竹内研究室の日記 2019 | 01 |
IEEE IMW(International Memory Workshop)という、半導体の不揮発性メモリの学会に参加するため、アメリカのモントレーに来ています。 竹内研からは4件の発表をします。 モントレーはシリコンバレーから車で2時間ほどと近いため、シリコンバレーの多くの企業の人が参加し、技術的議論に加えて、業界内の情報交換なども活発に行われる。 自分にとってもう一つの楽しみは、東芝でフラッシュメモリを一緒に立ち上げた、先輩や仲間に会えること。 現役で東芝に残っている人はわずかで、ほとんどの人が、辞めました。 私は大学でも東芝と協力して研究をしているのですが、いまでも、東芝と関係があるのは、私くらいでしょうね。 大半の人は、競合関係の外国企業に移りました。 東芝をやめて5年も経つのに、アメリカ人から、「なんでお前は東芝を辞めたのか?」と、頻繁に聞かれます。 毎年説明しているので、もう
ミッドナイトフライトで日本に帰ってきました。モントレーで開催されたIRPS(Internaitonal Reliability Physics Symposium)で竹内研からは3件で発表しました。 学会中は自分の発表以外は、ホテルにこもって、仕事ばかり。 特に、西海岸の夜が日本の昼なので、連日、Skypeでミーティングをしたり、資料を作ったり。とうとう、徹夜になってしまった。 深夜便の中でも仕事して、朝の5時について、帰宅して、また仕事です。 大学の研究者の自分がそこまでしゃかりきに仕事をしなくてもいいのかもしれないけど、何とか、日本の電機やIT産業を復活させたい。 その思いだけで、企業や大学の間の調整をする毎日です。 その中で、どんな組織からも出てくるんですよね、ルールばかり気にする人が。 石橋を叩きに叩いて、最後は叩き割る。 いつも結論は、「やめましょう」になる人が。 私は今まで、大
日本の中でも競争力が高かった電機業界がまっさかさまに転落していて、知り合いの中にも、海外の企業に転職する人が増えています。 私が東芝に就職したのは1993年ですが、当時は、日本の電機メーカーの間での転職も厳禁と言われていました。 本当かどうかわかりませんが、電機業界では各企業の人事部が連携して、相互に転職ができないようになっていると、噂されたものでした。 転職を禁じると言うことは、逆に言うと、それだけ企業が盤石だった。一生の雇用を保証できると、会社も社員も思ってたんですね。 当時は、金融バブルが崩壊し、護送船団と言われていた、日本の金融業界で倒産や統合が相次ぎました。 証券会社や銀行が潰れることはあっても、どこか、他人事。 電機業界は不動産などに手を出さなければ大丈夫だろう、というように思われていたかもしれません。 それが、DRAMなどで三星に負けた90年代の後半から2000年代になると、
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