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デリダに関するn00dleのブックマーク (3)

  • 2009-01-03

    収納箱をほじくりかえしてたら出てきましたよ、奥さん。デリダ&ハーバマス共同声明全文。id:hizzz:20081210の補講id:hizzz:20081227の補講。 …整理のつもりが逆に散らかす、お約束な正月展開。はぅう。 ジャック・デリダとユルゲン・ハーバマスによるこのエッセイは、ヨーロッパ知識人たちの共同行動の一環をなすものである。イラク戦争に対する拒否によって、ヨーロッパのアイデンティティとは何か、という問いがあらためて提起された。この問いに答えるべく、ヨーロッパのジャーナリズムには現在まで、エッセイのほかに次のものが発表されている。「ラ・レププリカ」のウンベルト・エーコ、「新チューリッヒ新聞」のアードルフ・ムシュク、「南ドイツ新聞」のリチャード・ローティ、「エル・パイス」のフェルナンド・サバテル、「ラ・スタムパ」のジアンニ・バァッティーモ。 独 Frankfurter Allg

    2009-01-03
  • 歴史認識・デリダ・ハーバーマス - kom’s log

    合意形成の話はひとまずおいておいて、そもそもの問題の起点にまたもどる。「デリダを通ってしまうと、歴史的真実とか言えなくなる/言うということはデリダを裏切る」という東浩紀氏発言について昨年にひきつづきいくつかリンク。 ハーバーマスとデリダのヨーロッパ 三島憲一 (PDF 早稻田政治經濟學誌No.362,2006年1月,4-18) 90年代のデリダとハーバーマスの対立の経緯、および00年代になって収束した対立について詳しく書かれている。これを読んでみると、東浩紀氏が自身の歴史認識のありかたをデリダを通ったせいにするのは誠意がないなあ、と思う。少なくとも「80年代のデリダを通過した私には」ぐらいに限定したほうがよいだろう。冒頭に掲げられたデリダの言葉を眺めるだけでもよい。 「しばしば,この脱構築の時代と啓蒙とが対置されることがありますが,それは違うのです。私は啓蒙の味方,進歩の味方であり,􌔗進

    歴史認識・デリダ・ハーバーマス - kom’s log
  • デリダ受容の現況に関するMemoRandom/浅田彰

    ジャック・デリダといえば、もう読まなくても分かっているかのように言う向きがある。だが、少なくとも日に関する限り、デリダの仕事はまだまだ十分に紹介されているとは言えない。 そもそも、1967年の『グラマトロジーについて』『エクリチュールと差異』『声と現象』は早くから翻訳されていたものの、1972年の『散種』と『余白』が書物としてはいまだに翻訳されていない(インタヴュー集の『ポジシオン』だけは翻訳されている)のはどういうわけか。その意味でも、1974年の『弔鐘』の翻訳(鵜飼哲による)の連載が『批評空間』第III期で続行されることになった意義は大きいと思う。1980年の『葉書』の翻訳(東浩紀による)はどうやらずっと「停止中」らしく、残念なことだ。しかし、その後のデリダの仕事に関して、最近いくつか注目すべき翻訳が出ているのは、歓迎すべきことである。 たとえば、『葉書』とも関連の深い1987年の『

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