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ブックマーク / indai.blog.ocn.ne.jp (45)

  • 恐山あれこれ日記: 「個人」の彼方

    「個人」の彼方 私たちは、「自分」としての在り様を他者から課せられています。それは、名前を付けられることに始まって、誰かの子となり、誰かの兄弟姉妹になり、誰かの生徒になり、友人になり、部下になり、夫やになり・・・と続き、その全部を「自分」という枠組みに回収し続けなければなりません。 この時として過大な「自分」の負担が、時に「課せられる」当のものを想定させ、これを「当の自己」と思わせて、他はすべて「仮面の自分」だと言わせたりします。 このブログでは、「当の自己」が幻想にすぎないことを、度々述べてきましたが、「当の自己」ではないとはいえ、「課された自分」をほぼ無効にする体験はあり得ると思います。 それは「死」の前に立つことです。「死」に対しては、人間の一切の属性は無効です。どこの誰で、どういう人物かは、まるで意味を持ちません。金持ちであろうとなかろうと、権力が、あるいは能力があろうとな

    octavarium
    octavarium 2010/12/10
    仏教が「自分」を解体した後に提示するものは、「無常」の事実だけなのです。
  • 恐山あれこれ日記: ありのままの不自然

    ありのままの不自然 「ありのままでよいのです」とか「ありのままの私を見てほしい」という言い方を、時々耳にすることがあります。そのたび、私はいつも、わかったような、わからないような、妙な気持ちになってしまいます。いったい、「ありのまま」とは何か、どういう状態なのか? 少なくともそれは、やりたい放題のわがまま勝手、無遠慮・野放図の行いを言うわけではないでしょう。「よい」と言うぐらいですから。 このとき、「よい」だの「見て」だのと言う以上、言う方は「ありのまま」がどういうことを意味しているのかわかっているはずです。 しかし、わかると言うなら、それは「ありのままでない」状態との区別ができる、という意味でしょうから、もはやそれは概念です。だとすれば、「ありのまま」とは「特定の概念に規定された状態のまま」ということになるでしょうから、これはどう見ても、「ありのまま」という言葉で人が言いたい意味とは違う

    octavarium
    octavarium 2010/11/11
    結局、「ありのまま」も「自然体」も、「ありのまままに自然に」、そうなれるわけではない、ということですから、この言葉を使ってあまり安直なことを他人に言わない方が無難だと、言わざるを得ません。
  • 恐山あれこれ日記: にんげんっていいか?

    にんげんっていいか? 何度か耳にしたことのある、新手の童謡かと思っていた「くまの子みていたかくれんぼ・・・」ではじまる歌が、かつての名作アニメのテーマソングだということを、つい最近知りました。 実は恥ずかしながら、この歌を初めて聴いた時、私は思わず涙ぐんでしまいました(正直言うと、私は涙もろい方)。 この歌は、「いいな、いいな、にんげんっていいいな」というサビの一節に続いてこうなります。 「おいしいおやつに、ほかほかごはん、こどものかえりを待ってるだろな。ぼくもかえろ、おうちにかえろ」 私は、最初別になんの感慨もなく、この歌を聴いていたのですが、この「・・・ほかほかごはん、こどものかえりを・・・」まできて、ちょっと違和感を覚えたのです。当然ここは「ぼくのかえりを・・・」と続くのだろうと、思うともなしに思ったからでしょう。ところがさにあらず、ここは「こども」となり、直後に「ぼくもかえろ・・・

  • 恐山あれこれ日記: 誰の問題か、問題は誰か

    誰の問題か、問題は誰か 思いつき禅問答シリーズ、このあたりでもう一回。 ある老師が修行僧たちに説教しました。 「あちこちで老師方は衆生済度が大事であると教えているが、たとえば次のような3人の病人がやって来たら、どうやって教え導けばよいのか?  まず眼を病んでいる者は、老師が模範として示すことが見えない。耳が聞こえないものは、老師がどれほど言葉を尽くして教えても、聞こえない。話すことができない者は、自分の境地がどれほどのものか、老師に示すことができない。さあ、諸君、どうしたらよいか? もし、これらの人々を教え導くことができないというなら、仏法には大した功徳はないということになろう」 この話を聞いていた一人の修行僧は、別の老師のもとを訪れて、どう思うか質問しました。すると、その老師はまず言いました。 「礼拝しなさい」 修行僧が言われるままに礼拝して立つと、老師はいきなり、持っていた棒を修行僧に

    octavarium
    octavarium 2010/10/01
    「真理」は問いにおいて存在するのであり、それ以外に存在の次元を持ちません。ですから、問われようが、すなわち問いの方法が、「真理」のありようを決めるのです。
  • 恐山あれこれ日記: 三つ子の偏見

    三つ子の偏見 幼い頃の考え方や習慣などは、大人になっても変わらないことを喩えて、「三つ子の魂百までも」と言ったりしますが、私なんぞはまさにそのとおりで、ものの考え方や感じ方のおおよそは、まるで成長がなく、子供の頃と変わらないままです。 とりわけ、無防備な頭にビルトインされたいくつかのイメージは抜き難く、ほとんど「偏見」のまま固まってしまいましたが、後にそのイメージを雑多な書物から引き出したアイデアで言語化する作業をしてみると、結構、ものの見当がついたりしました。 おそらく、小学校の4年か5年生の頃です。社会科の授業で工場見学というものがありました。無論、そういうところを実際に見るのは初めてで、学校嫌いの私も、かなり楽しみにしていました。 行ったのは缶詰工場で、確か同級生の父親が働いていて、丁寧に案内してくれたと思います。 私たちが入っていくと、だだっ広い工場にはいろいろな機械がところせまし

    octavarium
    octavarium 2010/09/11
    それがどういう「偏見」なのか、なぜそんな「偏見」を持つようになったのか、それをきちんと考えることは、「偏見」を解体するために必須である以上に、そこから人間の在り様を学び取る、きわめて重要な方法。
  • 恐山あれこれ日記: 死を想う人と

    死を想う人と ぼくね、君のような人と話をするとき、いつも言うんだけどね、今の君の苦しみそのものは、ぼくにはわからないんだ。君じゃないんだから。想像することはできるし、その苦しさをどうしようかと、一緒に考えることはできるけどね。でも、わかりっこないんだ。 君が死にたいと思うのは、聞いた状態からして、当たり前だな。ぼくが同じ状況なら、やはり自殺を考えるだろう。ただ、もし君が自殺してしまったら、ぼくはもう、何も君には感じないね。ぼくは、死にたいと思う人には、強く共感することがあるが、死んでしまった人には、ああ、ケリがついたんだな、としか思わない。 そう、そのとおり。ぼくが葬式をするのは、遺された人のため。それだけ。 生きていても無意味だ、と思うのは無理もない。だからと言って、死に意味があるわけでもない。君は死んだら楽になると考えているんだろうが、そうなる保証はない。 生きる意味はあるものではない

  • 恐山あれこれ日記: 「私」でない誰か

    「私」でない誰か たとえば、イタコさんがいます。しかし、彼女が当に死者の魂を呼び出せるのかどうかは、検証不可能です。するとこのとき、次の八つのことが言えます。 ①人も他人もイタコさんだと思っていて、当に魂を呼べる。 ②人はイタコさんだと思っていないが、他人はイタコさんだと思っていて、当に魂を呼べる。 ③人はイタコさんだと思ってるが、他人はイタコさんだと思っていなくて、当に魂を呼べる。 ④人も他人もイタコさんだと思っていなくて、当に魂を呼べる。 ⑤人も他人もイタコさんだと思っていて、当は魂を呼べない。 ⑥人はイタコさんだと思っていないが、他人はイタコさんだと思っていて、当は魂を呼べない。 ⑦人はイタコさんだと思ってるが、他人はイタコさんだと思っていなくて、当は魂を呼べない。 ⑧人も他人もイタコさんだと思っていなくて、当は魂を呼べない。 以上、八つのうち、我々

    octavarium
    octavarium 2010/08/20
    「自分が誰であるかを決めるのは他者である」ということです。本人の自意識でも、能力の有無でもないのです。
  • 恐山あれこれ日記: はばかりながら

    はばかりながら かつて何度か発言したように、私はいわゆる「霊魂」の「実在」については、肯定も否定もしないという、釈尊直伝の「無記」の立場をとっています。 したがって、ある人物が「霊言」(イタコさんの「口寄せ」もその一種です)といわれる特殊な行為を通じて、すでに死んでいる人間の発言を仲介したとしても、その「真偽」それ自体は判断できないと思いますし、しません。 以前、歴史的大宗教者にかんして噴飯ものの「霊言」を読んだことがありますが、いかに噴飯ものであろうと、「真偽」については判断不能です。実際に「霊言」を発した人が「だってその時はホントにそう言ったんだもん!」と言うなら、これを真に受ける必要はないにしろ、嘘だと断定する根拠もありません。検証の手段がないからです。したがって、「霊魂」の「実在」同様、「霊言」の「真偽」についても、「無記」を通すしかないわけです。 ですが、たとえそうであっても、

  • 恐山あれこれ日記: 言葉による不在

    言葉による不在 たとえば、ある絵の美しさは、言葉でいくら説明しても伝えることは不可能で、実際に見る以外に、その美しさを知ることはできません。そういうことから、言語能力の不完全性に言及することは、よくあるパターンです。 ただ、私が今回考えたいのは、そういうことではなく、言語が何かについて語るときには、不可避的に、そのもの、それ自体の存在を消失させてしまうということです。そして、そのものについて何か語っているときには、大抵の場合、その消失に気がつかない、ということです。 たとえば、私が、いま目の前の「この」茶碗について語っているとき、まさに、ここに今たった一つのものとしてある、そういう茶碗です。それを称して「この」と言っているのです。 ところが、茶碗を指す「この」という語は、いつでも、どこでも、何にでも使えます。けっして、いま私の目の前にある、まさに「この」茶碗だけに限定されて使われるわけでは

  • 恐山あれこれ日記: 罪と罰、さらに悪

    罪と罰、さらに悪 普通に考えれば、罪とされるものがまずあって、それを犯すから罰せらるということになるでしょう。しかし、そうでしょうか? 私は、罰する意志とその行為が、罪を作り出すのだと思います。罪それ自体に罪たる根拠はない、ということです。 では「罰する」とは何か。それは、ある共同体において、メンバーの合意と一定の手続きによって、特定の思想、行為を排除(たとえば拘束、追放、抹殺によって)することです。この排除の対象にされたものを、「罪」と呼ぶわけです。排除がただの暴虐ではなく、共同体内で「罰」と認識されるには、合意と手続きが不可欠です(それがいわゆる「神」の行為であろうとも)。 罪は多くの場合、悪と重なりますが、必ずしも悪と同じではありません。罰する共同体にとって、罪はすべからく悪でしょうが、悪がすべからく罪にならないことは、少し考えれば誰でもわかる道理でしょう。「必要悪」という言葉もある

  • 恐山あれこれ日記: Aさんへ

    Aさんへ Aさん。あなたが、過去に反社会的行為のあった宗教団体に入信した友人を心配している様子を目の当たりにして、その友人がどれほど大切な人なのか、どれだけあなたが心を痛めているかを想い、私もなかなか適当な言葉が見つかりませんでした。 話をうかがって、私はあなたがとても心の温かい、そして知的に誠実な人だと思いました。あなたも言っていたとおり、過去はともかく、現在具体的な反社会的行為が認められない以上、その教団の教えを信じたからといって、それだけでその信仰や思想を否定し、罪悪視することは、私も間違いだと思います。 かりに、その信仰を得た結果、今後まったく反社会的行為がないまま、友人が充実した悔いない人生を全うしたならば、それはまことに結構なことだと言うべきでしょう。 また、入信して半年しかたっていない者を説得して信仰を捨てさせることは、ほぼ不可能でしょう。入信する者は、それなりの覚悟をもつも

    octavarium
    octavarium 2010/04/26
    私が認めない思想、あるいは嫌悪する思想は一つしかありません。それは「真理は一つ」という考え方です。そして、「自分の持つ思想や信仰が唯一の真理だ」と主張することです。これこそ独善の最たるものでしょう。
  • 恐山あれこれ日記: 真夜中の電話

    真夜中の電話 午前3時半起床だった修行僧時代。きまって夜中の1時か2時にかかってくる電話と、慢性寝不足修行僧の応対。 その一。 「いま、マゼラン星雲からテレパシーが届いて、宇宙の真理を伝えられたんですけど、どうしたらいいでしょうか?」 「死ねばいいと思います」 ※ 師いわく、「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」 その二。 「この世は苦悩に満ちています。それを解決する悟りの一句、どうぞ!」 「どうでもいいでしょ、そんなこと」 ※ 言葉一つで解決する悩みなど、所詮、大したことでありません。 その三。 「もう生きがいが何もないので、死のうと思うんですが」 「すると、死にがいっつーのはあるんですね?」 ※ 人はどうして、死ねば状況が好転すると信じられるのであろうか?

  • 恐山あれこれ日記: しとしとぴっちゃん

    しとしとぴっちゃん 久々に禅問答をひとつ。 ある雨の日、老師が修行僧に問いました。 「門の外の音は、何だ?」 「雨だれの音です」 すると老師は言いました。 「およそ人は錯覚してさかさまに考え、自分に迷って物をおいかけているな」 「では、老師、あれは何の音ですか?」 「おっと、もう少しで自分に迷うところだった」 修行僧はさらに問います。 「もう少しで自分に迷うところだったというのは、どういうことです?」 老師はおもむろに答えます。 「解脱してさとりの世界に入ることは簡単だが、それをそのまま言葉で言うのはむずかしいな」 さて、この問答、例によって解釈は様々でしょうが、私はこう考えます。 一般に「あれは何だ?」という問い方と、それに対する「あれは〇〇です」という答え方は、「あれ」と指示される「対象」がそれ自体で存在していて、それを眼や耳などを通じて感受した自分が、「精神」を正しく使用して、対象の

  • 恐山あれこれ日記: ずっと前から、もっと遠くから

    ずっと前から、もっと遠くから 今と先(さっき)には何も違いは無く、昨日と今日にもほとんど変わりは無く、おそらく今から一週間後も似たようなもので、一ヵ月後もほぼ同じで、一年後も大体予想できる・・・・というのが、我々の日常というものでしょう。「日常」とは、要するにそういうことです。 おそらく、人々の生活や人生の在り様を決定的に変えてしまうようなものは、「日常」の彼方、ずっと前から、もっと遠くで始まるのです。その始まりは誰も気がつきません。何かが起こった後に、歓喜や衝撃や悔恨の中で、我々がそれを顧みたとき、「ああ、あれが始まりだった」と考えるだけでしょう。 どれだけ目を見開き、耳を澄まそうと、当の始まりは我々にはわからないのです。それでもなお、目を凝らし耳を傾けようとする者がいるなら、彼らにはゆっくり静かに近づいてくる何ものかの気配が感じられるでしょう。 しかし、その気配を感じ取ることは、しば

  • 恐山あれこれ日記: 年末年始のテレビから

    年末年始のテレビから 昨年師匠を亡くしましたので、恐れ入りますが、年頭祝賀の辞はご遠慮申し上げ、遅ればせながら、ブログ読者の皆様のご健康とご繁栄を祈念させていただきます。今年も何卒よろしくお願いいたします。 さて、この年始年末、寺ではそれなりに忙しくすごしたのですが、その合間に興味深いテレビ番組を2ほど見ました。 私は、将棋は駒の動かし方がわかる程度、囲碁はほとんどわかりません。でずが、今回たまたま目にしたのは、その将棋と囲碁の番組だったのです。 正月に見たのは、将棋の新春特別番組で、その番組中、現在の将棋界を代表する実力者、羽生善治名人と佐藤康光九段が、脳内将棋というのをやっていました。これは将棋盤がないままま、お互いがひたすら駒の動きを記憶しながら対局するという、プロ棋士のずば抜けた能力を遺憾なく発揮する手合いでした。 それ自体驚きだったのですが、さらにもっと驚いたのは、局面で優勢

    octavarium
    octavarium 2010/01/11
    私は、関係こそが存在を決定するという「縁起」論者です。その観点から言えば、人間の存在の充実は、即人間関係の充実です。
  • 恐山あれこれ日記: 年の終わりに

    年の終わりに 今年亡くなった著名人に、落語家で人情噺の名人と言われた三遊亭円楽氏がいます。彼が生前、インタビューに答えてこんなふうに言っていました。 「落語家の道を選んだという、自分の選択がよかったな、間違いなかったなと思えることが、嬉しいですね」 うらやましいなあ、と思いました。 私が仏門に入ったのも完全に自分の選択ですが、それは、いろいろと道はあろうが、中でもこれが一番やりたいことだからやってみよう、、、というのとは違いました。 私の場合は、もはや他に望みをつなぐ術がないという、消去法の結果による選択だったのです。その意味では、修行僧時代に何事も夢中でやっていた頃、「直哉さんは、生まれながらのお坊さんだよね」などと言われたときには、相手が好意から言ってくれるのがわかっていても、苦笑いせざるをえませんでした。 そういう極めて覚束ない足取りで歩き出した道を、今なお歩んでいられるのは、周囲の

    octavarium
    octavarium 2010/01/03
    もしかすると「生を延長する」ことよりも、「死を確保すること」のほうが、私たち個人にとっては、はるかに困難で、実は重要なのではないか。
  • 恐山あれこれ日記: 「虚無」を超えて

    「虚無」を超えて 最近仏教に興味を持ち始めたという若い人に質問されました。 「仏教の無常とか無我とかいう教えを突き詰めると、確実な根拠を設定して発言することは錯覚にすぎない、ということになりませんか? すると、無常と無我という考え方自体も錯覚になりませんか? そうだとすれば、これはただのニヒリズムではありませんか?」 私の返答。 「無条件かつ絶対に確実な根拠に基づいて正しいと判断された物事や考え」、これを仮に「真理」とすれば、私が考える仏教の立場からすれば、その一切が完全に錯覚です。もし「無常」や「無我」も「真理」として主張されるなら、当然、錯覚にすぎません。「真理」の主張とは、実際には、発言者の依拠する立場と信念の正当性を、主張しているにすぎません。 ときどき、「仏教とは(宗教ではなく)科学である」というような、実に無意味な主張がされますが、仏教にも科学にも「真理」と考えられるべきいわれ

    octavarium
    octavarium 2009/12/11
    仏教はあらゆる立場や考えの相対性を認めた上で、「絶対確実な根拠」を持たぬまま、ある一つの立場(仏教者なら無常と無我の考え)を選ぶべきだと、勧めているのです。
  • 恐山あれこれ日記: 整形と成仏

    整形と成仏 風邪をひいて、丸1日寝ていました(新型インフルエンザではありません。念のため)。ここ1ヶ月あまり、突発的な出来事があったりして、スケジュールが混乱し、5日も同じ場所にいないという、行雲流水どころか、流浪の毎日が続き、さすがに疲労したのだと思います。そこで、ウツラウツラしながら、とりとめもなく考えたこと。 ちょうど私の「流浪」の最中、例の英国人女性殺害事件が急展開し、市橋某という人物が逮捕されました。文字通り劇的、つまりテレビ的展開となったのですが、その「テレビ的」である所以の大きな部分が、容疑者が整形手術を受けて逃げ延びていたことでしょう。そして彼の整形手術後の顔が公開されて、その変わりように視聴者が驚き、さらに手術を受けようとしたことがキッカケで捕まった顛末が、実に「テレビ的」だと思うのです。最近のメディアで、これほど整形手術が前面に出てきたケースはないでしょう。 思うに、こ

    octavarium
    octavarium 2009/12/11
    「顔」は、我々のアイデンティティーを物質化している部分です。世間で言う「顔が見えない」という比喩は、「正体がわからない」という意味でしょう。その「正体」がアイデンティティーのことです。
  • 恐山あれこれ日記: 宗教者の素質

    宗教者の素質 早いもので、私も出家してから今年で丸25年が過ぎました。で、そろそろタイトルのような話をしてもよかろうかと思い、書かせていただきます。 宗教者の素質として私が一番大事だと思っているのは、教義を深く理解できる頭脳でも、縦横無尽に説教する弁舌でもありません。まして霊感でも超能力でもありません。つまり、一般人にないような特殊能力を「持っている」ことではありません。 そうではなくて、大事なのは、自分が生きていること、存在していることに対する、抜きがたい不安です。どうして自分はこうなのだろう、このままでいいのだろうか。なぜここにいるのか、どこから来てどこへ行くのか。そういう問いが自分を底の方から揺るがしていることです。どうしても知りたいこの問いに答えられない切なさです。答える能力を「持っている」ことでなく、「持たない」ことなのです。いわば、この「不安のセンス」が、宗教家の資質として最も

    octavarium
    octavarium 2009/09/09
    自分の中にどうしようもない苦しさ、切なさ、痛みを感じ続けていることが宗教者として大事。この痛みを知る人は他人を支配しようと、巨万の富を得ようと、自分の問題が何も解決されないことを、骨の髄から知っている
  • 恐山あれこれ日記: ある夜の電話

    ある夜の電話 ・・・・・生きる意味かあ・・・。わかんないなあ、ぼくも。 これね、頭がイイからわかるとか、ワルイからわからない、というのと違うと思うよ。そもそも考えてわかるようなことじゃないんだよ。 生きているって、それ全部、自分持ちでしょう。みんなそれぞれ違う。重ならないの。君の時間の中にいろんな人が出てくるだろうけど、君の時間自体はほかの人と重ならない。でも、「意味」ってのは、他の人と共通でなければ、そもそも意味としてわかんないじゃん。他の人と重ならないと、「意味」にならないでしょ。 だからさ、他の人と重ならないものに、重なってこそ通用するものを当てはめても、結局ズレちゃう。しばらく一つの「意味」を納得していても、またわからなくなって違う「意味」がほしくなるんじゃないかな。その繰り返しだよ。それで、楽に生きられるなら、繰り返しも結構だけど。 生きる意味ってね、どこかにあったり無かったりす

    octavarium
    octavarium 2009/09/01
    生きる意味ってね、どこかにあったり無かったりするものじゃないと思うよ、たぶん。作っていくものだよ。