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logicに関するnabinnoのブックマーク (101)

  • トートロジー - Wikipedia

    トートロジー(英: tautology, 希: ταυτολογία, 語源はギリシャ語で「同じ」を意味するταυτοから)とは、ある事柄を述べるのに、同義語[1]または類語[2]または同語[3]を反復させる修辞技法のこと。同義語反復、類語反復、同語反復等と訳される。関連した概念に冗語があり、しばしば同じ意味で使われることもある。また、撞着語法はトートロジーの反対の技法である。 同語反復(どうごはんぷく)とは「私は私であり、君は君である」のように、等値を示す語によって同じ言葉を繰り返すことである。 文学、評論等、言語表現における技巧のひとつとして用いられる。 「AはAである」は、例えば「AはあくまでAであって他のものとは異なる」という注意喚起、あるいは「Aは所詮Aであってそれ以上ではない」という主張、等々の筆者(話者)の意図を含み得る。また同様に「AはAであり、BはBである」は、例えば「A

  • 循環定義 - Wikipedia

    循環定義(じゅんかんていぎ、英: circular definition)は、ある概念を定義するためにその概念自体を用いることである。この場合、定義文のみの知識では定義した概念の質的な理解が出来ないため、定義は成立しない。 概説[編集] 端的に言えば、ある概念の定義文に、その概念自体の名称を用いた場合が循環定義である。例えば、"カシ"の定義文として、「どんぐりをつける木」としたとき、どんぐりの定義文を「カシの作る種実類」とする。定義文を相互に代入するとカシの定義文が「カシの作る種実類をつける木」、どんぐりの定義文が「どんぐりをつける木の作る種実類」となり循環定義となる。このように、定義が循環すると定義文のみの知識では概念の相対的な位置付けは理解できるが、定義する概念自体の絶対的な理解ができないため、定義は成立しない。 循環の輪が大きい場合には、循環定義を発見することが難しくなるが、循環に

  • 無知に訴える論証 - Wikipedia

    例えば、南中国から東南アジアに分布するタイ・カダイ語族の分類では、Tai、Kra、Kam–Sui、Hlai という4つの明確な分岐がある(ここでは話を単純化するために意図的に Be を除いてある)。従来、Kam-Sui と Tai は語彙の多くが共通するということで同系統に分類されてきた。この語彙が語族の中でこれらを単系統群とする派生形質かどうかは議論されてきた。しかし、これは他の分岐にその語彙がないという「消極的証拠」であり、元々はタイ・カダイ語族に共通の語彙であって、Kra と Hlai でそれが失われたという可能性もある。実際、形態学的証拠からは Tai は Hlai に近く、Kam-Sui は Kra に近いことが示されており、語彙の消極的証拠とは異なっている。 最近ではあまり使われない表形分類学はこの種の誤りに陥りやすい。分岐学とは異なり、特徴の進化的歴史を評価することで関係を決

  • 隙間の神 - Wikipedia

    隙間の神(すきまのかみ、英: God of the gaps)とは、現時点で科学知識で説明できない部分、すなわち「隙間」に神が存在するとする見方である。 この言葉は一般に軽蔑的に使われ、科学でまだ十分な説明ができない現象を神の御業であると仮定する傾向を直接的に批判するものである[1][2]。「隙間の神」という言葉は、科学が自然現象を説明できる領域が増え、宗教的な説明が徐々に退却を余儀なくされている現状を表すものとしても用いられる。例えば、太陽、月、恒星、雷といった事象は元々は神が作り制御している領域に属するものとして宗教的に説明されていた。天文学、気象学、地質学、宇宙論、生物学といった領域での観測・観察によって科学的説明ができるようになると、それらの事象の超自然的説明は次第に追いやられ、知識におけるより狭い「隙間」に押し込められていった。 起源[編集] この言葉を最初に使ったのは、19世紀

  • 循環論法 - Wikipedia

    循環論法(じゅんかんろんぽう、circular reasoning, circular logic, vicious circle[1])とは、 ある命題の証明において、その命題を仮定した議論を用いること[1]。証明すべき結論を前提として用いる論法[2]。 ある用語の定義を与える表現の中にその用語自体が質的に登場していること[1]。 概説[編集] 循環論法の概念図。 単に循環論法と言っても、証明における循環論法と、定義における循環論法がある[1]とされている。 証明における循環論法とは、ある命題の証明において、その命題自体を仮定した議論を用いることである[1]。つまり循環論法においては論証されるべきことが論証の根拠とされる誤謬が犯される。どのような形式かと言うと、今、命題をPと表すとして、P1, P2… Pn(nは自然数)がある時に、P1を証明するのにP2を用い、P2を証明するのにP3を

    循環論法 - Wikipedia
  • 無限後退 - Wikipedia

    無限後退の概念図[1]。「なぜ」と「なぜならば」の連鎖が無限に続く。 無限後退(むげんこうたい、英: Infinite regress)とは、ものごとの説明または正当化を行う際、終点が来ずに同一の形の説明や正当化が、連鎖して無限に続くこと。一般に説明や正当化が無限後退に陥った場合、その説明や正当化の方法は失敗したものと見なされる。同一の形の説明が果てしなく続く、という意味で循環論法と似ているが、循環論法が一般にループするタイプの説明や正当化の連鎖を指すのに使われるのに対し、無限後退は一般に直線的な形の説明や正当化の連鎖を指すのに使用される、という違いがある。無限背進(むげんはいしん)、無限遡行(むげんそこう)などとも言われる。 ものごとの説明、正当化の連鎖は、究極的には説明なき原理もしくは独断を終点とするか、または循環論法に入るか、または無限後退に陥らざるを得ない、と考えられる。このことは

    無限後退 - Wikipedia
  • 亀がアキレスに言ったこと - Wikipedia

    「亀がアキレスに言ったこと」(かめがアキレスにいったこと、What the Tortoise Said to Achilles)は、1895年にルイス・キャロルが哲学雑誌『Mind』に書いた短い対話編。この文章の中でキャロルによって提示された問題は現在「ルイス・キャロルのパラドックス」(Lewis Caroll's Paradox)、または単に「キャロルのパラドックス」と呼ばれることもある。文中で対話を行う「アキレス」と「亀」は、アキレスが決して亀を追い抜くことができない、という運動に関するゼノンのパラドックスから取られている。キャロルはこの2人の対話を通して、論理学の基礎的な問題をユーモラスに提示してみせた。 この対話において、亀はアキレスに対し「論理の力を使って自分を納得させてみろ」と吹っ掛ける。つまり「単純な演繹からでてくる結論を私に認めさせてみろ」と言う。しかし結局アキレスはそれが

    亀がアキレスに言ったこと - Wikipedia
  • インテリジェント・デザイン - Wikipedia

    インテリジェント・デザイン(英: intelligent design)とは、生物や宇宙の構造の複雑さや緻密さを根拠に、「知性ある何か」によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計されたとする理論。しばしばID、ID論と略される。またID論を主張する人物をIDer(インテリジェント・デザイナー)と呼ぶ[1]。 『宇宙・自然界にみられる精巧さや複雑さは機械的・非人称的な自然的要因だけではすべての説明はできず、そこには「デザイン」すなわち構想、意図、意志、目的といったものが働いていることを科学として認めよう』という理論・運動である。 創造論とインテリジェント・デザインは似ているがやや異なっている。創造論は、クリスチャン(やムスリムなど)が聖書(やクルアーンなど)を信じ「聖書は神ヤハウェの言葉であり、聖書の記述は全て正しい。創世記に書かれている天地創造や生命の創造に関する記述も正しい。よって宇宙も地

  • 自己言及のパラドックス - Wikipedia

    この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2020年4月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2020年4月) 出典検索?: "自己言及のパラドックス" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL 哲学および論理学における自己言及のパラドックス(じこげんきゅうのパラドックス)または嘘つきのパラドックスとは、「この文は偽である」という構造の文を指し、自己を含めて言及しようとすると発生するパラドックスのことである。この文に古典的な二値の真理値をあてはめようとすると矛盾が生じる(パラドックス参照)。 「この文は偽である」が真なら、それは偽だということになり、偽ならばその内容は真と

  • 無矛盾律 - Wikipedia

    無矛盾律(むむじゅんりつ、英: Law of noncontradiction)は、論理学の法則であり、アリストテレスによれば「ある事物について同じ観点でかつ同時に、それを肯定しつつ否定することはできない」こと。矛盾律(むじゅんりつ、英: Law of contradiction)とも。命題論理で表すと、次のようになる。 同一律、排中律と共に、アリストテレスの3つの思考の法則の1つとされている。 解釈[編集] アラン・ブルームによれば、「哲学の前提であり理性的会話の基盤でもある矛盾律を明記した最初の例」はプラトンの『国家』(Politeia)である。その中に登場するソクラテスの台詞に「同じ物が、同じ部分について、そして同じ物との関連で、正反対のことを同時に行うことはないだろうということは明らかである」とある。(436B) アリストテレスとトマス・アクィナスによれば、これは基的な思考原理で

  • 仮言命題の妥当性 - 数学屋のメガネ

    現実の具体的な論理の展開においては、そこで使われる仮言命題は具体的な内容を持ったものになる。内容を捨象されたAとBで表されるようなある命題を使って「AならばB」という形の仮言命題を使って論理を展開することはない。このように抽象的に表現された仮言命題は、一般的には妥当性を評価することが出来ないからだ。AやBの具体的な内容によって、それが正しくなるかどうかが決まってくる。 「独身ならば結婚していない」というような仮言命題を考えてみよう。これは誰が考えても100%妥当な仮言命題として判断される。それはどうしてだろうか。これはある人物、たとえばAさんという人がいて、彼が独身だということが確認されているとする。そうするとこの仮言命題とあわせて Aさんは独身だ。 独身ならば結婚していない 故にAさんは結婚していない という推論が成り立つ。これは絶対的に正しい。Aさんが結婚しているかどうかを戸籍を確かめ

    仮言命題の妥当性 - 数学屋のメガネ
  • Togetter - 「山本一郎(切込隊長 @ kirik )さん、排中律と対偶について語る。」

    「排中律は詭弁」「対偶は常に真ならず」だそうです。とりあえずお酒は飲んでなかったようで。 http://bit.ly/fMWnb3 (Wikipedia: 排中律 ) http://bit.ly/eUzrLz (Wikipedia: 対偶_(論理学) )

    Togetter - 「山本一郎(切込隊長 @ kirik )さん、排中律と対偶について語る。」
    nabinno
    nabinno 2011/06/05
    修辞疑問が切り返されてしまった人の結末。
  • 排中律 - Wikipedia

    排中律(はいちゅうりつ、英: Law of excluded middle、仏: Principe du tiers exclu)とは、論理学において、任意の命題 P に対し「P であるか、または P でない」という命題は常に成り立つという原理である。 ラテン語で「第三の命題が排除される原理」 Principium tertii exclusiあるいは「第三の命題(可能性)は存在しない」 Tertium non daturと称され、英語ではLaw of excluded middle(排中律・排中原理・排中法)または Law of the excluded third(排除される第三者の原理[1]、第三者拒斥の原理[2])と呼ばれる。 排中律は任意の命題Pに対してそれが成り立つか成り立たないかのいずれか一方であって、その中間は無いことを述べた論理学の法則であり、 P ∨ ¬P はつねに真(

  • チェリー・ピッキング - Wikipedia

    チェリー・ピッキング(英語: cherry picking)とは、数多くの事例の中から自らの論証に有利な証拠のみを選び、それと矛盾する証拠を隠したり無視する行為のことである[4][5][6]。 チェリーピッキングは質の悪い科学または疑似科学の特徴であり、多くの証拠が自分たちに不利であるにもかかわらず、立場を支持するように見える範囲(狭い時間範囲、地理的地域、亜集団、年齢層)、テキストの抜粋を見つけることができるため、論理的結論を受け入れることを拒否するときにこの戦術を使用する[7]。 チェリーピッキングの多くは意図的に行われるが、確証バイアス(自分の考えを支持する証拠だけに注目し、反証を無視する無意識の傾向)から意図せずに行われる場合もある[8][9]。

    チェリー・ピッキング - Wikipedia
  • ストローマン - Wikipedia

    語源は不明である。比喩的な用法は、容易に倒せそうな藁人形、ダミー、かかしなどを示唆する[2]。 アメリカではポリティカル・コレクトネスの見地から、字義的に「藁の男」を意味する「ストロー・マン」を言い換えて、性別を問わない「藁の人」を意味する「ストロー・パーソン」を使用する場合がある[3]。 相手の意見の一部を誤解してみせたり、正しく引用することなく歪める、または一部のみを取り上げて誇大に解釈すれば、その意見に反論することは容易になる。この場合、第三者からみれば一見すると反論が妥当であるように思われるため、人々を説得する際に有効なテクニックとして用いられることがある。これは論法としては論点のすり替えにあたり、無意識でおこなっていれば論証上の誤り(非形式的誤謬)となるが、意図的におこなっていればそれは詭弁である。 しばしば、感情に訴える論証やチェリー・ピッキングのような他の誤りとともに用いられ

    ストローマン - Wikipedia
  • 論点のすり替え - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2022年2月) 論点のすり替え(ろんてんのすりかえ、ラテン語: ignoratio elenchi)は、非形式的誤謬の一種であり、それ自体は妥当な論証だが、来の問題への答えにはなっていない論証を指す。"ignoratio elenchi" とは ignorance of refutation(反駁とは何であるかを知らないこと)の意。"elenchi" はギリシア語の έλεγχος に由来し、反駁の主張・論証を意味する[1]。論点相違の虚偽(ろんてんそういのきょぎ)[2]、論点無視の虚偽(ろんてんむしのきょぎ)ともいう(広辞苑)。 アリストテレスは、論点のすり替えは相手の主張に反駁する際に犯してしまう間違い

  • 誤謬 - Wikipedia

    論理学における誤謬(ごびゅう、英: fallacy[注 1])とは、誤った推論のことである。平易には「論理の飛躍」などと表現される。誤謬には「形式的」なものと「非形式的」なものがある。論理学やその周辺分野では、結論の正否を問わず「誤謬」という。意図的な誤謬は「詭弁」という。 アリストテレスのころから、非形式的誤謬はその間違いの根源がどこにあるかによっていくつかに分類されてきた。「関連性の誤謬」、「推論に関する誤謬」、「曖昧さによる誤謬」などがある。同様の誤謬の分類は議論学によってももたらされている[2]。議論学では、論証(論争)は合意を形成するための個人間の対話プロトコルとみなされる。このプロトコルには守るべきルールがあり、それを破ったときに誤謬が生まれる。以下に挙げる誤謬の多くは、このような意味で理解可能である。[要出典] 個々の論証における誤謬を認識することは難しい。というのも、修辞技

    誤謬 - Wikipedia
  • 論理学 - Wikipedia

    論理学では、モーダスポネンスのような形式的に妥当な推論を研究する。 論理学 (ろんりがく、英語: logic) は、正しい推論の研究である。形式論理学および非形式論理学が含まれる。形式論理学は、演繹的に妥当な推論あるいは論理的真理の研究である。論証の議題や内容とは無関係に、論証の構造のみにより、前提からどのように結論が導かれるかを研究する。非形式論理学は、非形式的誤謬、批判的思考、議論学と関わりがある。非形式論理学は自然言語で記述される論証を研究する一方、形式論理学は形式言語を用いる。各形式論理体系は、証明系(英語版)を表現する。論理学は、哲学、数学、計算機科学、言語学を含む多くの分野で中核をなす。 論理学は、前提の集合および結論からなる論証を研究する。論証の例には、前提「今日は日曜日である」および「今日が日曜日であれば、私は働かなくて良い」から結論「私は働かなくて良い」を導くものがある[

    論理学 - Wikipedia
  • 推論 - Wikipedia

    推論(すいろん、英語: inference)とは、既知の事柄を元にして未知の事柄について予想し、論じる事である。 推論の正しさを妥当性という。あらゆる事柄は言語において表現されるのであるから、妥当な推論には、その推論が指し示す事柄が妥当であること(意味論)、その推論が行われた状況において妥当であること(語用論)、その推論の構文が妥当であること(構文論)、が考えられる。 論理学の古典論理では、ある言語によって表現された文章内容が「真偽を問えるもの」であった場合、それを命題と呼び、ある命題から他の命題を導くことを推論という。このとき、導かれる元の命題を前提または仮定といい、導かれた命題を結論という。 命題には、その内容と独立に常に真であるような命題が存在し、これをトートロジー(恒真式)という。このトートロジーを推論に利用すれば、妥当な推論であるといえることになる。トートロジーを利用した推論のな

  • 詭弁 - Wikipedia

    この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典は脚注などを用いて記述と関連付けてください。(2012年11月) 信頼性について検証が求められています。確認のための情報源が必要です。(2010年7月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2010年7月) 詭弁(詭辯、きべん、希: σοφιστική)とは、主に説得を目的として、命題の証明の際に実際には誤っている論理の展開が用いられている「推論」である。誤っていることを正しいと思わせるように仕向けた議論。奇弁、危弁とも。意図的ではない「誤謬」とは異なる概念である。 日語で日常的に使われる「詭弁」とは、「故意に行われる虚偽の議論[1]」、「道理に合わないことを強引に正当化しようとする弁論、論理学で外見・形式をもっともらしく見せかけた虚偽の論法[2]」、「実質において論理上虚偽あるいは誤謬でありながら