ブックマーク / oxyfunk.hatenablog.com (5)

  • *[critique]責任と自由、進化と歴史 - 凸と凹の間

    web2.0関連の記事や書籍では、「グーグルでヒットしなければ世の中に存在しないのと同じだ」とか「多くのページで紹介されるページはよいページ」という主張がよく見られる。こうした「集団の知恵」的主張にはそれなりのリアリティがある。またある種の市場決定論として理解できてしまうところもある。しかし、どうにも違和感を覚えずにはいられない。とはいえ「マーケティングの言葉だから」と一蹴せずに、ちょっと考えてみたい。 たとえば、誰がその知恵に対する「責任」を引き受けるのであろうか。知の生産・流通を促進することと、知の解釈・運用を見極めることは別である。検索結果に相当する知恵を生み出すことだけが専門家の仕事ではない。専門家は自らの仕事に責任を持つからこそ専門家なのである。web2.0的な集合知の語りはこの差異を無視している。さらにいえば多くの専門家は個人ではなく、その専門性を自己反省する集団として成立して

    *[critique]責任と自由、進化と歴史 - 凸と凹の間
  • *[critique]ネット世論とメタデータ - 凸と凹の間

    「世論」すら怪しいのに、「ネット世論」なんて当にあるのかな。ブログ空間におけるメタデータの相互交換の量的な多さを見ると、そう思わずにはいられない。ベタな書き込みをする人よりも、それらをメタに収集してまとめている人のほうが、情報=ネタとして充実しているように見えてしまうのはとても奇妙なことだ。もし「ネット世論」に固有性があるとしたら、それはこうしたネタのメタ化、すなわちデータの収集・蓄積・検索能力に支えられているのだろう。 これを「象徴的貧困」として捉えるなら、「過剰な情報やイメージを消化しきれない人間が、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった状態」とも考えられる(「思想の言葉で読む21世紀論」朝日新聞、2006年2月14日夕刊)。情報として多様な選択肢が与えられているがゆえに、単純な選択がなされていくという逆説のことである。スティグレールはこの象徴的貧困に「自己の喪失、個体化の衰退」

    *[critique]ネット世論とメタデータ - 凸と凹の間
  • *[critique]デザイン批判の困難 - 凸と凹の間

    ネットに詳しい人が編集部に少ないということで話題になってしまった「オーマイニュース!」。そのアクセスランキングの上位に、岩月美知枝という市民記者による「明治学院大の新ロゴに潜む意味 「有名デザイナー」の作品とは何なのか」(http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000000535)という記事があり、かなりコメントもついている。デザイン批判の困難を象徴しているので、ちょっと読んでみよう。 明治学院大学は2005年1月に新しいロゴマークとスクールカラーを決定した。これらを制作したのは佐藤可士和(アートディレクター)で、彼によれば今回のロゴマークは「明治学院大学が来持っているイメージである、知的で奥ゆかしく、安易に流行に流されない心の強さを、 品格と優しさを感じさせながらも、斬新で個性的な「MG」の文字を中心」に表現したものである(http

    *[critique]デザイン批判の困難 - 凸と凹の間
  • *[critique]「空間/作品」を区別するデザイナー - 凸と凹の間

    ▼デザイナーが作品を語ることの困難 言うまでもなく、デザイナーにとって「作品集」とは〈何を制作してきたのか〉の記録である。ポスター・コマーシャル・パッケージなどがページ毎にカラフルに配置され、その制作をめぐる裏話が解説的に挿入される。ここで興味深いのは、「作品」が示されていながらも、「作品そのもの」についての語りが回避され、「作品をめぐること」が語り続けられていることである。つまりデザイナーは視覚的には〈何を制作してきたのか〉を示しながらも、言語的には〈いかに制作してきたのか〉を表明してしまうのである。 こうした奇妙さを直観する人々は、「デザイナーの話はわかりにくい」と言うかもしれない。「作品」と「作者」を目の前にしたギャラリートークなどで、批評家のごとく「なぜこれを制作したのですか」と聞いているにもかかわらず、「これはA社のBチームと組んで、Cという世界を作ろうしたのですが、これが難しか

    *[critique]「空間/作品」を区別するデザイナー - 凸と凹の間
  • *[critique]情報技術批判の困難とメディア・リテラシーの危機 - 凸と凹の間

    「報道ステーション」の後に「ワールドビジネスサテライト」を見ると、当に同じ一日のことを扱っているのだろうかと思うことは少なくない。何事にも「ビジネス」との連関を忘れない後者にとって、前者はコンテクストにすぎないのだろう。技術革新とその評価を重視する人々にとっては問題=バグの「修正」としての「バージョン・アップ」がニュースであり、政治・社会・文化を重視する人々においては問題=バグの「反復」がニュースである。“いま−ここ”というリアリティ(としての個人的な苛つき)は、こうした「バージョン・アップ」的な語りと「反復」の語りが不均衡に循環するなかで浮上してくる。 コンピュータを購入して、インターネットを利用すること。これを生活や仕事の一部に組み込むようになってから、わたしたちはどうしようもなく「バージョン・アップ」的な語りを無視することができなくなった。手許の端末やソフトウェアで最新の情報にアク

    *[critique]情報技術批判の困難とメディア・リテラシーの危機 - 凸と凹の間
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