「歌はかけがえのない喜び」 岡本知高(高知県宿毛市出身)CDデビュー20周年 ベストアルバム発売 3月に宿毛市、高知市で公演
「歌はかけがえのない喜び」 岡本知高(高知県宿毛市出身)CDデビュー20周年 ベストアルバム発売 3月に宿毛市、高知市で公演
8月15日は68回目の終戦記念日。68年前の正午、昭和天皇の玉音放送によって当時の国民は終戦を知った。玉音放送というと、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」のくだりが有名だが、その続きまで覚えている人は多くないだろう。終戦記念日にあたって、原文とともに現代語訳を全文で紹介する。 世界の情勢と日本の現状を深く考えた結果、緊急の方法でこの事態を収拾したい。忠実なあなた方臣民に告ぐ。 私は、「共同宣言を受け入れる旨をアメリカ、イギリス、中国、ソビエトの4カ国に伝えよ」と政府に指示した。 日本臣民が平穏無事に暮らし、全世界が栄え、その喜びを共有することは歴代天皇が遺した教えで、私も常に心に持ち続けてきた。アメリカとイギリスに宣戦布告した理由も、日本の自立と東アジアの安定を願うからであり、他国の主権や領土を侵すようなことは、もともと私の思うところではない。 だが戦争は4年も続き、陸海将兵の勇敢な戦いぶ
昭和天皇の「沖縄メッセージ」 (a)総司令部政治顧問シーボルトから国務長官宛の書簡 主題:琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解 国務長官殿 在ワシントン 拝啓 天皇のアドバイザーの寺崎英成氏が同氏自身の要請で当事務所を訪れたさいの同氏との会話の要旨を内容とする一九四七年九月二十日付けのマッカーサー元帥あての自明の覚え書きのコピーを同封する光栄を有します。 米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の天皇が希望していること、疑いもなく私利に大きくもとづいている希望が注目されましょう。また天皇は、長期租借による、これら諸島の米国軍事占領の継続をめざしています。その見解によれば、日本国民はそれによって米国に下心がないことを納得し、軍事目的のための米国による占領を歓迎するだろうということです。 敬具 合衆国対日政治顧問 代表部顧問 W.J.シーボルト 東京 一九四七年九月二十二日 --
"Emperor Showa and MacArthur" The testimony of the interpreter 1945年9月27日、 東京都港区赤坂のアメリカ大使公邸にておこなわれた 昭和天皇とマッカーサーの御会見を通訳官が証言した映像です。 ★昭和天皇とマッカーサー http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3687.html ★昭和天皇の広島巡幸_1947.S22.12.7_背景に原爆ドーム http://www.youtube.com/watch?v=3iYTW3iTces ★昭和天皇の広島巡幸 (昭和22年12月7日) http://www.youtube.com/watch?v=_2rxzPYcAeQ ★参考サイト【日本人が知らない天皇の価値と役割】 http://specific
赤坂真理さんの「東京プリズン」(河出書房新社)が話題を呼んでいる。アメリカと日本、敗戦と憲法、天皇の戦争責任という大きな問題を、母親との葛藤などの自分史に重ね合わせて描いた長編小説だ。 米国の高校に留学した16歳の「マリ・アカサカ」は「天皇の戦争責任」を論題としたディベートに参加することになる。「責任がある」と主張する役割を与えられて猛勉強を進める。本番は昭和天皇を被告とした「もう一つの東京裁判」の様相を呈していく。母親と天皇と主人公自身が混然となった最終弁論は迫力があった。 「あらゆる資料の中で、これがいちばん心に刺さった」として記されるのが、三島由紀夫の短編「英霊の聲(こえ)」の有名な一節だった。「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」。すめろぎ(天皇)に殉じた英霊たちが、「人間宣言」を行った天皇を「などて」(なぜ)と恨み嘆く言葉である。 赤坂さん自身は英霊の発言をこう書く。「わ
第1回 「アジアの“一等国”」[編集] 日本統治時代の台湾について。 第2回 「天皇と憲法」[編集] 大日本帝国憲法と日本国憲法の成立過程について。大まかに3つのパートで構成される。 第1部 大日本帝国憲法の誕生 アメリカ合衆国が1787年の独立時に合衆国憲法を明文化したことはヨーロッパ各国に影響を及ぼし、やがて成文憲法の制定は近代国家の証とされるようになった。1882年にヨーロッパへ憲法調査に赴いた伊藤博文が シュタインと出会って立憲君主制の憲法について講義を受けた頃から、大日本帝国憲法が発布された 1889年(明治22年)2月11日までの時期を扱う。テーマの中心となるのは帝国憲法草案の第1条と第4条。 第2部 政党政治の自滅 1890年-1932年。 第3部「国体論」の暴走 1912年-1946年。 第3回 「通商国家の挫折」[編集] 貿易によって富を得る戦略を立てたが、世界大恐慌によ
昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇[注釈 3](在位: 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は裕仁(ひろひと)、御称号は迪宮(みちのみや)[2]。お印は若竹(わかたけ)。 1921年(大正10年)11月25日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの5年余りにわたって、父帝・大正天皇の健康状態の悪化により、摂政となり、自身の天皇即位まで務めた。現在、日本で最後に摂政に就任した人物である。60年余りの在位中に第二次世界大戦を挟み、大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した唯一の天皇である[3]。大日本帝国憲法下においては最高司令官として大本営で実戦の指揮も執った。4 現在、天皇に在位す
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