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歴史に関するmstilのブックマーク (7)

  • finalvent氏への応答 - mstil/diary

    元になったid:finalvent氏の記事は以下のリンク先。 「こういう歴史もあるんですけどね」 http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20090418/1240012166 まあ俺が最初に言いたかったことは、ブックマークコメントで書いたことに尽きるんだけど、追記で返信もいただいたことだし、こっちに移って真面目にコメントをする。 今回の記事について、自分なりにfinalvent氏の論点を整理するとこうなる。 このあたりの歴史は、ちょっと勇み足的にいうと、1945年に日が戦前の日から切り離されたことで、日史の外部の事件とされている。 日史の外部の事件と「されている」とあるところから、finalvent氏自身はそう思っていないことがうかがえる。 現代の史学だと、どうしても日というのについて、現在の日の領域をなんとなく近代以前にフィードバックさせてそこからの

    finalvent氏への応答 - mstil/diary
  • on reversibility - おおやにき

    結果が気に入らないからといって「中立」となっている機関の決定に文句を付けはじめるとどういう結果になるか、という問題に関する卓抜な一例について。 2005年4月7日、日の町村信孝外相は向かい合って座った潘基文(バン・キムン)韓国外交部長官から激しく抗議を受けた。当時、扶桑社の中学校歴史・公民教科書の独島(ドクト、日名・竹島)関連部分が検定の結果、「韓国が不法占拠している竹島」という表現で記述されたからだ。 また「従軍慰安婦」表記はすべての教科書から消えた。 町村外相は潘長官の追及に「日の教科書検定過程は韓国と違う。 一連の過程を経た個別の記述については、政府が削除や修正を要求したり修正したりすることはできない」と言って対抗した。(……)専門家で構成された教科書検定調査審議会が下した判断に政治は介入できない、というのが主な内容だった。(……) 2007年10月1日、日政府の町村官房長官

    mstil
    mstil 2007/11/02
    今更ながら、話の発端として。
  • 何でもかんでも「権力」という言葉でまとめない節度 - 美徳の不幸 part 2

    今日は大学に行く気を無くし、洗濯をしつつ持って帰ってきたをちょびちょび読む。 暴力の地平を超えて―歴史学からの挑戦 作者: 須田努,中嶋久人,趙景達出版社/メーカー: 青木書店発売日: 2004/05/01メディア: 単行 クリック: 5回この商品を含むブログ (3件) を見る編者の趙景達先生の論文(「暴力と公論―植民地朝鮮における民衆の暴力」)を読んで、これまた深く頷かされるところがあった。 先生の論旨を僕なりに要約すると、 文字も読めなかった民衆の暴動や暴力に、実は「朝鮮独自の作法」というものが仄見えてくる(翻って言えば、日のやり方を内面化していたのは、一部のインテリのみ。朝鮮的作法に「殉じた」知識人も勿論いた)。 最近の植民地研究は、インテリの言葉ばかり追いかけて(それも意義があるんだけど)、口で言うほどその時代に生きていた民衆に目を向けてはいない。 民衆の日常生活のあちこちに

    何でもかんでも「権力」という言葉でまとめない節度 - 美徳の不幸 part 2
    mstil
    mstil 2007/10/30
    読むリスト。
  • 亀田スタイル - Apeman’s diary

    on subjectivity on objectivity 沖縄戦は事実上日の領土内で行なわれた唯一*1の地上戦であり、民間人に限定しても当時の沖縄県民の5分の1ほどが死亡したとされているわけである。他のいかなる都道府県も、広島県や長崎県でさえ、これほどの比率で非戦闘員の死者を出してはいないだろう。このように、広島、長崎とは違った意味で比類のない経験をしながら、「土復帰」が遅れたこともあって沖縄の「記憶」は「国民の記憶」に統合されてはこなかった。この点において、沖縄の市民にしてみればそもそも「具体的事実を捨象した「正論」」によって塗りつぶされてしまうような個別の記憶なんて塗りつぶされてしまえばいいのである、と*2語る人物の語る reversibility など「それがなんの役に立つんですか?」という状態にながらくあったこと…をまずは最初に指摘しておく。 「集団自決」をめぐる教科書検定

    亀田スタイル - Apeman’s diary
    mstil
    mstil 2007/10/29
    両者の主張と論点の違いがだいぶんハッキリとしてきた。それだけにこの先の議論は平行線になるだろう。後は読者が何を感じたかが結果として残ると思う。取りあえず下村博文の「官邸チェック」に関する指摘は納得。
  • on objectivity - おおやにき

    前述の通り私としてはApeman氏の私に対する批判というのがおおかた誤読に基づくものであると主張したいわけであるが、もちろん第一に読者には「誤読」する権利というのがあり、というか言明の意味は受け手の決めるものであって筆者もまた読者の一人としてしかその意味形成には参画し得ないわけである。ただまあ、その「誤読」にどの程度つきあうかの自由というのも筆者を含む他の読者たちにはあるのであって、たとえばこのブログをどこかのひみつけっしゃの暗号文だと解釈する読者というのはいるかもしれないし、彼から熱烈な支持のコメントがくる可能性というのもあるわけだが、それに対して私ができるのはせいぜい「いやがんばってくださいね」とか微笑んでみせることだろう。 第二にもちろん私はいったん書いたあとやべえと思って何とか別様の解釈の可能性を持ち出して言いつくろっている、のかもしれない。どちらにせよ最終的な判断は(未来の存在も

    mstil
    mstil 2007/10/24
    結局、「『中立』機関には文句つけてもいいんだよ」でFA? >「攻撃目標地点に私はいない」ということを必死に主張する姿は、逆にApemanの攻撃自体は有効であることを認めてるように見える。
  • 最強伝説おおや - Apeman’s diary

    on 「おおやにき on performativity」 「全体的な感想としてはElleさんと同じく反論・批判になっているのかどうかという点で首をかしげざるを得ない、という感じ」という点については、“ええそうでしょう、自分に対する「反論・批判」というのはきわめて限られた方角からしかやってこない、という前提をご自分とその支持者の間ではつくっておられますからなぁ”という感じ、なのだがこれについては後述。 まずは民主党の決議案をめぐる事実関係について。私が10月4日の報道を根拠として提示したのに対し、10月2日と9月30日の報道でもって対抗…というあたりでまあ結論は見えてるわけで。少なくとも「執筆時点で各党の最新の主張を確認するのをさぼりました」ってことくらいは素直に認めたらどうだろうね。 そして、私が問題にしているのはなによりも「安倍晋三の対NHK圧力疑惑の際のふるまいと今回のふるまいとの整合

    最強伝説おおや - Apeman’s diary
  • on performativity - おおやにき

    さらにApemanさんから反応があったことをコメントでお知らせいただいたのであるが、全体的な感想としてはElleさんと同じく反論・批判になっているのかどうかという点で首をかしげざるを得ない、という感じ。というか、Apeman氏は冒頭から「ああ、根的に感覚が違うんだな」ともお書きなのであるが、私としてはそれ以上に達成目標も主語も違うのではないかという気がする。 第一に達成目標の点であるが、私の議論について氏は「具体的な事情を一切捨象した水準で考えれば「御説ごもっとも」である」とか「具体的事実を捨象した「正論」」とかお書きであり、つまり結果が気に入らないからといって「中立」となっている機関の決定に文句を付けてはいかんという理論的主張の内容については正しいとお認めいただいているようなので私としてはじゃあそれでいいじゃねえかという話である。 もちろん氏としては「そのごもっともな正論が具体的な文脈

    mstil
    mstil 2007/10/14
    法理論が現実の場でどう機能するか批判的にチェックされるのは当然。立ち位置や学問的立場を盾にして相手の論点に答えないのは単なる逃げ。>出て行けとは言ってません。「読者の受容」ですよ。↑id:mahal氏。
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