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浅田彰に関するn00dleのブックマーク (4)

  • 口実としての「自己責任」論

    イラクの日人人質への「自己責任」論とその背景について。これは野宿者「自業自得論」(自己責任論)と合わせるといろんな問題が浮かび上がるみたい。 ■その1■(2004.4.24) ここ何日か、人質問題での「自己責任」に関心を持って、新聞やネット上でそれに関するものを捜していろいろ読んでいた(「自己責任」論はいまや国民的話題だな)。その中でぼくが参考になったのは、特に「エロライター」松沢呉一の http://www.pot.co.jp/matsukuro/20040416_687.html 経済学者、批評家の浅田彰の http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/20040416/index.html 小説家の星野智幸の http://www.hoshinot.jp/diary.html ジャーナリストの江川紹子の http://www.egawashoko.com

  • YouTube - 新入生へのことば 大学院長 浅田彰 京都造形芸術大学

    ご入学おめでとうございます。 09年度入学式より学大学院長 浅田彰による式辞の様子をお伝えします。

  • Asada's Mistake with Klein Bottles

    『「知」の欺瞞』ローカル戦:浅田彰のクラインの壺をめぐって(というか、浅田式にはめぐらないのだ) Version 1.7 2000年10月-2002年4月 山形浩生 読み始める前に……:この文章を出して 1 年以上たった 2002 年 4 月、菊池和徳氏が、クラインの壺が当に循環しないかを検討している。そして、浅田の言っているのは「中身のあるクラインの壺」と解釈すべきで、そう解釈したときは循環すると言えることを述べている。 とりあえず考えてみてはいるけれど、はい、確かにそういう解釈はなりたちそうですす。そしてその場合、ぼくの以下の文章はかなり割り引いて考えていただく必要がある。『構造と力』のまとめ部分と、モデルとしての必然性のなさについては額面通り受け取っていただいていいけれど、途中の(かなりの部分を占める)循環しないという記述に関しては、非常に強い説得力のある反論が存在しているというこ

  • デリダ受容の現況に関するMemoRandom/浅田彰

    ジャック・デリダといえば、もう読まなくても分かっているかのように言う向きがある。だが、少なくとも日に関する限り、デリダの仕事はまだまだ十分に紹介されているとは言えない。 そもそも、1967年の『グラマトロジーについて』『エクリチュールと差異』『声と現象』は早くから翻訳されていたものの、1972年の『散種』と『余白』が書物としてはいまだに翻訳されていない(インタヴュー集の『ポジシオン』だけは翻訳されている)のはどういうわけか。その意味でも、1974年の『弔鐘』の翻訳(鵜飼哲による)の連載が『批評空間』第III期で続行されることになった意義は大きいと思う。1980年の『葉書』の翻訳(東浩紀による)はどうやらずっと「停止中」らしく、残念なことだ。しかし、その後のデリダの仕事に関して、最近いくつか注目すべき翻訳が出ているのは、歓迎すべきことである。 たとえば、『葉書』とも関連の深い1987年の『

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