海外への自由な往来が禁止されていた江戸時代、日本を訪れる外国人は非常に限定され、異国の地を踏む日本人はさらに限られていました。しかし、厳しい制約のなかでも、日本とヨーロッパの間を多くの交易品が行き来し、遠い国々の技術や表現に学んだ美術工芸品が双方の地で誕生しました。 東京国立博物館は、南蛮漆器や洋風画、輸出陶磁器のほか、長崎奉行所旧蔵のキリシタン遺物、紅葉山文庫(もみじやまぶんこ)や蕃書調所(ばんしょしらべしょ)などの江戸幕府関連施設に伝来した地図や洋書、シーボルト旧蔵書といった歴史的に重要な資料を収蔵しています。本展では、江戸時代における東西交流から生まれた所蔵品およびご寄託品を紹介します。世界的な鎖国状態の最中にある現在、改めて江戸時代の人びとに思いを馳せつつ、外国に対する好奇心を自国の文化、美術のなかで昇華させた歴史を振り返ります。 担当研究員の一言 この春以降、移動が制限される情勢
名古屋城はみんなが知っている名古屋のシンボルです。天守閣の屋根に輝く金のしゃちほこや、昔あった御殿をもう一度作ろうとしていることは、みなさんもよく知っていますね。ではお城の周りにお堀があることを知っていますか。お城の周りにわざわざ溝を作って、敵が攻めてくるのを防いだのです。その溝をお堀といいます。名古屋城にはいくつもお堀が作られましたが、いちばん外側の堀が外堀です。この絵地図の赤い線で示した約2kmの外堀を、40年ほど前の昭和51年まで、「おほり電車」と呼ばれる電車が走っていました(ちょうどみなさんのお父さんやお母さんが赤ちゃんの頃のことです)。お城のお堀を走った電車は、日本でも名古屋のここだけでした。 おほり電車は今から100年以上前の、明治44年に出来ました(みなさんのひいおじいちゃん・ひいおばあちゃんが子供の頃のことです)。名古屋の東に瀬戸という町がありますが、そこは昔から瀬戸物と呼
名古屋のまちづくりと近代建築 明治初年には、名古屋の市街地に西洋造り、擬洋風といわれる建物が登場しています。
1907年に世田谷で最初に開通し、“玉電”の愛称で親しまれた玉川電気鉄道。現在は、渋谷から二子玉川に向かう東急田園都市線と、三軒茶屋から分岐し下高井戸へと至る東急世田谷線に、その名残をとどめています。 “玉電”沿線では、1913年、都内初の高級分譲地である桜新町が開発されたのをはじめ、1923年の関東大震災以降、次第に宅地化が進み、多くの美術家たちもまた、広い土地にアトリエをもとめて移り住みました。本展では、この沿線にゆかりの美術家たちを取り上げ、数々のエピソードとともに作品をご紹介します。 1919年、三宿駅近くに画室「白田舎」を建てた日本画家・平福百穂と、歌人・斎藤茂吉との交流。関東大震災の後、駒澤大学の校舎および図書館の再建に携わった建築家・菅原栄蔵と、菅原が構想した駒沢芸術家村のアトリエに住んだ洋画家・向井潤吉。桜新町に千坪の農園を営んだ家具作家・林二郎と、その近隣に住んだ洋画家・
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く