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ブックマーク / brighthelmer.hatenablog.com (40)

  • 新聞記者とツイッター - 擬似環境の向こう側

    池上彰さんのコラムが『朝日新聞』にいったんは掲載を拒否されたことをめぐって、同紙の記者の多くが社の方針にツイッター上で反対を表明したことが話題を呼んだ。 ぼく自身はこの動きを好意的に見ていたのだが、批判も少なくない。やらせじゃないのか、自分の会社のことなのに他人事のようだといった批判から、ネット上で社員が会社の方針に反対を表明するなんて企業としてのガバナンスがなっていないというも見受けられる。 ここで考えたいのは、この最後の批判についてだ。たしかに社論の統一や企業ガバナンスを重視するなら、ネット上での記者による実名での意見表明を認めないという方向性もあるだろう。ツイッターが「バカ発見機」とも呼ばれることに示されるように、思わぬトラブルの原因になる可能性もある。実際、どことは言わないが、実名でのSNSの利用を記者に認めていないメディアもあるように思う。 しかし、様々なリスク要因があるとはいえ

    新聞記者とツイッター - 擬似環境の向こう側
  • 「気持ちよさ」の代償 - 擬似環境の向こう側

    『毎日』と『産経』のすれ違い 先日、『毎日新聞』に「『気持ちいい』は気味悪い」というコラムが掲載された。『産経新聞』を読むと気持ちが良いという声に疑問を呈する内容だ。自分と同じような意見だけを読んでいければ確かに気持ちが良いかもしれない。しかし、そこには落とし穴があると主張している。以下、その一部を引用してみよう。 同じ意見で塗りつぶした方が新聞として主張は確かに明確になる。でも新聞の役割とは何か。私たち毎日新聞は、例えば私も関わっている社説では憲法解釈変更に反対してきたが、賛成する記者のコラムも載せてきた。多様な意見を私たちは封じてはならないと考えるからだ。 (出典)熱血!与良政談:「気持ちいい」は気味悪い/『毎日新聞』2014年9月17日東京夕刊 このコラムに対して、『産経新聞』は次のように応答した。 新聞は、事実を正確に伝えるのがもちろん基ですが、各社がそれぞれの立場から論点を提示

    「気持ちよさ」の代償 - 擬似環境の向こう側
    lotus3000
    lotus3000 2014/10/24
    >悲観的な認識枠組みを採用する場合には知らず知らずのうちに人の不幸を願う態度が生まれやすい。
  • 「政治的なもの」を飼い慣らす(2) - 擬似環境の向こう側

    (前回)「政治的なもの」を飼い慣らす(1) - 擬似環境の向こう側 ご存知の人も多いと思うが、「出羽の守」という言葉がある。 「イギリスでは…」「アメリカでは…」というように外国がいかに優れているかを強調する。返す刀で日がいかに駄目かをこき下ろす人物のことだ。 海外の情報を仕入れることが難しかった時代には、この手の出羽の守の出番は多かった。ところが今や、情報が簡単に国境を超えるネット時代。出羽の守はかなり減ったけれども、それでもたまに健在ぶりを見せつけてくれることもある。 他方で、「逆出羽の守」のような存在が目立つようになってきたにも思う。外国での政策の「失敗」を殊更に強調して、日が同じ轍を踏まないよう警告する人たちのことだ。それぞれの国の政策にはそれぞれの文脈があるわけだから、それらを一切無視して「失敗」事例として片付けるというのはどうにも乱暴だが、ネットではこの手の「逆出羽の守」の

    「政治的なもの」を飼い慣らす(2) - 擬似環境の向こう側
    lotus3000
    lotus3000 2014/10/23
    政治的なものの取り扱い方。
  • ヘイトスピーチに寛容な言説空間の誕生 - 擬似環境の向こう側

    ―長いので要約― (1)「表現の自由」を維持するためには、社会を構成する一人ひとりが不快な表現に耐えることが必要だが、生存を脅かすような表現を向けられている人たちにまでそれを要求することはできない。 (2)ネット上での「多数派」の形成は歪さが大きいために、ヘイトスピーチ*1が多数のユーザーに支持されているという錯覚を生じさせうる。自己を多数派だと誤認した人たちはネット上でさらにヘイトスピーチを繰り返し、少数派だと誤認した人たちはそれを批判しにくくなっていく。 (3)結果、ヘイトスピーチの日常化が生じ、以前はそれを支持していなかったような人たちにまでヘイトスピーチの正当性が承認されるようになっていく危険性が生じる。 ―文― 以前、「表現の自由」をテーマに論文を書いたことがある。 そこでの問題意識は、マスメディアが中心となってネットがそれに加担し、少数者の声を抑えこむ流れがどのようにして生じ

    ヘイトスピーチに寛容な言説空間の誕生 - 擬似環境の向こう側
    lotus3000
    lotus3000 2014/10/20
    日本のカジュアルな差別の形成。さらに自分がかつて与えられなかったものを持っているもの対する欲望が重なるともっと厄介だ。
  • マイノリティを「代弁」すること - 擬似環境の向こう側

    このまとめ(『彼女たちの売春(ワリキリ)』(荻上チキ著)への違和感)を読んだ。 ぼくは『彼女たちの売春(ワリキリ)』は良いだと思ったが、やはりこういう感想を持つ人たちもいるんだな、というのが正直なところだ。そこで、ここでは以前からぼくが悩んでいることについて書いてみたい。なお、ここでの話は、売春に限らず一般的なマジョリティとマイノリティとの関係についてのものである。 マジョリティ/マイノリティの3タイプ 話を単純化するために、ここでは3つの立場に限定して書いてみる。ここで言うマジョリティ、マイノリティは権力関係に基いて決まる。なので、数の上では少数派でも権力を持っていればマジョリティだし、多数派でも抑圧されていればマイノリティである。 A:マジョリティに所属し、マイノリティの抑圧に加担している B:マジョリティに所属しているが、マイノリティの境遇に同情的 C:マイノリティの当事者 さて、

    マイノリティを「代弁」すること - 擬似環境の向こう側
  • アジールとしての学校 - 擬似環境の向こう側

    若い人たちによく見られているアニメ作品には「アジール」が登場することが多い。 アジールというのは、外部から隔絶されていて、そのなかでは外部とは別の秩序が成立している空間のことを指す。アニメ作品における典型的なアジールは部室だ。たとえば、『涼宮ハルヒの憂』のSOS団、『けいおん!』の軽音部、『氷菓』の古典部、『ココロコネクト』の文研部などの部室がそれにあたる。 たまに部活の顧問が入ってくる程度で、基的に部室には学生しかいない。だから、外部社会のさまざまな常識が遮断され、独特のルールがそこを支配する。『涼宮…』がもっとも典型的で、外部では成立しようのない涼宮ハルヒの絶対権力によって部室は統治される。 若い人向けの作品にこうしたアジールが登場する理由はよくわかる。精神的には親から自立しつつも、社会的、経済的にはまだまだ親の庇護のもとにある年齢層の若者が、かりそめの自立を体験する場としてそのよ

    アジールとしての学校 - 擬似環境の向こう側
    lotus3000
    lotus3000 2014/09/06
    アジールと自由。
  • 批判の流儀 - 擬似環境の向こう側

    先日、都議会での野次問題に関連して、注目を集めたエントリがある。どこかの大学の教員が授業の枕として話した内容の概要だという。 思慮深いみなさんの事ですから間違える事は無いと思いますが、念のために助言しておきます。 この件でネット上で当事者を批判するのはおやめなさい。 赤の他人の失言をあげつらって公然と批判するというのは、実は非常に難しい事なのです。私よりも年齢を重ねた人でさえも、きちんと出来ない人は少なくありません。その割に、得るものはあまり多くありません。 批判自体は簡単です。ただし、自身の品位や人間性を損なわずに批判するというのは、これは極めて高度な技術に加えて、強い精神力も求められるのです。 (出典)http://anond.hatelabo.jp/20140624211919 実際のところ、これが当に大学教員の話した内容なのかどうかは分からない。けれども、ぼくとしては非常に頷ける

    批判の流儀 - 擬似環境の向こう側
  • 本棚に圧倒される - 擬似環境の向こう側

    さすがに大都市だけあって、ロンドンには書店がたくさんある。 今日はいつもと違うルートで大学図書館に向かって歩いていると、大きな書店に出くわした。さっそくなかに入り、ぼくの専門分野のが置かれている階まで上がる。最上階の人気のあまりないエリアだが、それでも専門図書だけで幅広の棚が3、4はある。関連分野まで広げれば、その数はずっと増える。 アルファベットを読みやすいように顔を横に傾けながら、面白そうなを探す。最新のテーマでもう何冊もが出ていることに驚き、著名な研究者がまた新刊を出したことにまた驚く。「アナタ、また出したんですか」という感じだ。 とにかくというものは次から次へと現れる。正直、3年ぐらい新刊を出すのを止めてみませんかという気分になることもある。これじゃ、いつまで経っても読み終わらないじゃないか。 というわけで、ぼくはいつものように棚に圧倒される。 ぼくがまだ大学生のこ

    本棚に圧倒される - 擬似環境の向こう側
  • 郊外の風景と民主主義 - 擬似環境の向こう側

    郊外の風景 ぼくは大都市の郊外で育った。いまから何十年も前の話だ。 ちょうどぼくが生まれる直前ぐらいに大規模な集合住宅が建設され、多くの若いファミリーが引っ越してきた。それ以外にも多くの若いファミリーが暮らしており、当然、ぼくと同世代の子どもたちがたくさんいた。小学校は1学年6クラス、中学校に至っては11クラスまであった。 公園にはいつも子どもたちがたくさんいて、少年野球のチームやそろばん塾、ピアノ教室や習字の教室も盛況だった。ぼくはそろばん塾に通っていたが、待合室のようなところで『少年ジャンプ』で「北斗の拳」を読むのが楽しみだった。 小学校までの通学路にはわりと大きなおもちゃ屋があり、学校に帰りに店先にガンダムのプラモデルが並んでいるのを見ると、急いで家まで財布を取りに戻ったのも懐かしい。早くしないと人気のモデルが売り切れてしまい、不人気なモデル(ボールとか)しかなくなってしまうのだ。

    郊外の風景と民主主義 - 擬似環境の向こう側
    lotus3000
    lotus3000 2014/06/07
    同じ世代としてこの感覚はある。
  • 「政治的なもの」を飼い慣らす(1) - 擬似環境の向こう側

    先日、ネットで舞の海秀平氏の「排外」発言が話題になったことがあった。発端になったのは『週刊金曜日』のこの報道。舞の海氏の発言として、以下のように伝えている。 「外国人力士が強くなり過ぎ、相撲を見なくなる人が多くなった。NHK解説では言えないが、蒙古襲来だ。外国人力士を排除したらいいと言う人がいる」 (出典)週刊金曜日ニュース» ブログアーカイブ » “昭和天皇万歳”集会で――舞の海氏が排外発言 しかし、後になってこの報道が悪質な「切り取り」であることが判明する。このサイトで文字起こしが行われているが、それによると上の発言は舞の海氏が持論を展開するための枕詞に過ぎず、氏の来の主張は次のようなものだった。 でも見方を変えますとね,今大相撲を支えているのは,実はモンゴル人なんですね。モンゴル人がいるからこそ,私達は横綱の土俵入りが見れるんですね。 (出典)nix in desertis:舞の海

    「政治的なもの」を飼い慣らす(1) - 擬似環境の向こう側
  • リベラルのことばが届かない - 擬似環境の向こう側

    ネット上では「サヨク」や「リベラル」を嘲笑し、罵倒する言葉に溢れている。 そもそも、誰が「サヨク」で誰が「リベラル」なのか、いまいちはっきりしないのだが、たとえば『朝日新聞』でよく見るような意見の持ち主を指すと考えていいんじゃないかと思う。護憲、歴史修正主義に反対、国際的融和の重視、反ナショナリズムといった主張がそれにあたる。他方で、格差や貧困の是正や社会保障の拡充などは典型的な左翼的主張だとも言えるが、この点についてはそれほど批判されない。 いずれにせよ、ここではそうしたリベラルの「ことば」が届かないという事態について考えてみたい。まず、12月25日の『朝日新聞』に掲載された星野智幸さんの論説を一部紹介しておこう。 それにしても、不思議に思う。あれほど政治や社会を熱く語ることを毛嫌いし、冷淡だった人たちが、今にしてなぜ、こうもナショナリズムに入れ込んでしまうのか。(中略) ナショナリズム

    リベラルのことばが届かない - 擬似環境の向こう側
  • ポジティブ・フィードバックの誘惑 - 擬似環境の向こう側

    「表現の自由」はなぜ必要か 昔、ぼくがまだ大学院生だったころ。大学のゼミで「表現の自由」はなぜ必要なのかを議論したことがあった。 ぼくは「表現の自由」や「言論の自由」は基的人権の一部であり、それは不可侵だと主張した。しかし、たとえば戦争などの緊急事態にあるとき、国家はどこまで人権を保証することができるだろうか?戦争が始まってしまえば勝利こそが最優先課題であり、とにかく国民の一致団結が不可欠である。そうした状況下では国民の士気を損なうような言論は制限されてしかるべきではないか?そのような主張にぼくはうまく応えることができなかったように思う。 情報システムとしての国家 この問題について、ぼくがこれまでで最も強い説得力を感じたのが、カール・ドイッチュが『ナショナリズムと社会的コミュニケーション』で展開している議論だ。ちょっと堅苦しい言葉が並ぶけれども、ここで言っていることは難しくはないと思う。

    ポジティブ・フィードバックの誘惑 - 擬似環境の向こう側
    lotus3000
    lotus3000 2014/06/07
    ポジティブフィードバックとネガティブフィードバック
  • 知識人の消滅 - 擬似環境の向こう側

    (過去ツイートの再編集) 國分功一郎さんと麻木久仁子さんの対談記事に気になる箇所があった。 (麻木さんの発言)特に学者さん、知識人階級の人たちね。まず最近の知識人は、遠慮してるのか謙遜してるのか知らないけど、自分たちが知識人階級だっていうことを必死に否定する。でもあなた方は厳然としてインテリゲンチャなんだ、そこを見て見ないふりをすべきじゃない、と私は思ってるの。 (出典)http://www.gentosha.jp/articles/-/410?page=4 麻木さんは「知識人階級」という言葉を使っているが、「インテリ」と言い換えてもいいだろう。少なくとも、ぼくと同世代(つまり団塊ジュニア世代)以下の大学教員や研究者で、「自分は知識人である」「インテリである」と自己規定する人は、ほとんどいないんじゃないかと思う。 言うまでもなく、その大きな理由の一つは「知識人」や「インテリ」がもはや蔑称で

    知識人の消滅 - 擬似環境の向こう側
    lotus3000
    lotus3000 2014/06/07
    コメ欄注意
  • 物語は人を追い詰めるのか - 擬似環境の向こう側

    『おおかみこどもの雨と雪』をめぐって いきなりで恐縮なのだが、『おおかみこどもの雨と雪』の話だ。何でも12月20日に日テレで放送されるらしい。 この映画が劇場で上映されたさい、以下のブログのエントリが話題になったことがあった。コメント欄を見ても、微妙に炎上している感がある。 映画『おおかみこどもの雨と雪』の母性信仰/子育ては1人では出来ません - デマこいてんじゃねえ! 上のエントリで述べられている主張を一言で言えば、『おおかみこども…』は「母性信仰」が強すぎるということになるだろう。つまり、子育てにまつわる多大な困難が主人公の「母性」によって乗り越えられてしまう、というわけだ。 以下はネタバレだが、主人公の女性は狼男の血を引くこども二人をたった一人で育てることになる。ただでさえ辛いシングルマザーなのに、彼女の子どもたちは人間と狼の中間的存在であり、病院にさえ連れて行くことができない。予防

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  • 社会のため息 - 擬似環境の向こう側

    以前、さる研究会に出ていたときの話。その研究会はわりと高齢の「左」系の人で構成されていた。研究会のテーマも自ずとそっちの方向に行くのだが、それよりも気になったのが、結論がしばしば「新自由主義が悪い」「米国が悪い」というところに落ち着いてしまう点だった。 そりゃ突き詰めていけばそういう話になるのかもしれないのだが、あまりに画一的な流れがどうにも気になった。そこで「何でもかんでも新自由主義のせいにしてしまうのはどうなんですかね」ということを遠回しに言うわけだが、どこまで通じていたかはわからない。 もちろん、このように何でもかんでも特定の要因に還元してしまう発想は「左」の人たちに限った話ではない。何でもかんでも『朝日新聞』が悪いことにしてしまう主張は、靖国参拝を始め、ネットではお馴染みだ。日の一言論機関にそこまでの影響力があるという見方は『朝日新聞』の中の人にとってもまんざらでもないのかもしれ

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  • 「話せばわかる」という欺瞞 - 擬似環境の向こう側

    ぼくが電話回線を使ってネットに初めて接続したのは、いまからもう20年近く前の話だ。日でインターネットの商業利用が開始されてからまだ数年しか経っておらず、当時のぼくにとってネットはそれほど面白いものではなかった。 むしろ、ネットに接続するついでに加入したパソコン通信のほうがずっと楽しかった。若い人だと知らない人も多いかもしれない。ぼくが参加していたのはASAHIネットだったが、そこでは様々なフォーラムが用意されていて、関心のあるフォーラムに入れば見知らぬ人と特定のテーマで意見を交換することができた。画像のやり取りはできないので、完全に文字だけのコミュニケーションだ。 実にこっ恥ずかしいことをぼくもいろいろと書き込んだりしていたのだが、そこではどうしても参加者間の衝突が起きた。ASAHIネットでは実名でのやり取りが前提だったが、それでもかなり激しいやり取りが行われることがあった。最大規模を誇

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    lotus3000
    lotus3000 2014/06/07
    この壊れてしまって粘着化する問題は、ネットでしかコミュニケーションをとってない人には別の問題を起こしそうだ。
  • 分析概念の暴力 - 擬似環境の向こう側

    ぼくが嫌いな言葉の一つに「御用学者」がある。 言うまでもなく、震災後に急速に使われるようになった言葉だ。その意味は、電力会社から研究費を受け取っているがゆえに原発の安全性ばかりを言い立てる研究者ということになるだろう。 もっとも、実際の用途では、その研究者が当に電力会社から研究費を受け取っていたかどうかはさほど問題にならなかった。原発の話題がまだネットを騒がしていたころには、とにかく電力会社や原発に好意的だと見なされるような発言をしていれば「御用学者」だとカテゴライズされてしまっていたように思う。カネを受け取っていないのに、体制に好意的な人を指す言葉として「エア御用」なんてのもあったわけだが。 この手のカテゴライズが問題なのは、たとえ人がどれだけ悩み、考えた上での行動や発言であったとしても、それが全て御用学者というカテゴリーに還元されてしまうからだ。発言者としての主体性は完全に否定され

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  • 「ドロドロしたもの」の政治学 - 擬似環境の向こう側

    かつて田中角栄は「政治は欲望の分配」と述べたのだという。 政治家には様々な人びとが利権を求めて群がる。それをどう調整し、多くの人びとを満足させるかに政治家の手腕はかかっているというわけだ。利益の調整を得意とした田中らしい言葉だと言える。 もちろん、それが政治の全てだと言うわけではない。だが、政治システム論で有名な政治学者デヴィッド・イーストンもまた、政治を「社会に対する希少価値の権威的配分」と定義している。カネ、資源、名誉、糧。いずれにせよ万人が欲しいだけ手に入れられるものではない。だからこそ、政治が権威をもって人びとに納得させるかたちでそれを分配しなくてはならない。 裸一貫で叩き上げた政治家ときわめて抽象的な理論で鳴らした学究の徒とが奇しくも類似した結論に到達しているのを見ると、やはり政治と欲望は密接に結びつかざるをえないのだろうと思う。 ここでは、政治にまとわりつくこのような欲望を「

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  • 「世界最悪の事態」を迎えた人びと - 擬似環境の向こう側

    安部首相が現在の日中関係を第一次世界大戦前の英独関係に例えたということが話題になっている。 今年は第一次世界大戦が勃発してからちょうど100年目ということもあり、何かと話題になることも多い。そこで、このエントリでは、当時の人びとが第一次世界大戦をどのように迎えたのかということを少し書いてみたい。もっとも、ぼくは専門家ではないので、大したことは書けないのだが。 ウォルター・リップマンは、20世紀の前半から半ばにかけてアメリカを代表するジャーナリストだった。第一次世界大戦が勃発した1914年夏、リップマンは偶然にもヨーロッパに滞在していた。イギリスでの仕事を終えてスイスへと向かう途中、リップマンはベルギーのブリュッセルでオーストリアがセルビアに宣戦し、ヨーロッパ情勢が急激に緊迫してきたことを知る。リップマンはその日の日記にこう走り書きしている。 ヨーロッパ戦争近し。ブリュッセルはパニック状態。

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    lotus3000
    lotus3000 2014/06/06
  • リベラルなナショナリストに勝ち目はあるか - 擬似環境の向こう側

    前回のエントリが意外なことに結構多くのブックマークを集めた。ブックマークのなかには「リベラル・ナショナリズム」について言及しているものもある。そこで、このエントリではリベラルなナショナリズムを取り上げてみたい。 …のだが、まずはぼくの個人的な体験談から。 あれはぼくがまだ大学院生だったころの話。友人と飲み会のあり方について議論をしていたときのことだ。ぼくは以前のエントリでも書いたように、アルコールに弱いこともあり、一気飲みなどで盛り上がるのが好きではない。たとえそれほど盛り上がらなくても、個々人が好きなように飲めば良いではないかという立場だ。それに対して友人は、飲み会で重要なのは場のノリなのであって、そういう空気を乱す行為は良くないと主張していた。 そこでぼくが思ったのは、思想の左右と集団主義的な思考というのはあまり関係ないのではないかということだ。というのも、思想的に見ればその友人はぼく

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