東京電力福島第一原子力発電所で、事故対応の指揮を執った吉田昌郎元所長が、9日午前、東京都内の病院で食道がんのため亡くなりました。 58歳でした。
東京電力福島第一原子力発電所で、事故対応の指揮を執った吉田昌郎元所長が、9日午前、東京都内の病院で食道がんのため亡くなりました。 58歳でした。
東京電力福島第一原発で事故発生直後から対応に当たった吉田昌郎(まさお)・前所長(57)が11日、福島市内で開かれた原発事故と復興に関する有料セミナーにビデオ出演し、事故当時の状況などを語った。 セミナーは長野県内の出版社が主催。会場には100人を超す聴衆が集まった。映像は30分弱で、7月に東京都内で収録されたという。 映像の中で吉田前所長は冒頭、「地元の人たちに多大な迷惑をかけていることを深くおわびしたい」と陳謝。事故発生時、東電が全面撤退を検討したかどうかについては、「我々が現場を離れることはあってはならず、撤退ということを本店は一言も言っていないし、我々も思っていなかった」と話した。 また、仏教に造詣が深いという吉田前所長は、危険を顧みずに何度も現場に向かう部下の姿を、「地面から菩薩(ぼさつ)が湧いてくるイメージだった」とたとえ、感謝の気持ちを表した。一方、政府などの事故調査委員会から
東日本大震災〜あれから1年〜 被災地、その時と今 写真特集 特集・ビジュアル解説 動画 「地獄みたいな状態」=吉田前所長、同僚に謝意−インタビュー映像公開・福島 「地獄みたいな状態」=吉田前所長、同僚に謝意−インタビュー映像公開・福島 東京電力福島第1原発の吉田昌郎前所長(57)が原発事故当時の状況を語ったインタビュー映像が11日、福島市で上映された。吉田前所長は事故直後を「地獄みたいな状態」と表現し、水素爆発では「(現場にいた全員が)死んでもおかしくない状態だった」と振り返った。 長野県の出版社が撮影し、同日のシンポジウムで公開した。吉田氏は、東電側が申し入れたとされる「撤退」について、「われわれが現場を離れることは絶対あってはいけない。本店にも撤退とは一言も言っていない」と述べた。 水素爆発については「破滅的な何かが起こっているのではないか」と感じたといい、「自分や免震重要棟のみん
東京電力福島第一原子力発電所で、事故対応の指揮を執った吉田昌郎前所長のインタビュー映像が福島市で開かれたシンポジウムで上映されました。この映像は、長野県にある出版社が11日福島市で開いたシンポジウムで上映するため、先月10日に東京都内で撮影しました。 吉田前所長ははじめに「福島の地元の方にご迷惑をおかけしています」と陳謝したあと、事故発生直後の状況や心境をおよそ30分間にわたって、語っています。 この中で、最も衝撃的なこととして、3号機の水素爆発を挙げ、「自分や作業員も含めて死んでいてもおかしくない状況だった。がれきが飛んできて最初、数十人が行方不明になった。10人くらいが死んだかもしれないと思った」などと述べました。 また、第一原発の今後について、「事故責任の追及も大事だが、日本だけでなく、世界の知見を集めてより安定化させることが一番求められていると思う。それが地元の人たちにとって
東京電力福島第一原子力発電所で、事故対応の指揮を執った吉田昌郎前所長のインタビュー映像が、福島市で開かれたシンポジウムで上映されました。 映像の中で吉田前所長は「3号機で水素爆発が起きたときは、数十人の作業員の行方が分からず、死者が出るかもしれないと思った」などと、当時の状況や心境を語っています。 この映像は、長野県にある出版社が、11日に福島市で開いたシンポジウムで上映するため、先月10日に東京都内で撮影しました。 映像では、はじめに吉田前所長が「福島の地元の方にご迷惑をおかけしています」と陳謝したあと、事故発生直後の状況や心境をおよそ30分間にわたって語っています。 また、吉田前所長は最も衝撃的だったこととして、3号機の水素爆発を挙げ、「自分や作業員も含めて、死んでいてもおかしくない状況だった。がれきが飛んできて最初、数十人が行方不明になった。10人くらいが死んだかもしれないと思った」
東電が公開したテレビ会議の録画には、事故への対応で一喜一憂を繰り返しながら格闘する現場の様子が記録されている。 「炉圧(原子炉圧力)はちゃんと注水できるまで落ちるんだっけ。賭けだな、もう、賭け」。昨年3月13日午前の記録で、吉田所長がうめいた。3号機の冷却装置が停止し、炉心溶融の危機に直面していた。前日に爆発した1号機と同様、建屋に水素がたまっていく。本店の小森明生常務が漏らした。「すごいやばい状況」 同日夜、圧力はいったん下がったが、14日朝に再上昇。吉田所長が言った。「急激だな。これほんと、要注意なんだよ。6時から6時20分の間に50キロ上がってるでしょ。7時前に設計圧力を超えちゃうよ。水位がダウンスケール(燃料棒が露出)しちゃったじゃん。うえ!小森さん!」 午前11時1分、建屋が爆発。続いて2号機が危機に陥る。建屋の水素を外に出す手だてが見つからない中、建屋上部のパネルが1号機の爆発
福島第1原発の緊急時対策本部の壁面に設置されたテレビ会議システムのモニター。モニターの間には撮影用のカメラがある=2011年5月(東京電力提供) 原子炉建屋の爆発に動揺する原発所長や作業員、首相官邸との連絡調整にうんざりした様子の幹部-。東京電力が6日から公開する福島第1原発事故直後の社内テレビ会議映像の一部内容が4日、関係者の証言から判明した。3号機建屋が爆発した際には吉田昌郎所長(当時)が血相を変えて「本店、大変、大変」と叫ぶ場面が記録されている。 第1原発事故では昨年3月12日、まず1号機の原子炉建屋が水素爆発した。テレビ会議の映像には、免震重要棟2階にある緊急時対策本部が激しく揺れ、余震と思ったのか天井を見上げる社員や、慌ただしく情報収集する技術系幹部らが写っている。 14日に3号機が爆発した後、2号機でも状況が悪化。2号機での同様の爆発を恐れた吉田所長が本店に「もう至急、外からヘ
福島第一原子力発電所の衛星写真。フクシマ50は6基の原子炉に立ち向かう。 フクシマ50(フクシマフィフティ、英語: Fukushima 50)は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の際に福島第一原子力発電所の対応業務に従事していた人員のうち、同発電所の事故が発生した後も残った約50名の作業員に対し欧米など日本国外のメディアが与えた呼称[1][2]。人数はその後変動し、2016年4月で平日1日あたり5790人ほどが作業に当たっている[3]。 2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震の後に発生した津波によって福島第一原子力発電所の原子炉の冷却機能が停止し、それらの復旧作業や応急処置のために同発電所には社員を含め約800人の従業員が従事していた。しかし、懸命の復旧作業にもかかわらず、原子炉1号機の水素爆発など度重なる原子炉爆発事故が発生し、遂に3月15日には、原子
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大阪府出身[1]。1961年(昭和36年)に大阪市立金甌小学校(現:大阪市立中央小学校)に入学する。大阪教育大学教育学部附属天王寺中学校、大阪教育大学教育学部附属高等学校天王寺校舎を経て、1977年に東京工業大学工学部を卒業[1]。高校時代は剣道部と写真部[2]、大学時代はボート部に所属[2]。高校での成績は学年の180人中20番くらいであった[3]。1979年、同大学大学院理工学研究科を修了、原子核工学を専攻していた[1]。指導教官は井上晃[4]。 通商産業省からも内定を貰っていたが、大学の先輩の勧めで東京電力に入社[1]。入社後は各地の原子力発電所の現場作業を転々とし、本店勤務は数えるほどだった[5][6]。福島第一原子力発電所・福島第二原子力発電所両原発の発電部保守課、ユニット管理課などを経て、福島第一原子力発電所1・2・3・4号ユニット所長を務めた。 最初に配属された勤務先は福島第
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