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ブックマーク / blog.japan.cnet.com (13)

  • 「泣き顔」 - 会話表現に入り込むメール表現

    先日原宿を歩いていたら、小さな女の子とそのお母さんが歩いていた。竹下通りともなれば、道幅が狭くてヒトが密集して歩いているので、否応なしに会話は耳に入ってくる。微笑ましい母このやりとりそうだったので特に会話の内容にまでは注意しないで歩いていたら、女の子の口から妙なフレーズが出てきた。 「幼稚園でお砂遊びしてたら雨降って来ちゃったの泣き顔。」 これをふわっと街中で聞いたら、引っかかりますよね、「泣き顔」って部分に。その後も「雨」「涙」「お日様」「にこにこ」といった言葉を文章の最後つけて喋っていて、そのこどもと平然と話をしているお母さんは、竹下通りを神宮前交差点の方向へ曲がっていった。 僕はそのままKDDIデザイニングセンターの路地を入っていったんだけれど、突然聞いてちょっとびっくりしてしまって、どういう事なのだろう、といくつかの会話パターンをもやもやしながら考えていた。ただ、こうやって文章にし

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    mind 2007/06/01
    ケータイメールがはじめからある世代について、話し言葉が書き言葉に接近して行く瞬間に出会ったような衝撃 ――なんでも言語化! かっこびっくり // ――プログラム打込むときにお友達に読んでもらうとか、思い出したw
  • CNET Japan Blog - 佐々木俊尚 ジャーナリストの視点:新聞が背負う「われわれ」はいったい誰なのか

    新聞の<われわれ>とはいったい誰か ジャーナリストの玉木明氏は、オウム真理教事件の直後に刊行された「ニュース報道の言語論」というで、新聞記事の主語は、実は文面にはいっさい出てこない「われわれ」であると書いている。たとえば、次のような記事の文例を見てみよう。「強引とも言える捜査は、小さな山村の集落の住民を相互不信に陥らせ、人のつながりを壊した。警察への憤りも広がっている」(二月二十三日、鹿児島県議選買収無罪判決の記事から)。この記事で警察に憤っているのは、誰なのか。ここで憤っているのは、実は書いた記者個人という「わたし」なのだが、しかし記事の文脈では「私が憤った」とは書かれていない。あくまでも社会全体の「われわれ」であるというスタンスを取って書かれているのだ。玉木氏は前掲の書籍で、以下のように書いている。 ある特定の観点を<われわれ>の観点とみなすこと、特定の主張を<われわれ>の名において

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    mind 2007/02/28
    ――「国民」の発散。クラスター化。「我々」という言葉を使わなくても、客観的ジャーナリズムは可能。 /しかし政治は不可能。 cf. GB軍を「我が軍」と指示しないBBC
  • CNET Japan Blog - 中島聡・ネット時代のデジタルライフスタイル:時代にマッチした「サイト利用規約」を作ってみた

    ここのところ、「無断リンク禁止は悪なのか?」、「野村総研がリンクする際には文書で申し出よというので文書で申し出た」などの時代遅れの「サイト利用規約」に関する話題で盛り上がっている。 「前例にならって無難な道を選ぶ」サイト運営者が多い結果だとは思うが、彼らをいくら非難したところで、「悪例(=ウェブの黎明期に作られてそのまま継承されている利用規約)」がこれだけ氾濫している段階では、すぐには解決しないような気がする。 そこで、参考にしていただければと、私なりに「今の時代にマッチした『サイト利用契約』」の雛形を作ってみた(ちなみに、「いっそのことクリエイティブ・コモンズにのっとった規約を」、という意見もあるとは思うが、まずは無難に現状の著作権法にのっとって書いてみた)。 1.当ウェブサイトに記載されている内容(コンテンツ)の著作権は、特に明示していない限り○○○に帰属します。著作権法で定められた「

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    mind 2006/10/06
    ――たたき台。当たり前のことでも、公開されて(「大部分によって承認されている」との)共通認識が取れることに意味がある。 ←→「俺ルール」の啓蒙は、技術的に自然でない限り難しい。
  • CNET Japan Blog - 中島聡・ネット時代のデジタルライフスタイル:YouTubeを使ったテレビ番組の『引用』の合法性に関する一考察

    私はWinnyなどのP2P型のファイル共有サービスを使って音楽映画をコピーすることは犯罪であり徹底的に取り締まるべきだと考えているが、YouTubeにテレビ番組の一部をアップロードする行動に関しては、「ある程度までは許容範囲として認めるべきではないか、必要であれば著作権法の方を変更すべき」と感じている(参照:見たい番組の存在は『放送後』に知ることが多い、だからYouTube)。 この違いを誤解を招かないようにどうやって説明しようかと悩んでいたのだが、ちょうど良い記事をITMediaに発見した。 ブログの主目的は『個人的体験の共有』 人々がファイル共有サービスを使う目的は、明らかに「来ならばお金を払って入手しなければならない音楽や映像を無料で手に入れること」であり、これは明らかに著作権法違反である。これに対して、人がYouTubeにテレビ番組の一部をアップロードする目的は、主に「こんな面

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    mind 2006/07/21
    その動画に関する自分の意見をブログで表明するために、番組の一部をYouTube(/はてな)にup。著作権法の『引用』 ――活字メディアの中に、映像を引用する。発想なかった。internetwork OLE? 静止画キャプがいいならあり得る。
  • テレビ局がわが家のハードディスクを制御する?:佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japan

    テレビ局がわが家のハードディスクを制御する? 公開日時: 2006/06/30 18:59 著者: 佐々木俊尚 1か月ほど古い話になるが、『山崎潤一郎のネットで流行るものII』の『NHKの技研公開を見学してきた〜ユーザー軽視のサーバー型放送』というエントリーで、サーバ型放送に対する不信感が語られていた。 <それにしても、サーバー型放送のデモを見ていてつくづく思ったのだが、メーカーと放送事業者で集まって密室で規格を作っている、というのはまさにその通りだと感じた> 山崎さんはこのエントリーの中で、HDDで録画した番組を外部に転送する際のメディアがSDカードになっている点を取り上げ、<松下が深く絡んでいるので、政治的な思惑で、なにがなんでもSDカードを使わなければならないのはミエミエな感じだが、自分たちの思惑だけでそんな不便なものをユーザーに押しつけるなと言いたい>と怒りを表明されてい

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    mind 2006/07/03
    ユーザーの同意に基づいたプッシュ ――個別具体的な同意があればPUSHと言えないけど、キラーコンテンツと抱き合わせて、抽象的包括的同意を迫る(のでしょ?)のは、十分にPUSH。
  • ネット世論の「拠って立つ場所」とは:佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japan

    前回のエントリーに関して、トラックバックをたくさんいただいた。しかしブログを書くのが非常に遅く、それらのトラックバックをもとに考えをまとめるのが、今ごろになってしまった。 >例えばR30氏の発言や態度を容認する人も、否定する人も >オープンジャーナリズムなる試みに期待する人も、懐疑的な人も >こぞって「泉あい的手法」にはNOを突きつけた >この現状を、表面だけとらえて「炎上」と斬って捨てるとは。 『真プライベート・ロード』というブログで、水島美也子さんは、上記のように「こぞって」という言葉を使っている。新明解国語辞典(三省堂)によれば、「こぞって」というのは、「関係する全員が、一人残らず同じ行動をとる様子」と定義されている。このブログで指摘している「全員」というのは、どの圏域を意味しているのだろうか。 またまったく別の立場から、『404 Blog Not Found』では『絶対的正義

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    mind 2006/06/08
  • CNET Japan Blog - 中島聡・ネット時代のデジタルライフスタイル:ユーザー指向のもの作りに関する一考察

    この週末に私が読んでいるは、私のもう一つのブログでも紹介記事を書いた「The Ten Faces of Innovation」。そのに私がいままで漠然と感じていてうまく説明できなかったことを上手に説明してくれている記述を見つけた。 そこには、自動車産業の父、Henry Fordの言葉「もし私がカスタマーに何が欲しいかと尋ねたら、彼らは『もっと早い馬が欲しい』と言っていたでしょう」が引用してあり、「カスタマー(顧客)の声を聞くことは大切だが、彼らに『何が欲しいか』を聞いても必ずしも答えは出て来ない。それよりも彼らの行動を良く観察し、どんなところで苦労しているか、彼らなりにどんな工夫をして今あるものを使いこなしているかを理解した上で、何を作るべきかを考えるべきだ」と結論付けている。 ものすごく共感できる。この業界にいると、「ユーザーの声を聞くことは大切だ」というセリフは良く聞くが、それを頭

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    mind 2006/05/22
    「…彼らに『何が欲しいか』を聞いても…。彼らの、行動を良く観察し、どこで苦労しているか、どんな工夫をして今のを使いこなしているか理解し…」 ――直接民主制のジ…(衆愚政治)に対する、専門家の態度/解答。
  • 平野啓一郎『バベルのコンピューター』に見る新たなアポリア(後編):江島健太郎 / Kenn's Clairvoyance - CNET Japan

    昨日のエントリでは、『バベルのコンピューター』が次々に産み出す1.3MBのテキストデータが、280台のパソコンで構成される分散システムによって黙々とハードディスクに書き込まれていくということについて、特に性能面での技術的なリアリティについて皮相的な批評を行った。 そこで次に、 「記録されたデータに対してどのようにアクセスできるか?」 というより質的な問いかけが、以後の検討の主題である。 ■神は知性に何を託したか 論を進めよう。 ここで『バベルのコンピューター』によって生み出された「途方もない数ではあるが無限ではない」数のたちは、それぞれを「いかに呼び分けるか」という新たなアポリア(難題)に直面する。 我々は一般に、にタイトルや著者名、出版社、刊行日などのメタデータを付加することで、そのをそれ以外のと区別している。(以下では簡単のため「」と「タイトル」の関係だけに絞って議論する。

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    mind 2006/05/13
    (ランダムな)1,312,000文字が埋め尽くされた一連の本には「その1,312,000文字よりも短いタイトルを付与することができない」
  • 平野啓一郎『バベルのコンピューター』に見る新たなアポリア(前編):江島健太郎 / Kenn's Clairvoyance - CNET Japan

    芥川賞作家であり学生時代の悪友でもある平野啓一郎の短編集の新著『滴り落ちる時計たちの波紋』が刊行された。 ざっと読み終えてみての感想は、スタニスワフ・レムが「ソラリスの陽のもとに」のような硬派SFから「虚数」のようなジョークすれすれの衒学趣味へと傾倒していったように、エクリチュール芸術としての文学の方法論的な限界を試すことが、前作の「高瀬川」以降、平野の目下の関心事であるらしい。アバンギャルドな形式それ自体の挑発的性格から、巷の読者の間で賛否両論を巻き起こしているであろうことは容易に想像されよう。しかし私自身はと言えば、これらの作品群を以て文学史ポートフォリオにおけるどの座標を取りにいくかという長期的な視座に基づいた平野の戦略を、極めて肯定的に解釈・評価している。 中でも刊に収録されている『バベルのコンピューター』は、ドキュメンタリー調メタフィクション(すでにして重層的な矛盾!)として秀

  • インターネットはひとつか:Lessig Blog (JP) - CNET Japan

    (Timothy Wu教授によるゲストBlog) Who Controls the Internet?の主題のひとつは進むインターネットのバルカン化だ。原因は消費者の嗜好によるものが多い。ウェブにおける英語使用率の驚くべき低下が良い例だ。 三章より: 1996年、Economistは高らかにこう宣言した。「英語はいまや世界の標準言語として不動の地位を築いたようだ。すなわちグローバルな通信革命の不可分な要素としてである。」 同じ年に書かれたNew York Timesの記事“World Wide Web:三つの英単語”は、「インターネットを存分に活用する道はひとつしかない:英語を学ぶことだ」と言い切っている。 これらは結局誤りということになった。最初のうちこそ支配的だったが凋落も早く、英語で書かれたウェブページは2002年末の時点で半数を切っており、英語離れはさらに続いている。バルカン化、

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    mind 2006/05/12
    インターネットのバルカン化。原因は消費者の嗜好…。;英語率の驚くべき低下 ――inter-networking communicationという科学技術の「土着化」。庶民に必要なのは英語じゃなくて、キリスト教もとい唯一絶対プロトコルだった!
  • CNET Japan Blog - Lessig Blog (JP):ハイエク vs. ハーバーマス(C.サンスティン)

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    mind 2006/04/15
    経済的インセンティブ…討議と熟慮のプロセスにそのようなインセンティブは存在しないかもしれず、人々は自分が持つ情報を口に出さないかもしれない。 ――国会議院に知はあるのか(その2)?
  • 憤激!:Lessig Blog (JP) - CNET Japan

    [Cass SunsteinによるゲストBlog] 集団分極化と集団の激昂についての実験から覚え書き:数年前わたしはDaniel Kahneman, David Schkadeとともに、陪審団(およびその他の集団)はなぜ憤激し過大または過小な懲罰的損害賠償を課すことがあるのか解明しようとする実験に関わった。 陪審となる資格がある約1000人に対するテストで発見されたのは、固定スケール(1から6あるいは1から8のあいだで、1がまったく平静あるいは懲罰なし、6 or 8が極度の憤激あるいは厳しい懲罰を意味する)では、米国人はふさわしい憤りあるいは罰のレベルについて意見が一致することだ。少なくとも人身傷害のケースに関しては、“5”に相当すると思われる事件はほとんどの人が“5”と判断する。白人はアフリカ系と一致し、老人と若者、貧者と富者、高学歴と低学歴のあいだでも意見は一致する。 金額での計量では

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    mind 2006/04/14
  • CNET Japan Blog - Lessig Blog (JP):集団に知はあるのか?(C.サンスティン)

    [Cass SunsteinによるゲストBlog] 多数の素晴らしいコメントとメールにとりいそぎお礼を。なんとか吸収しようと頑張っているところだ。さて、これまで意見や評価を集約するいくつかの方法について議論を続けてきた:ハイエク的市場、集団討議、そしてwikiだ(オープンソースソフトウェアにもわずかながら言及した)。強調した点のひとつは集団による話し合いがもつ問題についてだった。似たような考えを持つ人間同士の討議は、一般に前より先鋭的な意見を生みがちだからだ。 James Surowieckiは愉快で啓発的な The Wisdom of Crowdsのなかで、もうひとつの意見集約の方法を大きく扱っている。大勢の人々に質問した平均を答えとするやり方だ。多くの状況で、この方法は魔法のようにうまくゆく。瓶に大量のゼリービーンズを詰め、何粒あるかと200人に聞いてみれば、答えの平均はおそらく気味

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    mind 2006/02/13
    討論が誤りを正す場合もたしかにある(特に「エウレカ!」な問題、ひとたび正解がでれば明らかに正しいと分かる場合)。しかし…話し合う前の平均より悪化することもある。 ――国会議院に知はあるのか?
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