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ブックマーク / blog.tatsuru.com (34)

  • 甲野先生の最後の授業 - 内田樹の研究室

    甲野善紀先生を学の特別客員教授にお招きして3年。この年度末で任期満了となる。 2月1日から3日までの集中講義が甲野先生の学における最後の授業である。 ご挨拶に伺い、お稽古に加えて頂く。 ずいぶん多くの学生たち(および「にぎやかし」の合気道部員、杖道会員、OG、甲南合気会員)がミリアム館にひしめいて、さまざまな身体技法をあちこちで試みている。 甲野先生の講習会はだいたいこういうかたちで、「全級一斉」という指導法はなされない。 ひとりひとりが自分のペースで、自分の選んだ課題を試みる。だいたい数人のグループになって教え合ったり、批評し合ったりする。そのグループも固定していない。甲野先生が何か違うことを始めると、自然に解体して、また違う人たちとのグループが出来る。 自分の身体の内側で起きていることを「モニター」するというのが、稽古の基であるから、外的な規制はできるだけ行わず、ひたすら自分の内

  • 箱根湯本で安保について考える - 内田樹の研究室

    箱根湯吉池で、年二回恒例の経営セミナー。 私が出資している三つの会社の社長たちから半期ごとの経営報告を直接うかがい、経済の現況について論じ、今後の経営方針を立案するという、たいへんにシビアでかつビジネスライクな集まりである。 私のことを俗事に疎く、象牙の塔的思弁に耽っているだけの大学の先生だと思っている人が世間には多いが、人間というのはなかなか奧の知れないものなのである。 ほんとに。 一社の社長(兄上さま)はすでに会社経営から退かれているので、今回はアドヴァイザー格での参加。平川くんからはリナックス・カフェとラジオ・デイズの経営状況につき、石川くんからは Live Café Againの現況を伺う。 いかに経営方針が正しくても、景況は予測しがたく、競合他社の動きも見きり難く、わずかな状況判断の曇りがしばしば痛ましい放銃を帰結するという不易の真理を繰り返し(11回ほど)学習したのである。

  • 残留率と楽観主義 - 内田樹の研究室

    入試業務で毎日出校。 入試部長というのが、これほど打ち合わせと会議の多い仕事だとは思わなかった。 これがあと一年続くと思うとうんざりするが、これもあと一年で終わると思うと気持ちが軽くなる。 ものが考えようである。 つねづね申し上げている通り、なんでも「カウントダウン」にするというのが私の年来の流儀である。 カウントダウンすると、どうでもいいような日々のできごとが「かけがえのないもの」に思えてくるからである。 これでおしまい、二度とないと思うと、わずか10分で終わるセンター利用入試の合否判定教授会のために土曜日に稽古を休んで出校するのもまた楽しからずや(負け惜しみ)。 これまでのところ学の今年度入試の出願状況は堅調である。 周辺校が軒並み60−80%台で前年比割れをしているなかで、前年比99.7%というのは、たいへんよい数字である。 今年どこの大学も志願者を減らしたのは、不況のせいである。

  • 亀の甲より年の功 - 内田樹の研究室

    個人的には水曜から春休み。 まだ木曜まで大学はあり、週末は入試だけれど、私の授業はおしまい。 三宅先生のところで身体をほぐしてもらってから、『中央公論』のインタビュー原稿に手を入れて、『AERA』の原稿を書いて、明治学院大学での高橋源一郎さんとの対談のゲラを直して、まとめてメールで送信。 それから部屋の掃除をして、アイロンかけ。 それだけやってもまだ日が高い。 あら、うれしや。 久しぶりにちょっと手の込んだ料理を作ろうという気になったので、買い出しに行って、コロッケを仕込む。 コロッケぐらいで「手の込んだ料理」は言い過ぎだと言われそうが、コロッケは油を使う行程が二段階あるので、ウチダ的には「ミートボールカレー」とともに「手の込んだ料理」に類別されるのである。 狭い台所だから、一回油をつかったあとに、全部片付けて、鍋も洗って、また揚げ物をするのはけっこう大変なのである。 下ごしらえができたの

  • 基地をめぐる思考停止 - 内田樹の研究室

    名護市長選挙で、普天間基地の県内移転に反対する候補者が当選し、これにより06年に自公政権が米政府と合意した米軍キャンプ・シュワブ沿岸部(名護市辺野古)への移設が困難となった。 鳩山政権は移設先の見直し作業を加速させる方針だが、米側は当初の合意の履行を求めており、解決のめどは立っていない。 普天間基地問題は無数の「問題」のかたまりである。 基地そのものが地域住民の生活被害をもたらしており、その除去を求める生活者の「民意」がある。 基地経済に依存してきた沖縄の政官業複合体にとっては、基地は中央からの予算と公共投資を引き出すための「人質」である。 日政府にとって、基地の県外国外撤去を求めるということは、沖縄米軍基地の核抑止力が戦後65年間の「平和」を担保してきたという「政治的常識」に疑問をなげかけることを意味する。 アメリカ国民にとって、西太平洋に展開する米軍基地は19世紀末の米西戦争でフィリ

  • そんなことを訊かれても - 内田樹の研究室

    仕事始めに取材がふたつ。 太田出版の『atプラス』という雑誌と、『週刊プレイボーイ』。 媒体は違うが、たぶんどちらも対象としている読者の世代は同じくらい。 20代後半から30代、いわゆる「ロスジェネ」世代とそれよりちょと下のみなさんである。 生きる方向が見えないで困惑している若い諸君に指南力のあるメッセージを、というご依頼である。 『atプラス』の方はかなり学術的な媒体なので、「交換経済から贈与経済へ」という大ネタでお話しをする。 「クレヴァーな交換者から、ファンタスティックな贈与者へ」という自己形成モデルのおおきなシフトが始まっているという大嘘をつく。 もちろん、そのようなシフトは局所的には始まっている。 けれども、まだまだ顕微鏡的レベルの現象である。 それを「趨勢」たらしめるためには、「これがトレンディでっせ」という予言的な法螺を吹かねばならぬのである。 めんどうだが、そういう仕事を電

  • 坂本龍馬フィーヴァー - 内田樹の研究室

    朝刊を開いたら、一面の下の書籍広告がぜんぶ坂龍馬関係の書籍だった。 書店に行っても坂龍馬関係のばかりがずらりと並んでいる。 私たちの国では、システムや価値観のシフトが時代の趨勢としてやみがたいという「雰囲気」になると、ひとびとは幕末に眼を向ける。 地殻変動的な激動に対応した「成功例」として、私たちが帰趨的に参照できるものを明治維新のほかに持たないからである。 日人がある程度明確な「国家プラン」をもって集団的に思考し、行動した経験は維新前夜だけである。 それはアメリカ人が社会的激動に遭遇するたびに「建国の父たち」を想起するのと似た心理機制なのかも知れない。 司馬遼太郎によると、坂龍馬の名前はひとにぎりの旧志士たちのあいだでこそ知られていたが、明治中期にはもうほとんど忘れ去られていた。 それが国民的な知名度を得たのは、日露戦争前夜の1904年、皇后の夢枕に白衣の武士が立ち、来るべき戦

  • 歓待の幕屋 - 内田樹の研究室

    19日から28日までの10日間に8回忘年会をやるという、たいへん消化器系および肝臓に負荷のかかる日々を過ごしている。 とりあえず昨日までに7回の忘年会を消化した。 昨日は恒例の「煤払い」 以前はひとりで4日くらいかけて家中を掃除していたのであるが、近年は谷口隊長率いる「甲南合気会お掃除隊」というボランティア団体がやってきて、勝手にどんどんお掃除して、冷蔵庫の中の賞味期限の切れた材を棄てて、風呂のタイルの目地を磨き上げ、家の中をぴかぴかにしてくれる。 今年は、隊長以下、キヨエさん、ババさん、ムカイさん、ヒロスエくん、タカトリくん、オオサコくんの総勢 7 名。 ありがたいことである。 他人に自分の掃除を任せて宜しいのかというお考えをされる方もおられるであろう。 私は構わないと思う。 私は個人の家をプライベートに「閉じる」ということにあまり興味がない。 家もまた「開放系」であるべきではないのか

  • ナマケモノでいいじゃないですか - 内田樹の研究室

    ようやく授業が終わる。 今日から冬休みである。 なんとか生きて冬休みを迎えることができたことをとりあえず言祝ぎたい。 しかし、この二ヶ月実によく働いたものである。 『日辺境論』を出したせいで、販促活動がばたばたと重なり、たいへんな日程になってしまった。 それも一段落。 辺境ネタでは養老先生と二回対談した(『新潮45』と『AERA』) どちらもたいへん面白かった。 昨日は『サンデー毎日』の取材。 雑誌の4頁を使っての宣伝をしてくれるというありがたい企画である。 いろいろなメディアからの取材を受けたり、書評を読んで感じるのは「日人よ、がんばれ」という叱咤激励型の言説に日人自身がもううんざりしているということである。 叱咤激励的であるという点では右翼も左翼も変わらない。 「今の日はダメだ」という点では進歩的反動的、老いも若いも、みな口調が揃っている。 「いいじゃん、もう、これで」という

  • 動的平衡な夜 - 内田樹の研究室

    「死のロード」が終わり、月曜は「今年最後の出稼ぎ」。 朝カルで福岡伸一ハカセと対談。 福岡ハカセはご自身を「ハカセ」と称し、また私のことを「内田センセイ」と表記されているのはご案内のとおりである。 この「ハカセ」という自称には福岡先生の自然科学に対する深い愛着とクールな批評性の両方がこめられていて、私はこの文字を見るたびに、胸の奧が「ぽっ」と暖かくなる。 福岡ハカセ自身も、お会いするたびに「ぽっ」と胸の奥が暖かくなるような方である。 「センセイ」にも同様の文学的余情がある。 新刊はお互いに送り合っており、そのつどそれぞれの書評コラムで「めちゃ面白いです」と「ほめっこ」しているのもご案内の通りである。 そういうフレンドリーかつハート・ウオーミングな「仲良し」二人なのであるが、忙しくてなかなかお会いする機会がなかった。 今般は朝カルの森さんのオハカライで1年半ぶりくらいのご対面となった。 今

  • 今年最後の死のロード - 内田樹の研究室

    年最後の死のロード。 これで旅は終わりである。あとは大学の務を果たし、年賀状を書き、煤払いをして晴れて年越しである。 早起きして東京へ。今年最後の多田先生の研修会。 半年ぶりくらいである。 そのあとも無理すれば行けないこともない日曜も2,3度はあったのだが、あまりに疲れて、家で死に寝していたのである。 今週は今年最後であるので、死力を振り絞って部道場に出かけた。 道場に入って、道着に着替え、同門の諸君と挨拶をかわしていると、なんだか元気になってくる。 のぶちゃん、工藤君、ツッチー、闇将、山田先輩、ブルーノくん(ひさしぶりだね)、大田さん・・・といつもの顔を見ると、なんだかほっとする。 多田先生が道場に入ってこられると、道場がさっと「明るくなる」。 ほんとに。 白い淡い光のようなものが多田先生といっしょに道場に入ってくるのである。 端座している先生をみつめていると、先生の体感に同調して

  • 人間はどうして労働するのか - 内田樹の研究室

    『日の論点2010』(文藝春秋)が届いた。 そこに「労働について」一文を寄せている。 こんなことを書いた。 「働くとはどういうことか」 編集部から「働くとはどういうことか」というお題を頂いた。この問いがトピックとなりうるという事実から私たちはさしあたり次の二つのことを推論することができる。 (1)「働くことはどういうことか」の定義について、現在のところ一義的な定義が存在しない(あるいは定義についての国民的合意が存在しない)。 (2)そのことが「うまく働けない」若い人たちが存在することの一因だと思われている。 だが、「働くとはどういうことか」についての一義的な定義や国民的合意が存在しないことを私は特に困ったことだと思っていない。その理路を述べたいと思う。 人間だけが労働する。動物は当面の生存に必要な以上のものをその環境から取り出して作り置きをしたり、それを交換したりしない。ライオンはお腹が

  • 及び腰ストラテジー - 内田樹の研究室

    普天間基地の移転問題がなかなか解決しない。 問題がなかなか解決しないのは、誰もが満足できるソリューションが存在しないからである。 当たり前のことを言うな、と言われそうだが、「誰もが満足できるソリューションが存在しないとき」に「早く、誰からも文句のでない決定を下せ」と言い立てるのはあまり賢いふるまいとは思えない。 「できるなら、しているよ」 ということである。 「先送り」というのはひとつのアイディアである。 これについてはかつて春日武彦先生から含蓄のあるお話しをうかがったことがある。 精神科に通ってくる患者の中にはしばしば家族関係のしがらみで「どうにも身動きならない」という窮状にあるものがいる。 あちらを立てればこちらが立たずという状況である。 そういうときには「先送り」するという手が有効だと春日先生はおっしゃっていた。 先送りにしているうちに、原因となっていた家族の誰かが死んだり、入院した

  • 鳥取 revisited - 内田樹の研究室

    倉吉東高校に講演に行く。 この高校の芝野先生という方がたいへん熱心な「ウチダ読者」で、ご招請いただいたのである。 増田聡くんによると、「たいへん熱心なウチダ読者」のことを業界の一部では「タツラー」というそうである。 ええ、そうなの〜 「ウチダー」よりはいいでしょうと増田くんは言う。 まあそうだけど。 とにかく、その先生の音頭取りで全校をあげて「ウチダ」を読む運動を展開されているらしい。 生徒たちはしかたなく近くの書店に行って「ウチダタツルのありますか?」と訊くことになる。 倉吉の書店の人も次々に高校生がやってきてはウチダを求めるので、さぞや驚かれたであろう。 そのせいで倉吉の書店では「内田樹コーナー」を作ったそうである。 リバプールでレコード屋をやっていたブライアン・エプスタインのところにある日レイモンド・ジョーンズという少年が来て、「ビートルズのレコードある?」と訊いた。 ブライア

  • 寛也さんが来た - 内田樹の研究室

    水曜日は鶴澤寛也さんの講演とワークショップ。 寛也さんは今年の4月のアートマネジメント副専攻のインターンシップの受け入れ先を矢内賢二さんに探してもらったときに、「渡りに船」というか「地獄で仏」というか、そういうタイミングでインターン生たちを受け容れてくださった方である。 当日、私は別の仕事があって、打ち上げの席に後から参加して、そのときはじめてお目にかかったのである。 江戸前の、まことに粋な方で、私は衝撃のあまりブログ日記に「玲瓏なる美女」と、ふだんあまり用いない形容詞を動員したほどであった。 そのときに、今度『考える人』のインタビューに出てくださいとお願いしたらご快諾いただき、『考える人』のときには、今度大学に来てワークショップしてくださいとお願いしたらご快諾いただき・・・というふうに「とんとん」と話がまとまってその日を迎えたのである。 ワークショップにはもう少し学生たちが集まってくれる

  • 商品経済から贈与経済へ - 内田樹の研究室

    教育関係の取材がある。 学生や若いサラリーマンたちにどうやってコミュニケーション能力をつけたらよろしいのかというテーマである。 別に起死回生の妙手というのはありませんとお答えする。 そう答えたら、片づかない顔をしていた。 誰でもすぐにできるような妙手があれば苦労はない。 コミュニケーション能力というは平たく言えば「生きる力」ということである。 そのようなものを汎用的教育プログラムとして「はいよ」とご提案することは誰にもできない。 ときどき「これさえやればコミュニケーション能力が一気に身につきます」というような「はいよ」を書いている人がいるが、そういうを書いている人を信用してはならない。 「信用できる人間」かそうでないかをみきわめるのは「生きる力」のもっとも基礎的なもののひとつであり、このようなを手にとってふらふらと買ってしまう人は、その一点においてすでに「生きる力」の伸びしろが少ない

  • 大相撲に明日はあるのか? - 内田樹の研究室

    『中央公論』の I 上くんが来て、「相撲」について取材を受ける。 相撲ですか・・・ もう長いことテレビで相撲を見ていない。 新聞でも相撲の記事はまず読むことがない。 力士の名前もほとんど知らない。 聞くと、相撲は不祥事続きで、客も不入りだし、視聴率も低下するばかりで、もうどうにもならない状態なのだそうである。 そうでしょうねと思う。 理由はいろいろあると思うけれど、要するに「相撲とは何か?」という根源的な問いを誰も真剣に引き受けたことがなかったことがおおきな理由だろうと思う。 相撲は神事なのか? 武道なのか? 格闘技なのか? スポーツなのか? スペクタクルなのか? 伝統芸能なのか? とりあえず、神事を含んではいるが、それ自体は神事ではない。 そのようなものに「公正中立」の NHK が電波を貸すわけにはゆかない。 武道でもない。 武道というのは「心身の生きる力を高め、潜在可能性を開花させるた

  • どうして日本軍は真珠湾を攻撃したのか - 内田樹の研究室

    朝日新聞のイシカワ記者が取材に来る。 真珠湾攻撃について歴史的検証を行うという趣向である。 朝日新聞と日経済新聞には、前に原稿にアヤをつけられて「二度と書きません」と啖呵を切ったはずなのだが、違う部署の知らない記者から寄稿を頼まれると、因縁があったことをころりと忘れて「はいはい」と即答してしまう。 原稿を書いたあとになって「あ、いけね。朝日と日経には書かないことにしてたんだ」と思い出す、ということを何度か繰り返している。 困ったものである。 朝日と日経に書かないことにしたのは、この二紙のデスクが私の原稿に「書き直し」を要求したからである。 朝日は原稿を送る前に「社の方針に合わない内容なら書き直しを要求します」と言われた。日経は原稿を送ったあとに「・・・である」という断定を「・・・であると思う」(だか「・・・だと言われている」)に直せと言われた。 私はべつに両紙の社説を書いているわけではな

  • 学力テストについて - 内田樹の研究室

    07年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)と1964年度の全国テストを社会環境を加えて分析したところ、学力を左右する要因として離婚率・持ち家率・不登校率の3指標の比重が高まっていることが、大阪大などの研究グループの調査でわかった。 いずれも、家庭、地域、学校での人間関係の緊密さに関する指標で、研究チームは「年収などの経済的要因よりも、人間関係の『つながり格差』が学力を左右する傾向にある」と指摘。(毎日新聞、11月17日朝刊) ひさしく「学力格差は経済格差」であると言われてきた。 金持ちの子どもは「教育投資」額が貧乏人の子どもよりも大であるので、学力が高いというのである。 この「要するにすべては金の問題だ」という薄っぺらなリアリズムに過去20年ほど私たちの教育論は振り回されてきた。 それによって、学力のない子どもたちは「自分たちは学力がないのではなく、端的に金がないのだ」というふうに

  • 学校の制度性について、など - 内田樹の研究室

    月曜日。珍しく、ふつうの月曜。 朝、下川先生お稽古。昼の部長会がなくなったので、授業の時間まで家事(カレー作り)と原稿書き。 それからゼミ。杖道の稽古。 帰宅してカレーべて、寝ころんで『鴨川ホルモー』を見る。 最初は「大学実名」でわくわくしたけれど、CGが出てきてから、急速につまらなくなる。 日映画はもうCGを使うのを止めなさい。 なんか「手抜き」という感じ。 山田孝之くんは『クローズzero』での怪演に比べると、ちょっとトーンダウン。栗山千明ちゃんも『キルビル』での怪演に比べると(比べるなよ)。 火曜日。世間はお休みであるが、われわれは教授会研修会。 学生たちの「こころのやまい」の現況と対応策についてのレクチャーとディスカッション。 境界性人格障害と発達障害について、専門家たちから貴重なインフォーメーションをいただく。 ぐったりして帰宅。しようと思ったが、そのあと中之島のリーガロイ