ブックマーク / klov.hateblo.jp (52)

  • 「災害としてのゴジラ」を昇華させたシン・ゴジラ - 絶倫ファクトリー

    イギリスの哲学者ホワイトヘッドは、「西洋哲学の歴史はプラトンへの膨大な注釈である」と言った。同様に日の怪獣映画歴史は1954年の初代ゴジラに対する膨大なオマージュである。そういう意味で、今回の「シン・ゴジラ」もまた、初代ゴジラに対するオマージュ作品の一つであることに変わりはない。 しかし、「シン・ゴジラ」の質はこれまでのゴジラ映画とダントツに異なる。個人的に今回のゴジラはある種コペルニクス的転回というか、コロンブスのたまごというか、これまでゴジラ作品が新しく公開されるたびに抱いてきた違和感を解消してくれた。「災害としてのゴジラ」の徹底した描写である。 初代ゴジラは水爆の影響を受けて誕生した。日に与えられるゴジラの傷跡は、単なる自然災害を超えた、水爆による「人災」としての意味合いも強かった。一方、それ以降のゴジラ映画、特に他の怪獣が出ないファーストへのオマージュが強い作品は、どうしても

    「災害としてのゴジラ」を昇華させたシン・ゴジラ - 絶倫ファクトリー
  • メルカリとヤフオクのビジネス面での本質的な違い - 絶倫ファクトリー

    メルカリを使い始めた。TCGやらオーブン皿やら、色々とお得に変えて楽しい。 メルカリ含むこうしたフリマアプリは、CtoCのコマースというくくりでヤフオクと比較されがちだが、よく考えると質的には全然違う。ユーザーサイドから見てももちろん違いはあるが、ビジネススキームとして、原理が異なる。 オークションサービスは、モノの来の適正価格と実際の市場価格の差を利用して成り立っている。高額で取引される人気アーティストのライブチケットなどがそうだ。需給のバランスからしてゼロが一桁足りない定価でチケットが発売されてしまうため、オークションで高額で取引されることになる。極端な話、オークションサービスがどれだけ利益を出すかは、世の中にどれだけ適正価格から外れたモノがあるかどうかで決まる。逆に言えば、世の中のあらゆるモノが適正価格で売られた場合、オークションサービスは消滅する。 一方でフリマアプリは市場価格

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  • Web業界の人はそろそろPDCAという言葉を捨てたほうがいいんじゃないか - 絶倫ファクトリー

    PDCAは「小さな改善」を指すものではないし、そもそもWebサイト改善には向いてない。まずPDCAはP=計画ありきの「マネジメント」の話だし、Webはコントロールできない要素が多すぎて精度の高い計画立案が難しいからだ。 PDCAサイクルの出自は製造業の品質管理である。そしてPDCAという概念のキモは、「品質管理の話をしていると思ったらいつの間にかマネジメントの話をしていた。何を言っているのかry」である。例えば「C」は品質チェック作業はなく、品質のばらつき具合が事前の計画どおりだったかどうかを判断する。それはP=計画の検証そのものだ。製品の品質を管理するときに、単に品質チェックの「作業」を頑張ればいいのではない。品質の問題が生産工程全体のマネジメントの問題にスライドしていく。それがPDCAという概念の画期的な点だった。 だからPDCAというのは製造業だろうがWebだろうが、常にマネジメント

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  • 「Web解析ツール」は死に、「Predictive First」へと移行する - 絶倫ファクトリー

    新卒でWeb系企業に入ってから6年間、webサイト改善の仕事に携わってきたけれど、いわゆるこの業界で言われる一般的な「Web解析」のやり方というのは、もう時代遅れなのではないかとこの半年くらい考えている。正確に言えば、Adobe Analytics(以下AA)やGoogle Analytics(以下GA)といった「Web解析ツール」を使ってWebサイトの課題を見つけて改善点を洗い出し云々……と言ったやり方は古いものになりつつあるのではないか、という話だ。 点の改善 線の改善 AAやGAといった従来のWeb解析ツールの弱点は、サイト全体でユーザがどのように動いているのか、つまりサイト上でのカスタマージャーニーを把握できないことだ。直帰率の高い入口ページを見つけて改善する、CVしているユーザがよく見ているページを見る……これらは基的に課題がある、またはCVに寄与していそうな「点」を見つけて、

    「Web解析ツール」は死に、「Predictive First」へと移行する - 絶倫ファクトリー
  • ABテストツールは「数打ちゃ当たる」を機械化するためのツールではない - 絶倫ファクトリー

    タイトルが全てなんですけどね。 以下のような記事を見つけまして。 駄文:ABテストがモノづくりを破壊する | nekokak's blog いろいろと突っ込みどころはあるんですが、まず最初の「ABテストとは何か」が間違ってるんですよね。 ABテストって簡単に言うと2つ以上ある選択肢のうち一番良い結果を出すことのできるものを見つける事ですね。 もしこの記事を書いた方の組織がABテストをこのように捉えているなら、そりゃモノづくりもクソもあったもんじゃないよなと思います。 ABテストって、単に複数のクリエイティブから良いものを見つけ出す手法じゃないんです。 仮説を検証する行為なんです。テストなんですから。 単に複数のクリエイティブから良いものを見つけ出すなら、クリエイティブのパーツを機械的に作って、何千何万パターンと試せばいい。逆に言えば2つやそこらのパターン試しても意味ないです。数少なすぎ。

    ABテストツールは「数打ちゃ当たる」を機械化するためのツールではない - 絶倫ファクトリー
  • 神保町奇譚 - 絶倫ファクトリー

    神保町に越してきて十日近く経つが、やれ片付けだやれ買い物だでちっとも街歩きが出来ず、ようやく今日それが叶った。 家の目の前にあるワンダーで出久根達郎の『古奇譚』を見かけた。当初買うつもりはなかったのだが、そのあと同じフロアで手に取ったエッセイがたまたまそのについて言及していて、あれこれはさっき見かけたじゃないかと元の棚に戻って手に取った。 エッセイが言及していたのは、古奇譚のうち芦原将軍に関する部分だった。芦原将軍は昭和初期に天皇を名乗った精神病患者で、当時のマスコミを騒がせた人物。乃木将軍や伊藤博文と実際に院内で話したこともあるという。Wikipediaの「珍項目」というカテゴリに確か彼の話があって、そのカテゴリを漁っている際に読んだ。 古奇譚の「狂聖 芦原将軍探索行」は、そんな芦原将軍の正体を探る男の物語。彼が書いた「勅書」(実在する)を買いたいと言われた古屋の主が、芦

    神保町奇譚 - 絶倫ファクトリー
  • グラビティで始まりグラビティで終わる物語 ―「ゼロ・グラビティ」を観てきた - 絶倫ファクトリー

    ※ネタバレあり。 1.物語が良い 2.宇宙空間の描写が良い 3.3Dを上手く使っている ということでとても良い映画だった。 グラビティで始まりグラビティで終わる物語 既に見た人の多くが口を揃えて言うように、邦題の「ゼロ」は余計だ。この物語はグラビティに始まり、グラビティに終わる映画だからだ。 サンドラ・ブロックの演じる主人公は、娘を事故で亡くしている。原因は道端で「転んで」頭を打ったことだった。グラビティ(重力)のせいで娘を失った。 彼女はそのショックから逃げるように、宇宙でのミッションに没頭していた。映画の大半は、そんな彼女が事故で船外を彷徨い、無重力空間のトラブルや恐怖と闘いながら、なんとか地球に帰還する様子を描くのに割かれている。ゼロ・グラビティの世界だ。 ラストシーン、脱出用の宇宙船が海に着水する。普通ならばそこで終幕なのだが、コクピット内に海水が入り、彼女も一度海に潜らざるをえな

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  • 2.5次元とは何か ―ニコニコ超会議/超パーティー感想に代えて - 絶倫ファクトリー

    2.5次元という言葉がある。 この言葉にはいくつか意味があるようなのだが、ここでは「あの人2.5次元ぽい=アニメや漫画のキャラクターのように、発言や動きがユニーク」としておく。 昨日ニコニコ超会議と超パーティに行ってきた。超パーティは席が遠かったし基はユーザーフォーカスなのでテレビで見たあの人が目の前に! というわけじゃないんだけど、超会議で一人、生で見た時にいわゆる「オーラ」があるなと思った人がいた。ひろゆきだ。 ZUNビールを飲みにいったら、ビール売り場の横の椅子にひょこっと座りながら談笑していた。 当にそれだけ。それだけなんだけど、なんだかオーラがあった。 オーラがあるという表現は、芸能人を実際に目の前にした時によく使われる。僕はそういう経験をしたことがあまりなかったので、単なる権威への信仰心じゃないかと思っていたが、超会議と超パーティで少しその考えを改めた。 超パーティや超会議

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  • エル・グレコの絵がめっちゃマジック・ザ・ギャザリングのイラストっぽい。 - 絶倫ファクトリー

    爆弾低気圧に紛れて4時くらいに行けば空いてるだろうという魂胆で、会期末最後の土曜日、エル・グレコ展に行ってきた。 構図が凄い、時間的な動きを感じるなど、素晴らしい点はいくつもある。しかし一番印象に残ったのは、エル・グレコが<見えないもの>を<見えないもの>として絵画に落とし込んでいる点だ。キリストや使徒がまとう<holy>な感じを、そのままオーラのように人物の周りに描いている。 エル・グレコの絵、特にヴェネチアでの修行を終えたトレド時代は、筆致が荒い一方で陰影がはっきりしており、デフォルメがされている。昔スペインで実物を見た時、妙に漫画っぽいなと思った記憶がある。卑近な例で言えば、超サイヤ人の「気」やハンターの「念」がそのまま西洋絵画の中に現れた感じだ。 加えて、エル・グレコの絵は動きがある。それは時間的な動きだ。「受胎告知」はモチーフとしても彼の作品としても有名なものだが、彼はこのモチー

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  • 「なりきり」はなぜ擬似恋愛なのか - 絶倫ファクトリー

    女の子ウェブの隠し味、「なりきり」の秘密に迫る! - ねとぽよ 先日の「なりきり」記事への反響について - ねとぽよ この2つの記事を読んで、ふとなぜ「なりきり」が擬似恋愛になるのか、考えてみた。 それは「なりきり」も恋愛も、もある種の「役割への期待」に答えながらコミュニケーションをしていくものであり、かつそのコミュニケーションの履歴は他には無いユニークネスを持つ(と当事者は思い込む)からだと思う。 なりきりは演劇と普通のチャットの中間的な存在だ。演劇が決められたセリフを台通りに発するのに対し、チャットは台などなく、アドホックな言葉のやりとりが続く。なりきり、特になりきりチャットの発話は、事前に相手が発した言葉への応答でもありつつ、自分がなりきっている役割に向けられた相手からの期待にも応えている。相手の言葉と、相手の期待との交点に自分の言葉があるのだ。 同様に、恋愛もまたなりきり(チャ

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  • Webはコンテンツとプラットフォームがすごく近い。紙は遠い。という話。 - 絶倫ファクトリー

    こんな話である。 Webはコンテンツとプラットフォームがすごく近い。紙は遠い。 紙のや雑誌を作る過程(企画・執筆・編集・印刷・製……)とそれらを売る過程(流通・書店での販売)がきっちり分かれている。当たり前だと思うかもしれないが、これらをウェブに当てはめてみると、そうでもない。をコンテンツ、売り場をプラットフォームと呼び替えると、Webメディアはコンテンツとプラットフォームがかなり接近していることがわかる。コンテンツを作った人たち(もちろん社内で職種はわかれているけど)が、そのまま自サイトのトップページその他でコンテンツを見せる。Webメディアはコンテンツでもあり、プラットフォームの要素も兼ね備えている。もちろん、Google を始めとする検索エンジンや、Twitter・Facebookといったソーシャルメディアからのアクセスも大量にあるため、すべてのアクセスを自らのプラットフォーム

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  • 本当のGooglezon - 絶倫ファクトリー

    焦点:米アマゾンとグーグル、2013年は「衝突」不可避 Amazonが顧客のデータ販売で広告ビジネス=Googleの領域に攻勢をかけようというのに対し、GoogleもモバイルECの分野でAmazonに仕掛けている、という記事。 お互いにWebを入り口としながら、Amazonはリアルの流通を大規模に整備し、GoogleはWebでの流通を大規模に整備してきたのがこの10年だった。真逆の道を歩んできたはずの両者がこうした形でぶつかるというのは、非常に面白い。最終的に彼らが衝突するのは、モバイル端末での分野だ。つまりオンラインとオフラインの境目に存在するのがモバイル端末ということだろう。 (デスクトップPC的な意味での)PCは、場所が固定される。従って利用する時間についても程度オンオフをはっきりせざるを得ない。一方モバイル端末は場所を固定しないので、利用する時間を細切れにできる。PCしかなかった頃

    本当のGooglezon - 絶倫ファクトリー
  • ニコニコ動画とこれからのインターネットと - 絶倫ファクトリー

    党首討論をニコニコ動画で見た。これが日のインターネットのターニングポイントだ!とは言わないが、もし将来歴史の教科書にインターネットの歴史が載るとすれば、その中に刻まれるであろう出来事なのかなと思う。テレビが持つ公共性は凋落の一途をたどっている。リビングでテレビを見る中学生より、親のお古のスマホからwi-fiでニコニコを見る中学生の方が多いかもしれない。そういう意味で、今回の試みは後々に参照されるべき事例なのだろうと思う。 政治はその性格上、公共性を無理やり作り出す。公共的なものが政治なのではなく政治の足あとが公共なのだ。自民党と民主党のニコニコ動画をめぐるプロレスがこういう形で決着したということは、ネットの政治解禁は加速度的に進んでいくのだろう。どういう道筋になるかは別として。 ネットのこれから インターネットの世界が変わろうとしている。Web2.0以降、ネットの世界がやってきたことは煎

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  • これはものづくりの本ではない―クリス・アンダーソン『MAKERS』感想 - 絶倫ファクトリー

    MAKERS―21世紀の産業革命が始まる 作者: クリス・アンダーソン,関美和出版社/メーカー: NHK出版発売日: 2012/10/23メディア: 単行購入: 16人 クリック: 746回この商品を含むブログ (26件) を見る ものづくりのプロセスがデジタル化されることで、製造業の「民主化」が起こる。大企業が製造と流通を支配し、大量生産大量流通に合う製品だけが市場に出回っていた時代が終わる。これからはアイディアとやる気をもったアマチュアたちが、大企業が取りこぼしたニッチ分野をカバーするのだ――これが書の大まかな主張である。 大事なのは3Dプリンタではなく、クリエイターのコミュニティ 最近、3Dプリンタや3Dスキャナが注目されている。書でもそれらは取り上げられているが、これらはモノのデジタルデータ(アンダーソンふうに言えば「ビット」)と実際のモノ(同じく「アトム」)のゲートキーパー

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    min2-fly
    min2-fly 2012/11/27
    "製造業とクラウドを結びつけるのは、ミスリーディング" という問題はありつつも面白い本の様子。ふむー
  • こじらせ女子とは何か - 絶倫ファクトリー

    こじらせとは、ワナビーと構造的に対になる言葉である。 過剰供給される「ありえるかもしれない自分」 人は様々な「物語」を生きる。消費社会はメディアを通じて私達に様々な可能性を見せる。時に人はそうした外部の物語が先行して、行動よりも願望が先回りしてしまう。ワナビーとは、「ありえるかもしれない自分」の亡霊に惑わされ続ける人のことだ。一方「こじらせ」はその逆である。いかなる「物語」も拒否し、生き方に迷う人々を指す。ワナビーもこじらせも、「ありえるかもしれない自分」を上手くキャッチできていない人種である。方向性がポジティブなのかネガティブなのか、ワナビーとこじらせの差はその違いにすぎない。 自分で自分固有の人生を回せない=自分の「物語」を持てない。それは今に始まった現象ではない。資主義以前の世界で、人々の物語は決まっていた。生まれた瞬間、たいがい人々の前に見えないレールが敷かれていた。資主義が浸

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  • 松谷創一郎『ギャルと不思議ちゃん論』 - 絶倫ファクトリー

    ギャルと不思議ちゃん論: 女の子たちの三十年戦争 作者: 松谷創一郎出版社/メーカー: 原書房発売日: 2012/08/24メディア: 単行購入: 19人 クリック: 697回この商品を含むブログ (10件) を見る ギャルと不思議ちゃんの系譜 「ギャル」と「不思議ちゃん」の系譜を追うことで、(若い)女性の文化史を紐とく。というよりも、女性が(積極的/消極的問わず)選択するスタイルの歴史が網羅的に書かれている。 基的には<コ>ギャルの歴史を追うことで書は進んでいく。80年代、若い女性が選ぶスタイルは「少女」だった。しかし90年代以降、そうした「少女」に対する社会のまなざし・欲望を逆手に利用する<コ>ギャルが登場する。彼女たちは自らに降りかかる性的なまなざしを、欲望を、期待を利用し、生きるための軸としていく。著者は彼女たちのそうした姿を「メタ少女」呼ぶ。 もちろん、こうした振る舞いは「

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  • 幸福な消費/不幸な消費:速水健朗『都市と消費とディズニーの夢』と新雅史『商店街はなぜ滅びるのか』 - 絶倫ファクトリー

    幸福な消費:速水健朗『都市と消費とディズニーの夢』 都市と消費とディズニーの夢 ショッピングモーライゼーションの時代 (oneテーマ21) 作者: 速水健朗出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)発売日: 2012/08/10メディア: 新書購入: 1人 クリック: 31回この商品を含むブログ (6件) を見る ショッピングモールと都市が、消費を通じて接近していく様子を描き出した。特にウォルト・ディズニーが晩年ショッピングモールを熱心に研究していたという事実は、書のハイライトの一つだ。 モータリゼーションを下敷きにモールが発展したアメリカと、鉄道を中心に発展していった日は事情が異なるが、たまプラーザや代官山など国内の取り組みにも触れている。 都市という公共的な存在が、経済上の要請によって「テナント業」化していく様子を、ショッピングモーライゼーションと著者は呼んでいる

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  • ダークナイト・ライジングを見た。 - 絶倫ファクトリー

    『ダークナイト ライジング』町山氏 公開直後ネタバレ用心ツイート ここで書かれていることでだいたい事足りる感想だった。 娯楽映画としては楽しめるけど、ノーラン×バットマンでわざわざやらんでも。インセプションに続くノーラン最新作、またはダークナイトの続編! と期待して見に行くとがっかりする。あと100回くらい言ってるけど、アン・ハサウェイのキャットウーマンが素晴らしかった。もうこれに尽きる。 ちなみに上記リンクに英ガーディアン紙の評として「億万長者バットマンが反資主義運動を暴力で潰し、富裕層のトリクルダウンを推奨」というのが載っているけれど、それは違うと思った。確かに劇中でベインは囚人を解放して、ゴッサムを警察や政府から市民の手に取り戻すと標榜する。けれどその結果訪れるのは、自由ではなく、別の規範だ。相互監視による、不信を元手にしたコミュニティが現れるに過ぎない。 ベインはかなわぬ希望を見

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  • Gunosy がすごい - 絶倫ファクトリー

    昨日のエントリーで「自分に必要な情報を選ぶためのフィルターは淘汰される」という話を書いた。『閉じこもるインターネット』の著者は、メディアがユーザーの望むものだけを与えることで、衆愚的なコンテンツばかりになることを危惧していた。それ自体はすでに起きている事態だ。問題はそうした衆愚的なフィルター、つまり「みんなが見たがるものを私も見たい」という欲望に応えることのできるコンテンツと言うのは、そんなに種類として多くない。ほぼパターンが決まっているのである。フィルターを非常に作りやすい。そのため飽きられる速度もそれなりに速い。フィルター自身が淘汰されると書いたのは、そういうことだ。 最近、面白い「フィルター」を見つけた。「Gunosy」というサービスだ。TwitterやFacebookのアカウントを使ってサインアップすると、アルゴリズムを使って自分にあったニュースを探して配信してくれる。こう書くと「

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  • 『閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義』 - 絶倫ファクトリー

    未読だったので読んだ。「グーグル・パーソナライズ・民主主義」というサブタイトルでほぼどういうだか見当が付きそうだが、その検討は外れていない。 インターネットではユーザーとサービスの間でフィードバックループが起きやすい。ユーザーの行動が定量的に観察できるため、サービスはユーザーの行動に合わせて機能を変えたりサービスを提供したりする。これが人間の認知に影響を与える、つまり視界を覆うフィルターとして機能し、多様性が失われるのではないか、という話。筆者はこれを「フィルターバブル」と呼ぶ。ユーザーはフィルターの泡の中で、公共性に触れることなく過ごしてしまうと言うわけだ。 問題意識としてはサンスティーンの『インターネットは民主主義の敵か』やレッシグ『CODE』、その他プライバシーとインターネット関連の諸問題もろもろを引いてきており、とくに目新しいものはない。むしろユーザーとサービスの間にあるフィード

    『閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義』 - 絶倫ファクトリー