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蓮實重彦に関するmshkhのブックマーク (9)

  • 映画監督・青山真治さんを悼む  蓮實重彦(映画批評家) - 日本経済新聞

    ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1960年)以降、映画はどう撮ってもよいという愚かな思いこみが世界に行きわたった。だが、優れた映画作家は、誰もが被写体に向けるキャメラの位置、距離、アングル、そのショットの長さなどを、これしかないという絶対的なものとして映画を撮っている。しかも、その技術的な厳格さは、彼らが世界に向ける瞳のしなやかさを損なうものではない。『空に住む』(2020年)

    映画監督・青山真治さんを悼む  蓮實重彦(映画批評家) - 日本経済新聞
  • 大江健三郎と蓮實重彦と金井美恵子 - jun-jun1965の日記

    講談社から刊行が始まる『大江健三郎全小説』を記念して、『群像』で蓮實重彦と筒井康隆が対談したようだが、大江は『大江健三郎論』以来蓮實を嫌っているようで、大江と柄谷は対談しているが蓮實とはしていないのだから妙なものだ。いっぽう蓮實を今なお崇敬しているように見える糸圭秀実は筒井の宿敵である。 『表層批評宣言』であったか、大江が雑誌を見ていて蓮實の名を見つけるとゴミ箱へ放り込むという文章を見た蓮實が、その放り込む動作が描く放物線の美しさをなどと人をった文章で書いていて、私は若いころどこかでこれのまねをしたことがあるような気がするのだが、それは提出したレポートだったかもしれない。 ところが金井美恵子の『カストロの尻』の最後のほうに、藤枝静男について書いた随筆があってその注(298p)に、藤枝が中村光夫に浜松で講演を頼んだら土地の文学青年が中村に愚劣な文学論を話しかけ続け、タクシーにまで乗り込み、

    大江健三郎と蓮實重彦と金井美恵子 - jun-jun1965の日記
    mshkh
    mshkh 2018/06/02
    群像劇とでもいうべきか
  • 凍雲篩雪 - jun-jun1965の日記

    蓮實重彦と学問 『ユリイカ』の臨時増刊号は蓮實重彦特集だった。最近はサブカルチャー雑誌めいてきた同誌には珍しいことで、昔は『國文學 解釈と教材の研究』あたりが、江藤淳や吉隆明、柄谷行人や蓮實の特集を組んだものだが、今や文藝評論家的な人物で特集を組む雑誌もないし、この人たちより若い文藝評論家で組んでも原稿を依頼する相手がいないだろう。さて『ユリイカ』では大杉重男が、蓮實はなぜ博士論文にこだわるのか、というのを書いている。少し前に出た『文學界』での渡部直己によるインタビューで、日の大学の専任教員で博士号のない者がいることを痛罵していたからで、渡部が、自分も博士号はない、と言うと、だが『日小説技術史』というそれに匹敵する業績はあるとフォローしていた。大杉にもそれに匹敵する著作はありそうだが、やはり博士号がなくて大学教授であることにひっかかりを感じたのか、それなら夏目漱石だって博士号を辞退し

    凍雲篩雪 - jun-jun1965の日記
    mshkh
    mshkh 2017/11/21
    「博士号があるのに大学の専任になれない者がおり、博士号もなければろくな業績もない文学研究者が東大教授などの地位にある」
  • 元東大総長が書いた「エロとサスペンス」炸裂の小説がスゴい(週刊現代) @gendai_biz

    mshkh
    mshkh 2016/08/21
    本文読まずに蓮實先生と分かるというのがね.蓮實先生は,この前の三島由紀夫賞のときもそうだけど,一貫してるのか迷走してるのか,よく分からん
  • 【レビュー・書評】随想 [著]蓮實重彦 - 書評 - BOOK:asahi.com(朝日新聞社)

    随想 [著]蓮實重彦[掲載]2010年10月10日[評者]四ノ原恒憲(社編集委員)■思索と批評、そこはかとなく平明に 「随想」。新奇さで目を引くのタイトルが目立つ昨今の出版界で、何というシンプルさ。広辞苑によると「おもいつくまま。おりにふれたこと。また、それを書きとめた文章」とある。言い換えれば、徒然草の序にある「心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば」だろう。 言うは易し。だが、人に読まれることを前提だとすると、事は簡単ではない。まして、書は、もともと長文、読み切りの文芸誌連載。単なる思い出や得意分野の知識の披瀝(ひれき)では、読者もすぐ投げ出す。 そんな難関を、著者は、するりと乗り越える。映画や文学が中心テーマではあるが、概(おおむ)ね自らの体験を手がかりに、一回の文章の中でも、いくつもの話題が連関し、変化していく過程で、毎回、読む者を異なる世界に誘い込んでいく。

    mshkh
    mshkh 2010/10/12
    蓮實先生の本.これは読んでみたい
  • 町山智浩氏の映画批評論

    tmk @tmka2010 今回の放課後ポッドキャスト面白いね。自分は映画見てないけど、宇多丸氏と町山さんの解釈のしかたがそのまま映画論評の差に現れているというか。 #utamaru tmk @tmka2010 町山さん、物腰は柔らかいけど、俺はこれで飯ってるけどお前は立場が危うくなったら業のラップに逃げるんだろ?的なニュアンスが含まれてると思いますた。 #utamaru 町山智浩 @TomoMachi いえ。表現者なんだから評論家みたいに「このようにも見えますよ」と客観をキープし続けるよりも「自分ならこうする」と自分に引き付けてほしかったんです。 RT @tmk_tblofficial: 町山さん、お前は立場が危うくなったら業に逃げるんだろ?的な #utamaru

    町山智浩氏の映画批評論
  • 『ニッポンの思想』佐々木敦(講談社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「で、それが何?」 批評家は概して怒りっぽい。たぶん批評とは、苛々したり、激しく軽蔑したり、噛みついたり、憤りつつ励ましたりということをスタイルとして織りこんだものなのだ。少なくとも「ニッポンの批評」は。 そういう批評家たちの中でも、とりわけ派手な切った張ったの多かった一群の批評家たちがいた。八〇年代に一世を風靡したニューアカデミズム、いわゆる「ニューアカ」である。この「ニューアカ」を、浅田彰の『構造と力』を出発点としたひとつの持続的な系譜ととらえ、80年代からゼロ年代にかけての批評の流れを整理してみせるのがこの『ニッポンの思想』である。 しかし、そうした内容ののわりに目につくのは、一見した毒気のなさである。乱闘現場に乗りこんでいくにしては、スルッとスマートでおとなしい。この著者は、すごくいい人なのではないかと錯覚しそうになるほどだ。 だが、実はこういうスルッとスマ

    『ニッポンの思想』佐々木敦(講談社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
  • 蓮實先生について - jun-jun1965の日記

    『私小説のすすめ』のアマゾンのレビューでモワノンプリュ君が、私が蓮實重彦を快く思っているはずはないが、と書いている。いえ、快く思っていますよ。だって煙草の吸殻をわざわざ千代田区まで捨てに行く人ですから。 だいたい蓮實先生には『私小説を読む』って著書もある。マクシム=デュ=カンの伝記だってある。テマティック批評といったって、蓮實先生の『大江健三郎論』とか、ものすごく面白いのであって、小森陽一のような政治活動をしたあげくバカの一つ覚えみたいに漱石論を書くわけじゃないし、石原千秋のように、気でテクスト論を擁護したあげくにつまらないことをぐじゃぐじゃ言うわけでもない。村上春樹だって褒めていない。いったいどうして、蓮實先生を快く思わない必要があるのだろう。 テクスト論だろうが何だろうが、面白ければよいわけで、仮に間違っていたらまずいが、特段蓮實先生が何かを間違えたわけではない。何かこう図式的に当て

    蓮實先生について - jun-jun1965の日記
    mshkh
    mshkh 2009/10/25
    蓮實先生はすごい
  • flowerwild.net − 蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.1

    デジタルメディアの台頭とともに「あらゆる映画が見られる」ようになったといわれる今日、映画批評はどう変わったのか。その道はどこに求められるべきか。蓮實重彦氏に聞く。 (インタビュー/構成:三浦哲哉) 目次 1.データベース化の幻想 2.反復する顔、しない顔 3.70年代の映画批評 4.リアルタイム批評のすすめ──マイケル・マンか、ガス・ヴァン・サントか 1.データベース化の幻想 ──1994年に『シネティック』の関口良一さんがなされたインタビューの中で、蓮實先生は、あらゆるものが見られる状況になったことで、映画を巡る言説は多様化するのではなく、かえって単調なものになっている、と述べておられます[1]。それから約10年が過ぎましたが、大状況としてはこの発言を追認せざるをえないかと思います。今回のインタビューでは、まず先生が述べられたこの見解を念頭に置きつつ、映画批評における歴史性について、メ

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    mshkh 2006/11/12
    蓮實先生へのインタビュー.再読
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