春の伊予国漫遊記。松山・今治と愛媛の魅力を満喫してきました。 法事を兼ねて愛媛観光へ 2024年のGWは、毎年恒例の名古屋帰省ではなく自宅でゆっくり過ごしておりました。というのも、4月に法事のため愛媛・松山に親族大集合というイベントがありまして、そちらをGWの旅行代わりにしたという理由です。法事は日曜日の予定ということ…
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春の伊予国漫遊記。松山・今治と愛媛の魅力を満喫してきました。 法事を兼ねて愛媛観光へ 2024年のGWは、毎年恒例の名古屋帰省ではなく自宅でゆっくり過ごしておりました。というのも、4月に法事のため愛媛・松山に親族大集合というイベントがありまして、そちらをGWの旅行代わりにしたという理由です。法事は日曜日の予定ということ…
加野瀬さんのご意見への回答という形をとりつつ、麻草さんのご意見にも婉曲に反応します。 「エンタテインメント」は免罪符ではない。(麻草さん) 『ぼくたちの洗脳社会』を好きな人が「映画の力なんて大したことがないんだ!」と主張する不思議テクニック(加野瀬さん) 備忘録を書いて4年、普段どれだけ自分が他人の説得を諦めているかを、逆に実感させられることになりました。様々な意見交換に嘴を挟んでみて、自分の無力を散々思い知らされ、「なるほど、こういうわけだから、日頃たいていのことについて自分の意見を何も主張せずに暮らしているわけか」と。そう思って自分の行動を見つめなおすと、じつはウェブでも気になるテーマのほとんどについて何も語らず、ごく僅かな事例についてのみ意見を書いてきたことに気付かされます。 徳保さんの記事中の「映画」というのは、映像やら書籍やら音楽やら、人間の表現活動に置き換えられると考えられる。
以前に言及した「コラム: 常識とは」では、こんな風に書かれている。 なぜ「なぜ人を殺すのは悪いことなのか」と問うてはいけないのか。これは自分で答えを出すべき問題だからである。答えを知ることが重要なのではなく、自分なりに理由を考えることが重要だからである。だから、正確には、「なぜ人を殺すのは悪いことなのか」と問うところまでは問題ない。それを他人に質問するから問題なのだ。自分で答えを出さなければ意味がない。 私は「なぜ人を殺してはいけないのか」とか「なぜ勉強しなければならないのか」とか、大人に訊くような子どもではありませんでした(「子ども」のうちに訊いとけばよかった、とか思う)。前者についてはそういうことを考えてなかったからだと思いますけど、後者については、たぶん、答えを期待していなかったからです。べんきょーできるほうが有利なようにシャカイはなっているのだ、と思っていて、「自分のため」だとかい
歴史がどのよう 戦争出前噺:元日本軍兵士の本多さん「戦前とそっくりの道を…」--左京区で /京都:MSN毎日インタラクティブ 毎日の記事で、日中戦争時のお話。 戦争の酷さや、捕虜を殺した時の話が出ていて、非常に重い話。 差別を引き起こす人間心理については、以前の記事で書いたので それはいいとして、本日は、歴史のお話。 今、中国で発行された「20世紀中国史」なる本の第四巻を借りてきて見ているのだけど (中国語はできないので読めないし) これを読むと、中国人の歴史意識のあり方が垣間見れる。 その中でも強烈なのを紹介。 日本絡みのところ。つまり、日中戦争時の奴で。 *かなりグロイので、食事中の人や、心臓の弱い方は ご覧にならないでください。かなりショッキングな映像も含まれます。 ご覧になる方は自己責任の上で、サムネールをクリックしてください。 読まれる方だけ続きを読むからどうぞ。 僕は中国語が出
申し訳ありません。指定されたURLページは見つかりませんでした。 オニオオハシさん シゴクリ記事発掘 シゴクリにある記事をランダムに表示しています。興味あるものがあれば読んでみてください。
・はじめに 今週末、某市にお住まいの若夫婦の住まいを訪ねる機会があった。東京都心から電車を乗り継いで約40分、比較的若い入居者とその子ども達によって構成されたそのマンションは、オートロック・二階建て駐車場・公園を備えた3LDKで、新築特有の匂いがまだ漂っていた。緑が多く、周囲の風景こそ田舎然としていたものの、そこに屹立する巨大な建物はやはり“現代都市空間”に違いなかった。かつて私が育った浜辺の街(1980年~1990年ぐらい?)のソレとは色んな意味で違う、2006年の子育て空間を私は目撃したと思う。ここで子ども達は育っていき、大人達は子育てをしていくんだなーと感慨にひたりつつ、今ごちょごちょ考えている「都市化やポストモダン的都市空間がコミュニケーションに与える影響」に関連したメモを残すことにした。 なお、このメモは、これまで考えてきた事と自分がかつて経験した事、一度の観察をふりかけただけの
「愛してる」っていう言い方はへんだよなと思っている。なんとなくアダルトな台詞っぽい用例が多いのに、「愛」で「してる」っていうつなぎの印象が幼稚だ。つながらないだろそこは。幼稚だからたのしいっていうニュアンスってことでいいのかなと思うのだが、大真面目にも言われる台詞ではある。真面目に幼稚ってのはなんなのか。ではなんだったらいいのかというと、「愛してる」より「愛している」は一段階戻った表現だな、それに対象を付け加えると「君を愛している」…の場合「を」が「と」だったら意味は通りやすくはなる気がする、さらに通りやすくするため愛を恋愛に置き換えて、つまり…「君と恋愛している」…わけではないんだよな、正確には「君と恋愛の時空感覚を共有したいと願っている」という話だろう、だったら「君と恋愛したい」…「君を愛したい」…いやもうちょっと基本に立ち返ると「君が愛しい」だよな…、うーん、どのレベルまで引き戻すの
Improvised Music from Japan / Taku Sugimoto / Information in Japanese 以下の文章は、先日キッド・アイラック・ホールでおこなわれた私の作曲作品コンサートのためのプログラム・ノートの代わりに書かれたものである。手直しは殆どしていない。急いで書いたものなので、うまく言えなかった部分や分かりにくい箇所があるが、それらの問題は今後、機会のあるごとに書いていきたいと思う。 私は恐らく、ある問題に対する解決法よりも、問題そのものを提議する方が好きなタイプの人間である。ある思想や体系に基づいて考えを深める、といったことは私にはできないだろう。「単に思いつきを並べているだけ」と捉えられても仕方がないかも知れない。突っ込んだ議論は、むしろ他の誰かにやってもらいたい、というのが私の本心である。 2005年11月29日 杉本拓 私がやっているよ
はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました 以下のエントリの通り、今年末を目処にはてなグループを終了予定である旨をお知らせしておりました。 2019年末を目処に、はてなグループの提供を終了する予定です - はてなグループ日記 このたび、正式に終了日を決定いたしましたので、以下の通りご確認ください。 終了日: 2020年1月31日(金) エクスポート希望申請期限:2020年1月31日(金) 終了日以降は、はてなグループの閲覧および投稿は行えません。日記のエクスポートが必要な方は以下の記事にしたがって手続きをしてください。 はてなグループに投稿された日記データのエクスポートについて - はてなグループ日記 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 2020-06-25 追記 はてなグループ日記のエクスポートデータは2020年2月28
世の中には「運ゲー」と呼ばれるゲーム群があり、それらがそのように区分けされること自体に問題はないと思うが、しかしそこに貼るラベルとして「運ゲー」というのは、これはあまりいい名前とはいえないなと、改めて考え直してみた。 やはりこの運というのがよくない。いや運なら運のゲームでもいいのだが、この名前だとそこにプレイヤが関与しているかんじがしないのがよくない。世の中には避けゲーや連打ゲーなど「○○ゲー」はいろいろあるが、これが「運ゲー」となると、じゃあそのゲーム中プレイヤはなにをゲームしているわけ?となると…白装束のおっさんが瞑して天命を待っているだけ、みたいなイメージしか浮かばない。これは実態と乖離している。それがゲームであるなら、そこには何らかのゲームプレイが存在するのである。「運次第だからなにをやってても一緒だよ」というニュアンスで、敢えて(投げ遣り気味に)ゲームプレイの部分に「運」を貼り付
1 嫁さん選び。 2 ようこそ先輩とかいうNHKの番組。 後者について。これは奇妙な番組だった。羽生は子どもたちにルールを考えさせようとしていた。そのなにかを優しく笑いながらどう伝えるかと考えていた。こ、こいつは本当に天才だと思った。 彼はチェスの名人でもあるのだが、どうも、将棋に勝つというより、将棋というのはどういうルールのゲームなのか、ルールとはゲームにおいてどういう意味を持っているのかと考えている人のようだ。似た人がフィッシャーである。彼もまたルールを考えている。 ゲームに勝とうというより、なぜゲームがあるのか、ルールはゲームに何を許しているのか、というふうに彼らは考えている。 そして、出てくるものは、一つの奇っ怪ともいえるアートだ。 あ、ルールを創出的に考えるというのがメタ認識なんですよ。
例えば、生物学的に男性のほうが女性に比べて移り気な遺伝的傾向があったとする*1。よって、A氏もまた(妻に比べて)浮気をしたい衝動が沸き起こりやすいとする。だが、この生物学的傾向が真だったからといってA氏の浮気が倫理的に正当なものとみなされるわけが無いし、逆に倫理的に浮気は不当だからという理由で生物学的傾向は存在しないと頬かむりするわけにもいかない。生物学的傾向と、倫理的判断は常に分けて考えられなければならない。 ところが残念ながら、これらをごちゃまぜにして考える人のほうが世の中には遥かに多い。よくみられる類型は、以下のようなところか。 生物学的傾向がある→倫理的にも正当である とする誤解。 生物学的傾向を背景とした行動なら、倫理的に何をやっても構わないとする向き。現在の進化生物学の主張を採用したうえでこれをやると、男性は不倫・浮気はノープロブレムという事になってしまうし、つきつめればおそら
0.1. はじめに このエントリでは、泣きゲーについて述べる。まず、『泣き』に種類があることを確かめ、それぞれについてどのようなカタルシスがあるかを見ることで、それらの区分をより明確にする。次に、それらのうち、昨今流行している泣きゲーの型がどの分類に属するかを調べ、その理由を考察する。さらに、現在あまり流行してない泣きの分類の中に、新しい萌えが発見できないかを考える。 0.2. 用語の確認 ・ 泣きゲー この場合、泣きゲーとは、理由・動機の如何に関わらず、プレイヤーがストーリーを追っていく途中で、思わず泣いてしまうもののことを言う。当然ながら、あまりにも面白くなくて泣いたとか、ゲーム開始と同時に大音量の喘ぎ声が家中に響いて泣きを見た、などといったものは除く。くわしくはWikipediaの泣きゲーの項を参考。 ・ カタルシス カタルシスとは、作者が語りたいもの(あるいは、プレイヤーが感じるも
ついつい、離れまくってしまった。修士論文もあるでな。 なんか書こうと思うんだが、どうもうまくかけんのよね。というわけで、本日はリハビリ。 ミシェル・ウエルベックの「闘争領域の拡大」を読んだ。 「第3回 『闘争領域の拡大』に見るフレンチ非モテの苦悩の巻」 日刊!ニュースな本棚でこの本を知り、以前からこりゃ読まねばと思っていたのだ。 本文からあまりに素晴らしいセリフをひとつ。 「ずっと前から駄目なんだ。最初から駄目なんだよ。ラファエル、君は絶対に、若い娘が抱くエロチックな夢をかなえられない。仕方がないものと諦めなくてはいけない。自分はこういった物事に縁がないことを受け入れることだ。いずれにせよ、手遅れなんだ。いいかい、ラファエル、セックス面における敗北を君は若い頃から味わってきた。十三歳から君につきまとってきた欲求不満は、この先も消えない傷跡になるだろう。たとえ君がこの先、何人かの女性と関係を
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