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詩人に関するnamgenのブックマーク (19)

  • 羈旅 - 記憶の彼方へ

    死をゆく旅―詩集 「羈旅」は古くは「羇旅」と書き、「きりょ」と読む。旅といえば、馬と道連れの旅であった時代を彷彿とさせる言葉だが、『万葉集』以来、「羇旅発思」は和歌・俳句の部立(ぶだて)、つまり分類の一つにもなっている。『万葉集』では巻11と巻12に見られる。岩波文庫版『万葉集(上巻)」の「万葉集概説」のなかで、佐々木信綱は「羇旅発思」について次のように説明している。 羇旅発思 羇旅は家を離れて客たること、両字ともに、たびの意である。羇旅の字面は人麻呂の作その他にも見えるが、巻12のは、旅中で家やを思ふ歌で、単に旅中の自然を詠じたものではない。 佐々木信綱編『万葉集(上巻)』(岩波文庫)27頁 しかし、山博道の詩集『死をゆく旅』(花神社、1992年)を読みながら、特に最後の「羈旅」に至って思ったことは、「家」が帰るべき場所だとしても、所詮、仮の宿にすぎず、人は死ぬまで地上の客として、い

    羈旅 - 記憶の彼方へ
  • 続・孤島へ持って行く本――『郷愁の詩人 田中冬二』 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    孤島へ持参したのなかから、もう一冊について書いてみよう。和田利夫『郷愁の詩人 田中冬二』(筑摩書房・1991)。 1 わたしは田中冬二の詩のよい読者ではない。なのになぜA5判・450頁もある浩瀚な評伝を読んでみる気になったのか。それは大正から昭和初期にかけての詩人たちの交流が書につぶさに語られているからである。師である堀口大學、冬二を見出した長谷川巳之吉、生涯の親友であった井上多喜三郎、そして高祖保、岩佐東一郎、城左門、八幡城太郎等々といった詩人俳人たちとの交流について書かれたをいまこの時期に読もうと思ったのは、高祖保の詩集『雪』を偶々古書展で入手し、それについて短文を草したことが機縁となっている。おもしろいものだな、と思う。貧弱なわが蔵書のおそらく九割は未読のままだが、こういうことがあるからなかなか処分できないでいる。 さて、田中冬二は生れてはじめて書いた詩を詩誌「詩聖」に投稿し、

    続・孤島へ持って行く本――『郷愁の詩人 田中冬二』 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
    namgen
    namgen 2013/04/01
    田中冬二
  • 仮初めの住み処、懐かしい人生 - 記憶の彼方へ

    asin:4062136961 清岡卓行は八十三歳の死の年に自分の記憶のなかの断片の情景について次のように書いた。 長い場合には数十年、短い場合でも数年、私の記憶のなかに断片のままぽつんと孤立をつづけ、ほんのときたま、まったく不意に意識の表面に、それもなぜかそのときは鮮明に、あらわれてくる情景がある。 (中略) 私は八十歳を超えたころから、これら断片の情景をそのまま放置せず、小説や詩のなかでなくともいいから、とにかく文字で組み上げて一応は堅固に見える書きもののなかに、わずかな年月でも保存したいと思うようになった。 自分はそのうち死ぬとしても、それら断片の情景がすべて一度も文字でできた仮初めの住み処をもたず、私とともに地上から消えてしまうとすれば、それは物書きであるはずの自分の怠惰のせいではないかといった変な寂しさ、−−他人から見れば滑稽でしかないだろう寂しさを覚えるようになったのである。

    仮初めの住み処、懐かしい人生 - 記憶の彼方へ
  • 坂のある非風景 書かれない詩が書かれている詩を凌駕する

    微動だにしないことで消耗を強いられることがある。「停滞」は無気力、無関心な傍観者が演じるんじゃなくて、積極的な消耗戦の中にある。というわけで目的をもって作品を書きつづけるという消耗が「停滞」を意味してしまうという話だ。何もしない停滞が救われるのはその停滞について否が応でも認識させられるからで、いつでも問題は、何もしない停滞の苦痛からみごとに逃避しおおせたあげく手に入れる快楽的な停滞の方だった。 停滞は充実の中にしかない。充実した創作活動にある停滞をいかにして認識するか。その認識が作品を破綻させる、その破綻にいかにして耐えてゆくかといった場所だけがあたらしい詩的形式を生む場所のはずだった。すでに新しい詩的形式をうしなって半世紀になろうとしている。 その知人の叔母にあたる方は被爆者だったが、昨年亡くなったその葬式に行くことができなかったと語った。叔母はエホバの証人だった。エホバの証人は葬儀を行

  • 坂のある非風景 千の非望

    千の非望は忘れ去られるべきだった。記憶は時間に蹂躙され苦汁を垂れ流している。時間などといつ付き合いはじめたか覚えてもいないが、沈みきってしまった、沈みきっていない水浸しの千の非望をもはやどこにも探すべきではない。 どこで初めて会ったか、どこが最後だったか、どちらもない線路だった。先々週は体調を崩し何度も駅を乗り過ごしたが、わかったのは線路が続いていることだった、どこまでも。始めもなく終りもないのにそれはどこかで始まりどこかで終わる。永遠の過去に始まり永遠の未来で終わることも一区切りにすぎないということだろうか。 しかし井上さんとの出会いがなければ今頃私はどうなっていただろう。もしかしたら脳軟化症患者として幸せな日々を送っているかもしれない。とにかく今も修行は続いているのだ。えっ、続いてるの!?続いているのだ。 太田氏の記述とは異なるが、私はものごとをまるで考えないタイプだった。ただ答えを待

  • 渓谷0年: 幻の雪

  • お知らせ - 詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

    谷川俊太郎『虚空へ』百字感想(19) 詩集(2539) estoy loco por espana(470) 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想(2) プラトン再読(2) tu no sabes nada(12) 斎藤茂吉・万葉秀歌(17) 現代詩手帖12月号を読む(42) 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む(101) 読売新聞を読む(13) 詩(雑誌・同人誌)(2127) こころは存在するか(36) 自民党憲法改正草案を読む(611) 自民党改憲草案再読(70) 高柳誠「フランチェスカのスカート」を読む(21) 破棄された詩のための注釈(28) 考える日記(200) アルメ時代(39) 映画(990) 谷川俊太郎「こころ」再読(58) 詩(269) 谷川俊太郎の10篇(10) 嵯峨信之/動詞(134) 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(1) 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(43) アルメ時代(3) 谷川

    お知らせ - 詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
  • 嫌悪から受容へ:孤独とエゴとの間の隘路 - 記憶の彼方へ

    終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて 作者: ジェイムズ・ギャビン,鈴木玲子出版社/メーカー: 河出書房新社発売日: 2006/01/13メディア: 単行 クリック: 4回この商品を含むブログ (3件) を見るDeep in a Dream: The Long Night of Chet Baker 作者: James Gavin出版社/メーカー: Knopf発売日: 2002/05/14メディア: ハードカバーこの商品を含むブログ (2件) を見る美と破局 (辺見庸コレクション 3) 作者: 辺見庸出版社/メーカー: 毎日新聞社発売日: 2009/06/26メディア: 単行購入: 2人 クリック: 39回この商品を含むブログ (13件) を見る Let's Get Lost [1988] [DVD] 『終わりなき闇』について、辺見庸は渾身のチェット・ベイカー論「甘美な極悪、愛なき

    嫌悪から受容へ:孤独とエゴとの間の隘路 - 記憶の彼方へ
  • 「現代詩手帖」の一〇年

    「現代詩手帖」創成期をめぐって 一九五九年から一九六九年までを読む (「現代詩手帖」2009年6月号)   山田兼士 「現代詩手帖」が創刊されたのは一九五九年六月。キューバ革命があって週刊誌ブームがあって伊勢湾台風があった。「六〇年安保」前夜のことである。創刊号の目次にある名前を見ると、戦前からの旧世代詩人と戦後現れた新世代詩人がおよそ一対二ぐらいの割合だろうか。作品は(投稿作品以外では)吉岡実ら五作品のみで、あとは評論、エッセイ、対談などで占められている。このバランスは六〇年代全体を通して(作品特集号等を除き)ほぼ一貫している。例えば同時期の「詩学」が多少の例外はあるにせよ毎月一〇篇以上の作品を掲載していたのと比較して、批評重視が大きな特徴と言えるだろう。巻頭には「現代詩系譜図」と西脇順三郎、村野四郎等おもに大家たちの写真が二ページ。文巻頭は「だれが詩壇を動かしている

  • 「遅い」コミュニケーション - 記憶の彼方へ

    このところ、僕が初めてインターネットを体験したときの興奮は一体何だったのかと考えている。インターネット体験と言っても、正確にはウェブ体験のことで、たしか1996年にブラウザのネットスケープ1(?)で坂龍一さんのsitesakamotoをブラウズした時の衝撃は今でも忘れられない。すでにFlashが使われていて、その「動く絵」に当にびっくりしたものだった。その衝撃的興奮の余波の中で、当時僕の研究室に出入りしていた京都精華大学から国内留学していたH君や彼の友人でチャリンコ日縦断の折に立ち寄ってくれたN君にほだされて、年甲斐もなく、HTML,CSS,JavaScript,Flashを独学して、自前のサイトを格的に公開したのが1999年だった。あの頃は当に夢中だった。寝る間も惜しんで、Perlにまで噛み付いていた。ゼミの学生にまで、またウェブの話ですか?とあきれらるほどだった。 あれは、た

    「遅い」コミュニケーション - 記憶の彼方へ
  • 吉本隆明『転位のための十篇』

    隆明『転位のための十篇』について(「樹林」1999年秋号より)      「詩とはなにか」という問いには、それこそ詩人の数だけ(あるいは更に多くの)答えがありそうだが、私にとって最も衝撃的だったのは、二十八年前に出会った次のようなものである。   詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである。 (吉隆明「詩とはなにか」)    今となってはどこか懐かしさを覚えさせるほどに真っ当なこの定義にこそ、私たちの現代詩が希求しつつもいつかどこかの棚に置き忘れてきた、ある普遍的な真理が潜んでいるように思われてならない。吉自身、このような考えを少年時代からの「妄想」と呼んでいるのだが、この「妄想」には現実からの抑圧をかろうじて解消するための必然性がこめられていた、とも書いている。詩作品においても、  

  • 坂のある非風景 尖った者の孤独な影

    Author: M ペンを折ることさえ、ここではもう「別の手段による詩の継続」を意味しているにすぎないという宿命に、それからも耐え続けた。 freezingm▽gmail.com ◇幻夢の果て-Edgar Allan Poe- ■ポオについてぼくは何を思い出すだろうか。小学生の時の「振子と陥穽」によって受けたトラウマであり、英語の教科書であり、ラカンによる解説のなかの「盗まれた手紙」だったりする。「大鴉」は学生時代に読んだ。強烈な恐怖に震撼したという失敗した出会いによってポオを思い出す。ところでぼくは怪奇小説作家はみんなドラキュラのイメージで思い描いてしまう。ひとりの登場人物にすぎない人物が怪奇小説全体のイメージになるこの比喩を「換喩(メトニーム)」と呼ぶらしいが、この論を読んだことによってポオからそうとう解放された感じがする。たとえドラキュラの姿をしたままでもポオの家族愛や悲劇的人生に触

  • トーキョー・アートロニカ » 吉増剛造講演会

  • Amazon.com: The Portable Romantic Poets: Romantic Poets: Blake to Poe (Portable Library): Auden, W. H., Pearson, Norman Holmes: Books

  • Guillaume Apollinaire voice

    Apollinaire_recite_le_pont_Mirabeau Help us caption & translate this video! http://amara.org/v/E72v/

    Guillaume Apollinaire voice
    namgen
    namgen 2007/03/13
    Le pont Mirabeau
  • Des Magiers Homepage - Edgar Allan Poe: The Raven

    namgen
    namgen 2007/03/04
    Edgar Allan Poe: The Raven
  • 内面と内言とゴーストと。:鈴木志郎康映像作品『内面のお話』 - みみのまばたき

    (注)右の画像は映像作品とは無関係です。テキストばかりで殺風景なので自分で撮ったものです。 昨年の11月から鈴木志郎康さんに映像作品のDVDをお借りできることになりました。 そして、これまで何回か拙いレビューをゴソゴソと書いてまいりました。 今回は鈴木志郎康さんより合計6枚のDVDをお預かりし、これでほぼ主要作品の全てを網羅的に観ることになるようです。 映画に対しては、大学時代にサークルで8ミリ映画を一回だけ撮ったきりで、あとは受動的きわまりない接し方を長年してきた人間ですので、ひとりの映画作家の作品を、そのはじまりから通時的に観ていく、などという経験は、間違いなく最初で最後の貴重なものでしょう。 そう思うと一、じっくりと観ていきたい。ですので、今回からは1エントリー、1(或いは2)で小刻みに書かせていただこうと思っています。 今回はこちらです。 1:『内面のお話』1999年/5

    内面と内言とゴーストと。:鈴木志郎康映像作品『内面のお話』 - みみのまばたき
  • asahi.com:詩人・評論家の宗左近さん死去 - おくやみ

  • http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20060623i515.htm

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