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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/masudanoriko (2)

  • 研究する生活 - 固窮庵日乗

    まだ年度が替わっていないので振り返るには早いのだが、2015年は研究する生活が軌道に乗ってきた年だったと思う。 30歳で子宝に恵まれてから、研究者としてはペースダウンしてしまった。子供を産むことが女性研究者にとってハンディになることはわかっていたが、周囲の例を見て大丈夫だと踏んでいた。私は母か姑をあてにしていた。また、常勤になればお金で解決するつもりだった。 しかし実家では弟が家業を継ぐことになり、母はその手伝いに必死で孫の面倒を見る余裕がなくなった。そして全く予想できなかったことに、義理の両親が乗っていた車が飲酒運転の車に追突され、舅は長らく意識不明、姑は亡くなってしまった。婚家で乳飲み子を抱えて遺品整理をしながらの病院通いがしばらく続き、研究どころではなかった。後から振り返るとこの時から自分の人生のあれこれが狂ってしまったと思う。 保育所には入所することができたが、時間外や病気の時に頼

  • 立身出世から戦意高揚まで――合山林太郎『幕末・明治期における日本漢詩文の研究』 - 固窮庵日乗

    の漢文学のピークは質量ともに近世後期であろうが、明治期も無視できない。なぜなら漢学を捨て去り西洋文明を貪欲に摂取していたこの時期が、近世後期に劣らぬ漢詩流行の時期でもあったからである。 公教育で漢学を修めなかった世代が漢学を学んだのは、そういった素養が政治家や官僚に必要とされたからであろう。漢文というのは元来政治の世界と親和性が高い。漢詩を作ることは立身出世の野心を持った若者に必要な嗜みであった。つまり、漢詩は詩社に参加して政治家と繋がるためのツールだったのである。 もちろん、純粋に文学として漢詩を愛する人々もいたであろうが、それだけでは明治の漢詩流行はなかっただろう。 合山林太郎氏の一連の研究からはこういった事情が浮かび上がってくる。『幕末・明治期における日漢詩文の研究』の序章には幕末・明治の漢文学の背景についての指摘がいくつかあるが、その一つは次の指摘である。 明治期以降、公教育

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