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茂木健一郎に関するlets_skepticのブックマーク (4)

  • 書籍出版 双風舎:【連載】「脳は心を記述できるのか」

    茂木健一郎から斎藤環への手紙 ■拝復 たいへん興味深い手紙をありがとうございました。斎藤さんがあげられた問題は、どれも私の関心領域(意識の問題)の質にかかわる、エッセンシャルなものと考えます。 お返事を差しあげるまでに、ずいぶんと時間がたってしまい、申し訳ありません。この間、斎藤さんとの往復書簡のことがずっと気にかかっていましたが、さまざまな事情から、ご返信が遅くなってしまいました。心からお詫び申しあげます。 斎藤さんがお手紙のなかでご指摘くださったさまざまな点は、たいへん興味深いことばかりでした。斎藤さんは、「クオリア」を疑いのないこの世界属性として立ててしまうことが、ナルシシズムにつながると書かれた。昨今のいくつかの危険な社会的風潮との関連性も指摘された。また、ジャック・ラカンの「我思う、または、我は在る」という言葉を引用して、(クオリアを感じる主体としての)「私」は、確固とした単一

  • liber studiorum: 何とかホイホイ

    クオリア日記 魂へのご馳走 ぼくは、このは「リトマス試験紙」だと 思う。その通り。 『日語が亡びるとき』ってホントに「何とかホイホイ」だよなあ。 モッチーとかダンコーガイとかモギケンとか、XXXXな人(表現自粛)が引き寄せられる。 「何とかホイホイ」をもう一つ。クオリア日記 文明の星時間 未知の贈りもの ワトソンの考えたことが、科学的仮説として正しいかどうかということが問題なのではない。ただ一つ確かなのは、夜の海の体験のリアリティ。ワトソンは、それを信じた。未知の何ものかを自らの世界観の中に取り込もうという開かれた感性。全く同じ風景を見て、「ああ、イカが光っているのか」と片付けてしまう人もいるだろう。それでは、出会いの質は失われてしまう。   「科学的仮説として正しいかどうかということが問題なのではない」って。 ポエムが書きたいなら、さっさと科学者の看板降ろしな。このセリフを見ると、

  • liber studiorum: 茂木健一郎 VS. 伊勢田哲治

    「日経サイエンス」2月号、さっそく読みましたよ。 いや、伊勢田さん、素晴らしいです。 モギケンに正面から切り込んでます。 これは近来稀にみる痛快事ですね。 伊勢田氏にテレビでの発言について問い詰められて、生命哲学がどうのとか、dankogai並みに斜め上のことを言い出して逃げるモギケン。 モギケンの打たれ弱さがモロに露呈していて、かなり笑えます。 人を前にしての批判は高橋悠治以来じゃないですかね。 このときも打たれ弱さが出ちゃってて爆笑モノです。高橋悠治+茂木健一郎:公開トーク『他者の痛みを感じられるか』(8)菊地成孔との対談ってのもありましたな。脳ミュージック、脳ライフ 要するに、この人は、調子よく相手を持ち上げてワキアイアイと対談、という手が通じないと全然ダメなんですね。 と言うわけなんで、茂木健一郎に対して含むところをお持ちの有名人の方は、直接会って批判すれば楽勝だと思いますんで、

  • 斎藤環と茂木健一郎の往復書簡「脳は心を記述できるのか」 第1信 「価値のクオリア」は存在するか?(斎藤環)

    斎藤環から茂木健一郎への手紙 はじめまして。 はじめておたよりします。斎藤環と申します。 茂木さんの著書は何冊か読ませていただきましたが、その精力的な活動のすべては、とうていフォローし切れていない点をまずお詫びいたします。 そのかわりといってはなんですが、妙なエピソードからはじめさせていただきます。 じつは私は、茂木さんとこれまでに何度かニアミスしているんですよ。たとえば、私は2006年の夏休みにフライブルクに行ったんですが……(といえばピンと来るかも知れませんね)、ルフトハンザ機内で私たち家族の斜めうしろに茂木さんが座っておられました。驚いたのは、往路だけならまだしも、復路の機内でもほぼ同じ位置関係で、なんというか、この「偶有性」には驚かされました。思えばあの時点で、この企画は萌芽的かつ徴候的に成立しつつあったのかもしれませんね(笑)。 私の茂木さんへの親近感はこれに留まりません。私たち

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