昨日の続き。 これまでの社会では、ほとんどの人間がワイドショー的なお喋りに耽っていようとも、たいして問題になることはなかった。 もともと人間は、ある程度までワイドショー的だ。給湯室談義も、床屋談義も、居酒屋談義も、かしこまって専門的に喋るわけでも、責任を意識しながら喋るわけでもない。学術的な正確さよりもゴシップや醜聞に惹かれ、下世話な話題に相槌を打つ――そうした泡のような言葉は、歴史が始まって以来、無数にわき起こってきたし、これからもわき起こるだろう。 問題は、そうした給湯室談義、居酒屋談義的なものが、インターネットでは泡のような言葉として消えてしまわず、ときには権力や強制力を帯び始めるって点だ。 素人同士のワイドショー的会話は、本来はたわいもなく話され、たわいもなく忘れられていくものだった。純粋な話し言葉だった頃のワイドショー的会話は一過性の度合いが強く、まさに泡のような存在だった。 そ