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ブックマーク / brighthelmer.hatenablog.com (40)

  • 非凡なものを何も持ち合わせていないことの発見 - 擬似環境の向こう側

    平昌オリンピックが開幕中である。政治的な問題がいろいろと取り沙汰されているが、なんだかんだ言って、それなりに競技の結果も話題になっているように思う。 今だから言えることだが、ぼくは昔、オリンピックに出たいと思っていた。中学3年生のころの話である。種目は陸上競技。ぼくは陸上部を引退したばかりで、高校受験を控えていた。 「オリンピックに出たい」というからにはさぞや優秀な選手だったのだろうと思われるかもしれないが、そんなことは全くなかった。地区大会すら突破できない成績しか残せていなかった。 それでも、「自分のなかには秘められた才能が眠っていて、ちゃんとトレーニングすればそれが開花するのではないか」などと何の根拠もなく思っていた。そうして、自分が出場する予定のオリンピック男子100m決勝のアナウンスを妄想したりしていたのである。 そういう妄想も手伝って、高校に進学すると、ぼくはまた陸上部に入った。

    非凡なものを何も持ち合わせていないことの発見 - 擬似環境の向こう側
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    lotus3000 2019/05/31
  • 「政治の季節」の過ごし方【追記あり】 - 擬似環境の向こう側

    【注】趣旨がうまく伝わっていない箇所と誤った箇所とがあったため、追記しました(2015/8/7) 「事実」による印象操作 『朝日新聞』の富永格特別編集委員のツイートが炎上した。NHKなどのメディアでも報道され、富永氏はツイートを削除している。 朝日新聞社によりますと、特別編集委員は今月2日、ナチス・ドイツのカギ十字の旗などを掲げた人たちのデモ活動の写真を掲載したうえで、「東京での日人の国家主義者によるデモ。彼らは安倍首相と彼の保守的な政権を支持している」などと英語で書き込みを行ったということです。 (出典)朝日新聞特別編集委員 不適切ツイートで謝罪 ただし、富永氏がツイートを削除したことに対する反発も強い。富永氏の書き込みは事実であり、削除したことによってデマだという印象が広がってしまったというのだ。そのため、富永氏にツイッターで苦言を呈した『朝日新聞』の武田肇記者に対して激しい抗議が行

    「政治の季節」の過ごし方【追記あり】 - 擬似環境の向こう側
  • 憐れみが人を殺すとき - 擬似環境の向こう側

    どうにも整理のつかない話というものがある。 先日、ネットを見ていると、高齢の男性が長年連れ添った伴侶を殺害したという事件の記事がアクセスを集めていた。少し長いが、記事を引用してみたい。 93歳の夫が体の痛みを訴えていたに頼まれて殺害したとして、嘱託殺人の罪に問われた公判が千葉地裁で開かれている。夫は「今でも愛しております」と語り、2人の娘は「父は追いつめられていた。ごめんなさい」と悔やんだ。 (83)への嘱託殺人の罪に問われているのは茂原市の無職の夫。家族によると、軽度の認知症という。 起訴状などによると、夫は2014年11月2日、自宅でから殺してほしいと依頼され、ネクタイで首を強く絞めたとされる。 夫は自ら110番通報。その後、は死亡。生前、「家族に迷惑をかけたくない」とメモを残したとされる。(中略) 法廷での被告人質問や長女と次女の証言によると、東京・浅草の職場で出会い、結婚

    憐れみが人を殺すとき - 擬似環境の向こう側
  • 「リベラル」って誰のこと? - 擬似環境の向こう側

    ネットではよく「戦後リベラルは…」といった物言いを目にする。そこで言及される「戦後リベラル」というのは大抵頭の悪そうな主張をしていて、柔軟性に欠ける一方、平気でダブルスタンダードを行使する卑劣な輩であったりする。 こういう物言いが気になるのは、ぼくが自分のことを(一応は)リベラルだと考えているからなのだろう。自分では全く支持しないような意見であっても「リベラル」だというだけで、それを支持していることにされてしまう。これはあまり愉快な経験ではない。 おそらくそれは「リベラル」に限った話ではないはずだ。「フェミニズム」、「サヨク」、「ウヨク」、「ネトウヨ」等々のカテゴリーにしても同様のはずだ。自分では口にしたこともないような意見についてまでそれを支持していることにされてしまう。実際、この手の粗雑なカテゴライズは緻密な議論を展開するうえではそれほど役に立たない。むしろ邪魔になることのほうが多いだ

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  • ネットで炎上しないために - 擬似環境の向こう側

    一時は沈静化していたようにも思うのですが、最近になってまたネットの炎上が相次いでいます。そこで、以前、学生に配布するために作ったマニュアルの簡易版をアップすることにします。2年ぐらい前に作ったものなので、内容的には古くなっている部分もありますが、現在でもだいたいは妥当するのではないかと思います。 炎上を引き起こすような人自身がこの過疎ブログを見る可能性は皆無に近いと思うのですが、教員等の方が学生に指導なされるさいに参考にしていただければ幸いです。 どのような書き込みが炎上するのか 炎上するきっかけは、大きくわけて以下の4つのパターンに分類できる。 (1)悪事の告白 飲酒運転、キセル乗車、バイト先でのいたずら、未成年の喫煙・飲酒、違法ダウンロード、他人の写真のアップロード、カンニングなどの違法行為/反社会的行為の書き込み。これらのケースでは、炎上した後に「冗談だった」という言い訳がなされるこ

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  • 「ネット右翼が増えたのはリベラル左翼のせい」という主張について - 擬似環境の向こう側

    ものすごく長いので先に結論。「ネット右翼が増えたのはリベラル左翼のせい」という主張を受け入れるのなら、「リベラル左翼」は西村眞悟氏を支持すべきである。 以下、題。 「ネット右翼が増えたのはリベラル左翼のせい」という主張をさいきんよく見かける。これをネット右翼自身が主張していたら「俺らがグレたのはよー、先公がわりーんだよ」みたいな責任転嫁丸出しの甘えた言説になるので、おそらくはネット右翼ではない人たちがこういう主張をしているのだろう。自身の政治的立場を説明するのに他人のせいにするというのは格好悪すぎる。 それはさておき、この主張を額面通りに受け入れた場合、いかなる理由付けになるのだろうか。ぼくのようなへなちょこリベラルにも反省する部分があるかもしれないので、とりあえずいくつかの可能性を考えてみる。 (1)学校教育への反発 この手の話でよく出てくるのが、学校で「リベラル左翼」思想を押しつけら

    「ネット右翼が増えたのはリベラル左翼のせい」という主張について - 擬似環境の向こう側
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    lotus3000 2015/06/08
  • 根拠なき自信も悪くない - 擬似環境の向こう側

    根拠のない自信を持っているひとはバカにされやすい。 典型的なのは、いわゆる「意識高い系」だ。仕事ができないくせになぜか根拠のない自信だけはあり、周囲に多大な迷惑をかけまくる、というのが典型的な意識高い系のイメージではないかと思う。普段は大口を叩いている人物が、いざとなったら醜態を晒すというのは、ドラマやアニメのお約束の展開と言ってもいい。 しかし、である。ぼくは(程度にもよるが)根拠のない自信はわりと大切ではないかと思っている。以下でその理由について述べていきたい。 時に、スポーツは生まれ持った才能がほぼ全てだと言われることがある。たとえば、以前、元陸上競技選手の為末大さんが次のようなツイートをして話題を呼んだことがある。 成功者が語る事は、結果を出した事に理由付けしているというのが半分ぐらいだと思う。アスリートもまずその体に生まれるかどうかが99%。そして選ばれた人たちが努力を語る。やれ

    根拠なき自信も悪くない - 擬似環境の向こう側
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    lotus3000 2015/06/07
    とはいえこれが政治になると難しいんだよな。ナルシストばっかりだと組織が壊れたり、カルト化の遠因だったりするから。
  • 言葉のブーメランが返ってくるとき - 擬似環境の向こう側

    ネット上ではやたらと攻撃的なひとが少なくない。 とにかく他者や他集団に対して攻撃的な書き込みをする。それも一つの芸風だと言ってしまえばそこまでだが、そういうひとは防御力が弱くなることも多い。 というのも、誰かを攻撃するためには何らかの理由が必要だからだ。「こんなに酷いことをする(言う)なんて」という理由によってひとは他者や他集団を攻撃する。だが、攻撃をする回数が増えるほどにその理由づけも増えていく。結果、自分自身の行動がそれに当てはまってしまう可能性がどんどん上がっていくのだ。そうなれば、自分自身の言葉がブーメランになって返ってくることもそれだけ多くなってしまう。言論戦において「攻撃は最大の防御なり」は必ずしも妥当しない。 もっとも、言動の一貫性など最初から気にせず、他人からそれを指摘されたとしても無視すればよいだけなのかもしれない。しかし、そういう人は他人からも「そういう人」だと見なされ

    言葉のブーメランが返ってくるとき - 擬似環境の向こう側
  • 「ナショナリズム批判」というナショナリズム - 擬似環境の向こう側

    むかしから、愛国心(patriotism)とナショナリズム(nationalism)はまったく違うものだとよく言われる。たとえば、ジャーナリストにして小説『1984年』や『動物農場』を書いたジョージ・オーウェルは、愛国心について次のように述べている。 「自分では世界中でいちばんよいものだと信じるが他の人びとにまで押しつけようとは思わない、特定の場所と特定の生活様式に対する献身」 (出典)ジョージ・オーウェル、小野協一訳(1968=1995)「ナショナリズム覚え書き」(川端康雄編『水晶の精神 オーウェル評論集2』平凡社、p.36。 他方、オーウェルはナショナリズムについては次のように述べる。 「人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何千万という人間の集団全体に自信をもって『善』とか『悪』とかのレッテルを貼れるものと思い込んでいる精神的習慣」、「自己をひとつのネーションその他の単

    「ナショナリズム批判」というナショナリズム - 擬似環境の向こう側
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    lotus3000 2015/05/31
    オーウェルのナショナリズム論再考。ナショナリズム批判のパラドックス。日本の場合だと最近これが大きくなっているような。
  • 努力を「語る」流儀 - 擬似環境の向こう側

    学歴の話はなぜ荒れるのか 学歴というのはとても荒れやすいテーマだ。 ほとんどの人が学校教育を経て成人する現代社会において、それはやむを得ない部分もある。それぞれに様々な経験があり、それらから導き出された何かしらの考えがある。自分と違う意見を見れば批判したくもなる。万人に支持される意見を語ることはおそらく不可能だ。 たとえば、赤木智弘さんによるこのエントリも、コメント欄ではさまざまな意見が書き込まれている。赤木さんの文章の一部を引用する。 子供の学力は子供の意志に関係なく、子供の親が子供に対してしっかりと金を使い、勉強に没頭するような環境を用意できるかどうかで決まってくる。学歴というのは親が用意した道に他ならず、人の努力すら親が用意したものなのである。 (出典)努力という言葉に見る日の落日 さてここで、ぼく自身の経験を振り返ってみたい。ずっと以前にもブログに書いたことがあるが、こんな話だ

    努力を「語る」流儀 - 擬似環境の向こう側
  • メディア・リテラシーなるもの - 擬似環境の向こう側

    ぼくは大学でメディアについて教えている。 メディアに関して学生の書いたものを読むと、かなりの割合で「メディア・リテラシーを身につけることが必要である」とか「マスメディアを鵜呑みにしてはいけない」という結論に至っている。まるで誰かがフォーマットを作っているのではないかと思うほどだ。 しかし、教員としてこういうことを書くのはいかがなものかとも思うのだが、そもそもメディア・リテラシーなるものは実践可能なのだろうか。ここで安易にウィキペディアから引用してみると、次のように書いてある。 メディア・リテラシー(英: media literacy)とは、情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。 (出典)メディア・リテラシー - Wikipedia 言わんとすることは分かる。分かるのだが、実際問題としてこれを実践することは不可能なのではないだろうか。 毎

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  • 大阪を蝕むシニシズム - 擬似環境の向こう側

    「既得権」をめぐる報道 時期を逸してしまったが、大阪都構想に関する話だ。 といっても、都構想の賛否について論じたいわけではない。その賛否に関する報道や文章にはそれなりに目を通しているものの、賛成や反対を明確に論じられるほどの知識があるわけではない。ぼくが生まれ育ったのは大阪市旭区だが、そこを離れてずいぶん経つし、大阪市の現状について詳しいわけでもない。 それよりも気になるのが、都構想にまつわる「語り」だ。その語りを見る限り、維新の会的なものは実質的な「勝利」を収めたのではないかと思う。 維新の会はこれまでしばしば既得権の破壊をその目標として掲げてきた。これは新自由主義的な方針を掲げる政党によく見られる特徴であり、さまざまな規制や制度によって守られてきた既得権を破壊し、競争を促進することで社会は効率化できるという発想がその土台にある。 実際、既得権の破壊を叫び始めたのは維新の会が初めてという

    大阪を蝕むシニシズム - 擬似環境の向こう側
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    lotus3000 2015/05/21
    マスコミがもたらしたシニシズム。/シングルイシューの問題点についても。
  • 二つの自己責任論(再録) - 擬似環境の向こう側

    (以前(2013年9月)に書いたエントリですが、時期に適ったテーマである気がするので再録します。ただし文末に追記があります。) 日では自動車に乗るさい、シートベルトの着用を義務づけられている。近年では後部座席に座るさいにも義務づけられるようになった。 考え方によっては、これは非常にお節介な話である。シートベルトをするかしないかというのは基的に個人の選択の問題であって、もし事故にあって自分の体が車から飛び出すようなことになっても、それは人が死ぬだけの話だ。だから、国があーだこーだ口を出すような問題ではない。これは「自己責任」の問題なのだから。 ケント・グリーンフィールドは著書『<選択>の神話』(紀伊國屋書店)のなかで、このような考え方とともに、自己責任に関するもう一つの考え方を紹介している。 シートベルトの例を再び用いると、それをしないことによって害を被るのは決して人だけではない。車

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  • 犯罪報道の二つの方向性 - 擬似環境の向こう側

    多摩川沿いで中学生が殺害されるという痛ましい事件が起きた。 事件の詳細についてはまだ部外者が何も語れる段階にはない。にもかかわらず、すでに少年法の改正を求める声が上がっている。容疑者が未成年である場合に氏名などの報道を禁じている規定の改正が必要だというのだ。 第61条 家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。 (出典)少年法 (自民党政調会長の:引用者)稲田氏は「少年が加害者である場合は名前を伏せ、通常の刑事裁判とは違う取り扱いを受ける」と指摘。その上で「(犯罪が)非常に凶悪化している。犯罪を予防する観点から今の少年法でよいのか、今後課題になるのではないか」と語った。 (出典)「自公政調会長

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    lotus3000 2015/04/15
    ジェームズ バルガー事件について。
  • スマホとどう付き合うか - 擬似環境の向こう側

    ぼくはネットが好きだ。 ネットで話題になっている文章にはだいたい目を通すし、ネットで誰かが喧嘩をしていればそれをいそいそと見物に行く。ぼくはメディアの研究者ということになっているので(専門はマスメディアだけど)、いちおうはフィールドワーク?的な意味もある。しかしそういうことを抜きにしても、基的にネットが好きなのだと思う。 ネットとの付き合いはかれこれ20年近くなるし、インターネット・アーカイブを探せば1990年代後半にぼくがやっていたホームページを見つけることもできる。だからこそ思う。ネットに時間を費やし過ぎるのは決して良いことではない。ところがいまや、スマホを使えば至るところでネットに接続できてしまうのである。 ここで話は四半世紀ほど遡る。当時のぼくは高校3年生で、大学受験を控えていた。ところが、一つ大きな悩みがあった。30分も机に向かうことができないのだ。 自室で勉強を始めても、10

    スマホとどう付き合うか - 擬似環境の向こう側
  • 移民の受け入れと異文化の共生 - 擬似環境の向こう側

    アパルトヘイトとエスニック・コミュニティ 『産経新聞』に曽野綾子氏が掲載したコラムをめぐって、大きな騒ぎが起きている。曽野氏がアパルトヘイト肯定とも解釈できる主張を行なったからだ。 人は誤解だとしているようだが、このコラムは高齢者介護のために移民受け入れの必要性を論じる一方、かつての南アフリカの事例を取り上げたうえで「住居だけは別にしたほうがいい」と語っている。アパルトヘイト肯定として解釈されても仕方がないように思う。 ともあれ、ネットで急速にシェアされ、ネット系のメディアが取り上げ、海外メディアが「安倍首相の元アドバイザー」の発言として報道するようになった。アフリカ協議会や在日南アフリカ大使から『産経』への抗議が行われて事件となったことで、やや遅れて日のマスメディアも取り上げ始めている。 曽野氏の主張に関してはすでに数多くの批判が行われており、その多くは的確なものだ。アパルトヘイ

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  • ネットでのヘイトスピーチに関する取材手法について - 擬似環境の向こう側

    在日コリアンの方々に罵詈雑言を投げつけていた男性に関する記事が話題になっている。これだ(記事タイトルを一部改変)。 ネットでヘイトスピーチを垂れ流し続ける中年ネトウヨの正体【前編】 ネットでヘイトスピーチを垂れ流し続ける中年ネトウヨの正体【後編】 力作である。著者の安田浩一さんのルポライターとしての力量を見せつける迫真のレポートと言っていい。 この記事で取り上げられている男性については、そのツイートがたまにリツイートされてくることもあり、ぼくも以前から知っていた。その内容は当に酷く、まさにヘイトスピーチと呼ぶよりほかにないものだった。それゆえ、この男性が安田さんの取材によって追い詰められていく様子に、ある種のカタルシスを感じたことは否定しがたい。 その一方で、この記事を読んで微妙な居心地の悪さも感じた。それは安田さんが男性の正体を探り当てる手法に起因している。男性のネットへの書き込みから

    ネットでのヘイトスピーチに関する取材手法について - 擬似環境の向こう側
  • 「正しい情報」は伝わるのか - 擬似環境の向こう側

    「どちらでもない層」を説得する 先日、NHK国際放送とは別に「日の立場を正確に発信する」放送局の創設を自民党が検討しているという報道がなされた。 自民党は14日、国際情報検討委員会(原田義昭委員長)などの合同会議を党部で開き、慰安婦問題や南京事件などで史実と異なる情報が海外で広まっている現状を踏まえ、日の立場を正確に発信する新型「国際放送」の創設を検討する方針を確認した。中国韓国などの情報戦略を分析、在外公館による情報発信の拡充についても議論し、今年の通常国会会期内に結論を出すことにしている。 会議で原田氏は「どういう形で相手国に情報が伝わるかにも目配りしながら、正しいことをきちんと発信していくことが大事だ」と述べ、「攻めの情報発信」の意義を訴えた。 (出典)http://www.sankei.com/politics/news/150114/plt1501140037-n1.ht

    「正しい情報」は伝わるのか - 擬似環境の向こう側
  • 「学問のひと」と政治(追記あり) - 擬似環境の向こう側

    学問は「私が一番正しい」ことを明らかにする 世の中には、同じ領域であってもまったく見解が異なる学問的立場というものが存在する。経済学は素人なので、確たることは言えないのだが、いわゆる近代経済学とマルクス主義経済学というのがそれに該当するのではないかと思う。しかし、全く立場が異なる研究者のあいだで激しい論争が起きるかと言えば、必ずしもそうではない。 というのも、お互いの出発点も認識もまったく違うので、話がそもそも噛み合わないのだ。むしろ、学問的論争というのは、立場はわりと近いものの方法論や認識のうえで見解を違える研究者のあいだで発生することが多い。たとえば、古いけれども、マルクス主義者の間で起きたミリバンド―プーランツァス論争などが想起される。 これは学問というものの性質上、仕方がないことだと言える。(自然科学については無知なので分からないけれども)人文社会科学の場合、研究は既存研究の批判的

    「学問のひと」と政治(追記あり) - 擬似環境の向こう側
    lotus3000
    lotus3000 2015/02/14
    政治と学問の違い。これは結構耳が痛い。多分マキャベリの自分の魂を捨てて祖国の救済を願うとはこういうことなのだろう。
  • 研究者にとっての運、または偶然の出会いについて - 擬似環境の向こう側

    佐々木倫子さんのマンガ『動物のお医者さん』には、菱沼さんという女性が登場する。 手元にないので記憶に頼って書くが、彼女は実用的な細菌を発見するのに長けており、発見が商品化されたこともあるのだという。そのために彼女をライバル視する大学院生もいるほどだ。だが、作中の説明によると発見した細菌が実用的かどうかは多分に運の問題なのだという。もちろん、運を発見に変えるためには、研究者としての実力が必要なのだとは思うけれども。 それに対して、人文社会科学はどうだろうか。史学系だと重要な史料を発見できるかどうかで運に関係しそうな部分もありそうだが、運があるかないかということはそれほど話題にならない気がする。運に関係なく、優れた研究者は優れていて、駄目な研究者はやっぱり駄目という感じではないだろうか。 実際、運ということに関して次のようなブログのエントリがある。 『朝日新聞』天声人語は、なんて偏差値が低いの

    研究者にとっての運、または偶然の出会いについて - 擬似環境の向こう側
    lotus3000
    lotus3000 2014/11/06
    僕がインターネットをするのもそれだろうなあ。