言語や文字や画像というものは、その社会のその出来事の連続と変転の、その風土のなかで示された「興」と、そこに属している民族や部族の「体」が対応したものとが、一種の“抜き型”になって発生し、確立してきたものだった。 (中略) これがITデジタル社会に変じたときに、さて、どういうことを感じるべきかといえば、そこに身体を感じるより、むしろ人工的サイバー感覚の極致をこそ感じたほうが、つまりはレプリカントになったと思ったほうがずっともっともらしいのだ。それをむりやりユーザーフレンドリーで、環境にやさしいコンピュータ・ネットワークがありうるなどと思うのは、末転倒というより、事実誤認もはなはだしい。 僕が人