ここでは自宅サロンを開業するまでの流れを3つのステップで解説していきます。この流れに沿って見て頂ければ、自宅サロンを開業するまでの最適な道のりがきっと見えてくると思います。まず3つのステップは以下のようになっています。自宅サロンの具体的イメージを固める自宅サロンのメニューを考える自宅サロンの開店準備...
はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました 以下のエントリの通り、今年末を目処にはてなグループを終了予定である旨をお知らせしておりました。 2019年末を目処に、はてなグループの提供を終了する予定です - はてなグループ日記 このたび、正式に終了日を決定いたしましたので、以下の通りご確認ください。 終了日: 2020年1月31日(金) エクスポート希望申請期限:2020年1月31日(金) 終了日以降は、はてなグループの閲覧および投稿は行えません。日記のエクスポートが必要な方は以下の記事にしたがって手続きをしてください。 はてなグループに投稿された日記データのエクスポートについて - はてなグループ日記 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 2020-06-25 追記 はてなグループ日記のエクスポートデータは2020年2月28
Twitterを使うようになってから、Webサービスでサイトに繋がらなかったり重かったりした時に、そのサービス名をTwitter検索で検索することで、同じような状況の人がいないかを調べて、原因が自分の環境固有の問題なのか、Webサービス側の問題なのかをいち早く知ることができるようになりました。 「Twitter検索 : Search」でTwitter上のログを検索することができます。 日本人でTwitterを利用してる人がどれくらいいるのかは知りませんが、Web上の新しい物好きな人たちが寄り集まってるような状況ですから、たいていのWebサービスは使ってる人がいて、そのサービスが落ちてると誰かしらの「○○落ちてる?」という発言を検索で発見することが出来ます。自分の環境のせいなのか、Webサービス側が落ちてるのかを確認できるのは非常に便利です。 これはWebサービスの障害に限った話じゃなくて、
耳の掃除をし過ぎたのか、外耳炎になって膿が出てきたので病院にいく。病院にいって治療してきたはいいものの、その帰りに「下り」の段差があることが見えずに、足を踏み外しこけてしまった。これは「気づいていなかった・知覚できていなかった」のだろう。 こういった「くだり」の段差を、私は気をつけていなければならない。なぜかというと、視界を「立体的」に捉えることがなぜか難しいからだ。頭の中で「立体」を描くことはできるが、目の前にある視界、目に移る今現在のものが平面的であるから、たぶん「段差がある」と理解していてもその「高低差」がわかっていない。よくつまづいたり、妙なところでこけたり、頭上の障害物に気づかずにそのまま電柱にぶつかったり木にぶつかったりおでこからつっこんでしまったり。 「痛み」というのは実際には身体をどこかにぶつけたり、あたったりすることで痛みとして感じるものが通常「痛み」という言葉を聞いた時
続きのような⇒finalventの日記 - 心の統一性と「私」 で、「私」の単一性、というフレームではなく、具体的に先のマルコ青年のフレームだと、コミュ・ツールで幻視される人ってどうよ?ということではないか? このフレームを外していたら、大笑い、なんだろうけど。 仮にそうだとして。 たとえば、finalventというのは、この形態のコミュ・ツールを使った幻想なわけだ。 ちょっと比喩的になんだけど、私としては、当初、こんな日記を展開すると思ってもいなかった。極東ブログで終わりでいいと思っていたし、今でもけっこうそれはそうなのだが、というか、極東ブログはこの日記より開いて書いている。曖昧とか難しいとかあるかもしれないけど、私としては読む側が歩み寄ってくれればわかるようなスタンスにしてある。 こちらの日記はけっこうそういう配慮なし。ある意味でめちゃくちゃ。 で、たぶん、これがこのコミュツールでで
斎藤環から茂木健一郎への手紙 はじめまして。 はじめておたよりします。斎藤環と申します。 茂木さんの著書は何冊か読ませていただきましたが、その精力的な活動のすべては、とうていフォローし切れていない点をまずお詫びいたします。 そのかわりといってはなんですが、妙なエピソードからはじめさせていただきます。 じつは私は、茂木さんとこれまでに何度かニアミスしているんですよ。たとえば、私は2006年の夏休みにフライブルクに行ったんですが……(といえばピンと来るかも知れませんね)、ルフトハンザ機内で私たち家族の斜めうしろに茂木さんが座っておられました。驚いたのは、往路だけならまだしも、復路の機内でもほぼ同じ位置関係で、なんというか、この「偶有性」には驚かされました。思えばあの時点で、この企画は萌芽的かつ徴候的に成立しつつあったのかもしれませんね(笑)。 私の茂木さんへの親近感はこれに留まりません。私たち
共感覚は脳の領域間の過剰な神経ネットワークが原因 Romke Rouw et al, Increased structural connectivity in grapheme-color synesthesia Nature Neuroscience 10, 28 May 2007 特定の文字が特定の色に見えたりする"共感覚"の機構がわかってきたようです。 今週のThe Economist にも掲載されています。 相変わらず早い・・・ しかも画像が原論文より綺麗だし。(修正・加工してあるからですが) なぜか本論では「文字と色」の関係のみが強調されていますが、 共感覚は様々なパターンがあるわけでして。 文字と音が対応していたり。 「at」という文字を見るだけで水がコップから溢れる情景が浮かんだり。 (あ、そういえばこれらの「逆」はどうなんだろう? Tという文字が赤に見える人は、赤色を見てT
心身問題(しんしんもんだい、英語:Mind–body problem)とは哲学の伝統的な問題の一つで、人間の心と体の関係についての考察である。この問題はプラトンの「霊―肉二元論」にその起源を求めることも可能ではあるが、デカルトの『情念論』(1649年)にて、いわゆる心身二元論を提示したことが心身問題にとって大きなモメントとなった。現在では心身問題は、認知科学・神経科学・理論物理学・コンピューターサイエンスといった科学的な知識を前提とした形で語られている。そうした科学的な立場からの議論は、哲学の一分科である心の哲学を中心に行われている。 本稿では、デカルトの時代における心身問題の議論から、心の哲学による科学的な心身問題の議論に至るまでの、大きな流れを記述する。 デカルトの心身二元論[編集] 松果体の働きを説明するためにデカルトの「省察」でもちいられたイラスト デカルトは心を「私は考える」 (
「フーリッシュな知性」と題し、歴史上、至るとき、至るところに見られる「フール」の文化の変遷を辿りつつ、「理解」という人間的な思考の外側に開いた魔の領域に目を向けた「前編」。 さすがに長文になりすぎたため前後編に分割したが、後編では「使える」ということと「理解」の関係の外側にある非人間的な知性、まさにフーリッシュな知性について考えてみたい。 まずは、前編で紹介したチャップリンに続き、「ドイツのチャップリン」とも呼ばれる喜劇役者カール・ヴァレンティンのコメディ作品に目を向けてみることから始めよう。 壊れているのは、譜面台か、彼らか『道化と笏杖』のなか、チャップリンとキートンの『ライムライト』を紹介したすぐあと、ウィリアム・ウィルフォードは、「ドイツのチャップリン」とも呼ばれるカール・ヴァレンティンの『魔法の譜面台』という喜劇についても論じている。 この喜劇は、ヴァレンティンと相方のリーズル・カ
Science誌上で論争が。 去年の9月に出たこの論文(brevia)↓に対し、 Detecting Awareness in the Vegetative State Adrian M. Owen, Martin R. Coleman, Melanie Boly, Matthew H. Davis, Steven Laureys, John D. Pickard Science 8 September 2006:Vol. 313. no. 5792, p. 1402 今週号のScienceで、コメント(反論)2つ: Comment on "Detecting Awareness in the Vegetative State" Daniel L. Greenberg Comment on "Detecting Awareness in the Vegetative State" Para
私の場合、九時間以上の国際線フライトに年に二十回くらい乗る。その機内での時間の使い方に、最近、私なりの小さなブレークスルーが生まれた。ふとしたことがきっかけで発見したのだが、機内は、講演を聞くのにじつに適した場所なのである。座席はあたかも講演会場のように窮屈だし、適度に暗い。途中で離席する自由がないからこそ逆にゆっくり話が聞ける。集中しても読書や映画鑑賞と違い目が疲れない。気がつくと一時間半とか二時間が経過し、退屈な機内の残り時間がどんどん減っていくのは快感でもある。 この発見以来、「小林秀雄講演」全六巻、「司馬遼太郎が語る」全八集、「三島由紀夫 学生との対話」(いずれも新潮社)を買って「iPod」に収め、ここ数回の日米往復ですべて聞いてしまった。日本出張を控え、さて次は何を聞こうかと思い、脳科学者・茂木健一郎がそのブログ「クオリア日記」に講演や対談の音声ファイルをこまめにアップしている
折角の機会なので、幾つかの質問に答えてみる。この答えが唯一のものではなく、しかし私が現時点で思いつくものではあることを留意のうえで、読んでくれると嬉しい>該当者の方 [防衛機制]僕も「防衛機制によって〜を防衛しようとしていますね←とメタ分析することによる防衛機制ですね←とメタ分析〜」という感じで防衛機制は無限後退可能だよなぁと思っていたので、後日の解説に期待。 http://b.hatena.ne.jp/Masao_hate/20070221#bookmark-4023577 確かに、防衛機制を指摘される前にメタレベルに後退し、例えば「俺は分かっているけれど敢えてやっているんだ」という形でメタ防衛を重ねることはやはり可能だ。メタ防衛に対する追求にはさらにメタ防衛で応戦、という手法は十分に考えられる。kiya2014です。こんにちは。の模式図は、こうしたメタ無限後退をよく現している。 では、
メールという新しいコミュニケーションの手段が普及するにつれて、それに関する新しい悩みや問題も発生するようになりました。 「恋人がメールに付き合ってくれない」「友人に長い文章のメールを送ったのに、返事がひと言だけだった」などという嘆きは、よく聞かれます。 メールは、相手の都合を考えずに、いつでも送れる便利なものです。 直接会ったり電話をかけたりするのであれば、食事時や夜間、相手が忙しいときなどには控えるといった配慮が必要ですが、メールは、相手の都合のよいときに見てもらえばよいので、時間帯を気にせず勝手に送りつけることができます。 しかし、簡単で便利なものだからこそ、よけいに深い配慮が必要となるのです。 あくまで「相手の都合を考えず、勝手に送りつけたものである」ということを忘れてはいけません。 それをわきまえておかなければ、返事がないからといって「嫌われたのではないか」と気をもんだり、
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