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ブックマーク / wallerstein.hatenadiary.org (43)

  • 「室町幕府はなかった」 - 我が九条

    1336年、足利直義らは建武式目を制定し、新たな武家政権の発足を宣言した。1338年には足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられた。尊氏は後醍醐天皇への対策から京都に武家政権を樹立する事が不可避であった。尊氏は二条万里小路に屋敷を構え、足利直義は三条坊門に屋敷を構えた。足利義詮は三条坊門万里小路に屋敷を構え、足利義満にいたってはじめて北小路室町に屋敷を構える事になる。後に義満は室町第を足利義持に譲って自らは北山殿を構え、そこを政庁とする。義持は父の死後三条坊門に屋敷を構え、足利義量は室町第に入るが、ほどなく死去する。足利義教・足利義勝は室町第に、足利義政は当初は怨霊を恐れて養育されていた烏丸資任の高倉第にいたが、長ずるに従い、室町第に移り、晩年は東山殿で過ごした。義稙は三条坊門に始まり、放生津、一乗谷、山口と動き、京都に戻った後に堺から阿波国撫養で死去している。足利義澄は京都時代どこにいたかはしかと

    「室町幕府はなかった」 - 我が九条
  • 鎌倉幕府否定論再論 - 我が九条

    鎌倉幕府の成立年代には大きく分けて7つある。数少ないこのブログの読者ならば何回か読んでいらっしゃると思うし、新たな読者がいるともあまり思えないが、再び。 鎌倉幕府の成立については一一八〇年、一一八三年、一一八四年、一一八五年、一一八九年、一一九〇年、一一九二年の諸説がある。これは例えば学問研究が進んで、新たな史料が発見されればどれか一つに収斂されるのか、と言えば、それはない。何故かといえば、鎌倉幕府の開設年代のズレは、「鎌倉幕府とは何か」という問いに対する解答が異なるからだ。 一一八〇年説を支える史実は「源頼朝が鎌倉に邸宅を構えた」ということである。頼朝の邸宅は単に頼朝が居住するだけではない。頼朝に従う「侍」を管理する機能も持っている。「侍所」というのはある程度の権門勢家ならば備えている機構であって、侍所を備えた邸宅を構える事は、頼朝が鎌倉を中心とする南関東を実力で支配しようとする意思を明

    鎌倉幕府否定論再論 - 我が九条
  • 大河ドラマ『平清盛』のツッコミ所 - 我が九条

    「王家がどう」とか「色彩がどう」とかツッコミがあるが、一番のツッコミ所はやはり吹石一恵演じる舞子が院御所で殺されたところだろう。ケガレを極度に忌む彼等が御所内で血を流させるわけはない。吹石一恵が忙しくて初回しか出演できないのであれば、御所の外で殺される、とかやりようはあったはずだ。 かつて『北条時宗』で近衛基平が御所内で自害するシーンがあり、それについて郷和人氏は次のように述べている。 平安末にラーメンが存在したか否か。これは知っている・知らないの問題にすぎない。清盛が白河上皇の落胤か否か。これは学説の分かれるところですので、どちらを採ることも可能です。でも何十年も研鑽を積んでいるはずなのに、天皇や朝廷の質を理解していないとなれば、これは中世史研究者としてのこの上ない恥辱です。関白に御所で切腹させるとは、考証役の私はダメな研究者だと、満天下に広言しているのに等しい。ですから、こうした根

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  • 中島久万吉商工相辞任事件−北朝抹殺のその後− - 我が九条

    中島久万吉は斎藤実内閣の商工大臣。斎藤実内閣は犬養毅内閣が5・15事件で首班暗殺という事態を受けて組閣された内閣。犬養毅暗殺後は同じ政党の党首が就任する慣例に従って元老西園寺公望は当初は立憲政友会総裁の鈴木喜三郎を首班にしようとしたが、政党政治の継続は当時の政治情勢を考えると、再び軍部によるテロを惹起する危険があった。軍部は検察出身の法務官僚平沼騏一郎を推薦する。しかし西園寺と昭和天皇は平沼のファッショ傾向を嫌い、リベラルで軍部にも抑えの効く人物として、前朝鮮総督で元海軍大臣、海軍予備役大将の斎藤実を首班に指名する。 斎藤実は一旦は国際連盟脱退と満州国承認など、軍部の意向に沿いながら、国際連盟復帰を目指そうとする。その動きに対して様々な政局が仕掛けられた。その一つが中島久万吉がかつて足利尊氏を評価した随筆攻撃である。十三年前の同人誌に掲載された随筆を、講談社の雑誌「現代」が中島に無断で転載

    中島久万吉商工相辞任事件−北朝抹殺のその後− - 我が九条
  • 北朝の天皇が抹殺されるまで - 我が九条

    明治政府はそのイデオロギー主柱が水戸学であったことが、北朝ではなく、南朝が正統であると考えられた根にあると思われる。江戸幕府の歴史意識では、後醍醐で王朝は終了して武家の世になっているのである。王朝交代の思想に基づけば、南朝正統の方が何かと好都合であった。松平定信の大政委任論から始まって、幕末の政治情勢の中で攘夷を決行できない「征夷大将軍」に対する不満が高まり、「尊王攘夷」から「尊王討幕」へと政治動向が変わり、明治維新に至る。明治維新では水戸学の影響やら、国学、特に大国学(おおくにがく=大国隆正の学派であって、「だいこくがく」ではない。念のため)を中心とする国学がヘゲモニーを一時的に握る。いわゆる祭政一致の段階で、神祇官が太政官の上に置かれた時代である。神武の昔にもどろうとしたらしい。やがて文明開化の中で彼等は非主流派に転落して行くのだが、彼等の思想は民間右翼団体やその影響を受けた地方の保

    北朝の天皇が抹殺されるまで - 我が九条
  • これはひどいウィキペディア「元寇」編 - 我が九条

    ウィキペディアは非常に便利な反面、稀に嘘が紛れ込んでいる。何も知らない人が、自分を物知りと勘違いして自分の思いこみを書き込むからである。近衛基平のところでは岩波書店の社長の安江良介氏を『深心院関白記』の解説執筆者と勘違いするほど業界関係に無知な人(喩えれば阪神タイガースの四番を坂井オーナーと勘違いしているレベル)が恥ずかしげもなく書き込んでいるわけで、今回のもかなりひどいレベル。 関係部分を引用。 1271年9月、三別抄からの使者が来着した直後に、元使の趙良弼らが元への服属を命じる国書を携えて5度目の使節としてきた際には、幕府はこれを朝廷に進上した。朝廷は急いで伊勢に勅使を派遣し、神々に異国降伏を祈った。朝廷内部では返事を出すかどうかで論争されたが、幕府が返事を出す事に反対した事、朝廷内でも「蒙古の要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、朝廷・幕府ともに国書を黙殺する事にな

    これはひどいウィキペディア「元寇」編 - 我が九条
  • 永福寺の建立事情 - 我が九条

    永福寺の建立事情について、修理の時に北条時頼が述べている。 当寺者、右大将軍、文治五年討取伊予守義顕、又入奥州征伐藤原泰衡、令皈鎌倉給之後、陸奥出羽両国可令知行之由、被蒙勅裁。是依為泰衡管領跡也。而今廻関長東久遠慮給之余、欲宥怨霊。云義顕云泰衡、非指朝敵、只私宿意誅亡之故也。仍其年内被始営作。(『吾鏡』宝治二年二月五日条) 「怨霊を宥めんと欲す」というのは『吾鏡』文治五年十二月九日条では「且宥数万之怨霊」とある。「数万の怨霊」とは言うまでもなく源頼朝のために死に追いやられた人々のことであるが、文治五年十二月というのが、奥州征伐の後のことである。奥州征伐は頼朝にとっては自身の政権の確立のための総仕上げであった。そのために頼義故実(前九年の役での源頼義の行動)を再現し、自身が関東の「王」であることを内外に宣言する行事だったのである。その戦いは即ち治承の自身の挙兵以来の戦いの総仕上げであった

    永福寺の建立事情 - 我が九条
  • 鎮魂の寺院 - 我が九条

    恨みを残した死者は祟る。その祟りを避けるために鎮魂が行われる。 戦没者は自らを死に追いやった国家に祟る。だから祟らないように鎮魂を行う必要があるのである。秋山哲雄氏は『都市鎌倉の中世史』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー)で鎌倉に寺院が多い理由を考察しているが、そこで「鎮魂の寺院」について述べている。 円覚寺は「蒙古襲来」で戦死した全ての人々(日・高麗・元・旧南宋など)を、敵味方関係なく鎮魂するために北条時宗が建立した寺院である。永福寺は源平合戦や奥州合戦で戦死した全ての人々(源氏はもとより平家や源義経・藤原泰衡も)を、敵味方関係なく鎮魂するために源頼朝が建立したものであった。宝戒寺は鎌倉で滅亡した得宗家の人々を鎮魂するために後醍醐天皇が建立した寺院である。 秋山氏は次のように指摘する。「鎌倉時代から戦死者の供養は敵味方の区別なく行われていることに現代人は注目しなければなるまい。現代にお

    鎮魂の寺院 - 我が九条
  • 今日の出来事 - 我が九条

    講師控室で先生方(面識はない)が世間話。ネットのデマをマジに受け止めていろいろ差別的な発言をしている。「ネットの中に真実がある」と信じる段階で人文科学研究者としての資質に疑問符が付くだろうし、差別的な言辞をもてあそぶ段階で教育者として失格だろう。少なくとも「人にはどうしようもない属性で不利益な取扱をすることを容認する」人が教育者をやってはいかんだろう。大学の教師がいくら専門性で選ばれていて、他の能力は問われない、と言ってもねぇ。私だって中世史研究の過去の成果で一応大学でバイトさせてもらっているわけで、九九がまともに覚えられてなくても、英語がほとんど理解できなくても、漢字の書き順が怪しくても問題はないわけで、ネットのデマを真実と受け取っても、多分仕事には関係がないわけで、自分で自分のバカさ加減を見る機会は少ない。他山の石として自戒の材料にしよう。

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  • 「幕府」の「差分」−源頼朝 - 我が九条

    平清盛の樹立した政権を「六波羅幕府」あるいは「福原幕府」と呼ぶべき、という見解は実はなかなかハードルが高い。なぜならば、そもそも「幕府」という概念は、源頼朝にあって平清盛にないものを表象するために作られた概念だからである。 鎌倉幕府成立年代論争とは、鎌倉幕府とは何か、という問題である。一応述べておく。 1180年、頼朝が鎌倉に邸を構えた。これは鎌倉幕府が南関東の軍事政権であることに着目する見解。 1183年、頼朝が寿永2年の宣旨を受けた。これは鎌倉幕府は、その実力支配を朝廷から公認されることに着目する見解。 1184年、頼朝は公文所と問注所を設置した。これは鎌倉幕府が行政機関として機能し始めたことに着目する見解。 1185年、頼朝が守護・地頭設置を認められた。これは頼朝の主従制が朝廷に公認されたことに着目する見解。 1189年、頼朝が奥州征伐を行なう。これは頼朝が全国的な軍事動員権を掌握し

    「幕府」の「差分」−源頼朝 - 我が九条
  • 院政のはじまりー白河院ー - 我が九条

    院政を始めたのは白河上皇である。白河上皇は子どもに譲位した後、自由な立場から院政を行った。 これがよくなされる説明である。しかし実際にはそれほど単純に院政が成立したわけではない。白河天皇が自分の皇子善仁(たるひと)親王に譲位したその背景には、白河天皇の妄執があった。 発端は後三条天皇親政に遡る。後三条天皇は藤原摂関家を外戚としない天皇であることは、有名である。後三条が実際に院政を行おうとしたか否かについては、議論の分かれるところであるが、後三条の皇位継承計画によれば、とりあえず白河天皇を即位させ、時期が来れば皇族を外戚とする実仁親王を即位させようと考えていたようだ。 白河天皇は自分が愛した賢子の血を引く善仁親王に皇位を継承させたいと考えた。そういう中で皇太弟の実仁親王が死去し、その機を捉えて善仁親王の即位を強行した。堀河天皇である。ここに院政が成立した、と言われる。 しかし白河上皇自身、院

    院政のはじまりー白河院ー - 我が九条
  • 権門体制論と天皇制 - 我が九条

    権門体制論それ自体は天皇を【国王】とすることは必ずしも前提としない。だからこそ権門体制論の枠内で天皇ではなく治天を【国王】とする議論も可能なのである。しかし黒田俊雄は断固として天皇を日中世国家の【国王】とすることを譲らない。 これについて次のような意見がある(「唯物史観 | Japanese Medieval History and Literature | 5488」)。 唯物史観を信奉するのに、なぜ権門体制論なの? 権門体制論は、天皇の地位を必要以上に高く評価しているじゃないか。 それは、唯物史観を奉じる研究者が「従三位」とかの位階を授けられてる (そういう人は少なくないそうです)のと同じくらい、ヘンじゃないか。 「唯物史観を信奉するのに、権門体制論」は「自分の思想と研究とが同一のベクトルをもつべきだ」という意見と対立するのだろうか。私はそうは思わない。権門体制論は唯物史観に立脚して

    権門体制論と天皇制 - 我が九条
  • 権門体制論と「国境」 - 我が九条

    黒田俊雄は権門体制論に対する批判として出された東西国家論に対する反論として書かれた1986年の論文「中世における地域と国家と国王」で、増田四郎『社会史への道』に依拠しながら、「中世の国家」を「世界帝国」「封建王国」「くに」に分類したうえで次のように述べる。 それ(封建王国)は国王を頂点とする政治的形成体であり、領域のなかの土地と人民を支配し封建法(広い意味での)によって統治し、当然国境をもつ。(『黒田俊雄著作集 第一巻 権門体制論』266ページ) この中で【国王】に関して前々エントリで述べたが、ここで指摘したのは、権門体制論に忠実に依拠する限り、【国王】を天皇に限る必要はない、ということであった。現に【国王】を治天に擬する見解も権門体制論の一つのバリエーションとして出されている以上、「国制」の頂点に立つことを必ずしも前提としていない、ということであり、鎌倉幕府の将軍あるいは得宗を【国王】に

    権門体制論と「国境」 - 我が九条
  • 荘園制論を理解するために - 我が九条

    黒田俊雄の学問的体系がマルクス主義に立脚しているという、自明の前提を再確認してきた。弁証法的唯物論に即して黒田の論を整理すると、下部構造としての荘園制論、上部構造としての権門体制論、そして社会的意識諸形態としての顕密体制論がある。 マルクスは相互の関係について次のように説明する。 人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定す

    荘園制論を理解するために - 我が九条
  • 顕密体制論理解のために - 我が九条

    中世における「社会的意識諸形態」を理解するための概念が顕密体制論である。「社会的意識諸形態」とは、イデオロギーと記せば分かりやすいだろう。イデオロギーとは階級的な利害に基づいて支配階級を正当化するためのものである。 そのことを頭において郷和人氏の顕密体制論に対する見解をみてみよう。 仏教はそもそも何のためにあるのだろうか。国を鎮護するため?天皇や貴族に日々の安寧をもたらすため? 非常にイデオロギーとしての顕密仏教の特質を押さえた議論である。中世の「実在(ザイン)」においてはまさにそうなのだ。「ザイン」に注目する限り、仏教は鎮護国家のために存在するのであり、王法と仏法は相依相即なのである。そして概念としてもイデオロギーとは階級的な利害に基づいて支配階級を正当化するためにある。支配階級との関係で言えば、それが顕密仏教の正統である。顕密仏教の正統に位置づけられるのが、国家鎮護と王法仏法相依

    顕密体制論理解のために - 我が九条
  • 権門体制論理解のために - 我が九条

    中世における国家体制を説明する概念として「権門体制論」というのがある。大阪大学教授であった黒田俊雄が1963年に「中世の国家と天皇」という論文で提唱した概念である。黒田は権門勢家という概念を用いて、中世における公家政権から武家政権への移行を説明した。黒田によれば公家・武家・そして寺社勢力は相互補完的に権力を行使した、と考えるのである。 これに対する議論はいろいろあるが、私はいずれも権門体制論の基を外したうえで議論されている、と考えている。権門体制論は国家論であるが、それ以上に社会構成体史を前提としている。権門体制論を独立に取り上げても仕方がないのだ。 権門体制論に対する厳しい批判を近年活発に展開している郷和人氏は『天皇の思想』(山川出版、2010年)の中で次のように述べる。 ぼくは言いたかった。あなた(「アカデミズムの総家を自認する出版社の、ある高名な編集者」)が高く評価している

    権門体制論理解のために - 我が九条
  • 古文書から見た日琉関係3 - 我が九条

    国王宛琉球国王書状。 畏言上 毎年為御礼、令啓上候間、如形奉捧折紙候、随而去年進上仕候両船、未下向仕候之間、無御心元存候。以上意目出度帰嶋仕候者所仰候。諸事御奉行所へ申入候定可有言上候、誠恐誠惶敬白 応永廿七年五月六日  代主印 着目点は3つ。 1 漢文で書かれていることである。 2 書出文言「畏言上」や書止文言「誠恐誠惶敬白」に見られるように非常に厚礼で、琉球国王宛の日国王書状の薄礼と対照的である。 3 日年号が使われていることである。 1について。 幕府文書では琉球国王宛の文書を除くと仮名書きの文書は見かけない。一方琉球では辞令書などに見られるように仮名書きの文書が使われていた。琉球・日ともに相手国の文書の形式に合わせていることが目を引く。何度も強調していることであるが、日国王は少なくとも国内向けの守護大名と同じように琉球国王を遇しているわけではない。日国王と琉球国王の関

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  • 古文書からみた日琉関係2 - 我が九条−麗しの国日本

    続けて琉球国王宛の日国王文書。 ふみくはしく見申候、進物ともたしかに受け取り候ぬ、めてたく候、まいねんふねをも人をもあまたさるべく候 永享八年九月十五日 りうきう国のよのぬしへ 文くハしく見申候、しん上の物たしかにうけとり候、めでたく候 永享十一年三月七日  御印判 りうきう国のよのぬしへ いずれも足利義教から尚巴志への書状。仮名書きが特徴の文書である。前述の通り、一見国内への書状形式の文書に見えるが、年号が付されている点が何よりも特徴である。年号が付せられていることから、これが尚巴志と義教との個人的な要件で出されているのではないことが分かる。これは公的な儀礼関係である。そしていわゆる守護大名宛の御内書とは、年号の有無と漢文か仮名書きかという違いがある。 御内書を挙げておく。 鳥目万疋・座氈二枚・麝香皮一枚到来了、神妙候、太刀一腰・馬一疋(黒駮)之遣候也 十二月三日 太宰少弐殿 これは少

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  • ネットに真実が(嘲)の事例 - 我が九条

    大阪産業大学に関する朝日新聞の阿久沢悦子記者の署名記事(「http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201006020007.html」)。6月2日付け。 中国語の普及などのため、中国海外の大学と提携して運営する「孔子学院」について、同学院を開設する大阪産業大学(大阪府大東市)の重里(しげさと)俊行事務局長が、中国側の認可組織を「文化スパイ機関」などと発言したため、同大は1日、重里事務局長に辞職を求めた。中国人留学生らから抗議の声が上がり、中国側からも説明を求められていた。辞職が受け入れられなければ解任し、学内に謝罪文を掲示するという。 詳しい経緯。 大阪産業大によると、09年4月、孔子学院側に大学所有のビル(大阪市福島区)にキャンパスの移転を提案。同大学が資産運用に失敗し、経営の合理化に迫られたためだったが、孔子学院側は「上海外大や中国政府との協議が必要」

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  • 古文書からみた日琉関係 - 我が九条

    少し古文書に関わる問題。 日国王と琉球国王の間の外交文書のやり取り。まずは日国王から琉球国王へ。 御文くハしく見申候、しん上の物ともたしかにうけとり候ぬ 応永廿一年十一月廿五日 りうきう国のよのぬしへ(朱印) 言うまでもないが、「日国王」とは室町殿のこと。応永21(1414)年の室町殿は足利義持。さらに言えば「室町殿」と「室町幕府の将軍」とは必ずしも一致しない。足利義満は将軍の座を義持に譲り、出家してからも、さまざまな政務を行っていたし、義持も義量に譲ってからも政務を見ていた。室町幕府は基的に足利家の家政機関の発展系とみなせる。室町殿とは足利家の家督者である。 この文書は一般に御内書と呼ばれるが、厳密に言えば年号が記されている点をはじめ、御内書とカテゴライズするには問題が多い。そこで御内書を挙げておこう。 馬二十匹、鳥五千羽、鵞眼二万匹、海虎皮三十枚、昆布五百把到来了。神妙候。太刀

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