終戦の日を前に、海外からの引き揚げ者が国に預けたままになっている紙幣や軍票などの公開が13日、兵庫県姫路市飾磨区須加、神戸税関姫路税関支署であった。 神戸税関(神戸市中央区)で保管する紙幣などを所有者や親族に返還するのが目的で、姫路税関支署での公開は昨年に続き2回目。旧日本銀行券や軍票など約4千枚と預金通帳など8冊が公開された。 終戦の年の1945(昭和20)年から53(昭和28)年にかけて、インフレを防ぐために日本への引き揚げでは資産の輸入制限があり、神戸税関が保管証と引き換えに紙幣などを預かっていた。所有者の高齢化などで変換率は低下し、昨年末の時点で約1万7千点が持ち主に戻っていない。 姫路税関支署の豊住辰也・管理課長(50)は「保管証がなくとも、少しでも手がかりがあれば知らせてほしい」と話している。同支署TEL079・235・4571(西竹唯太朗)
神戸市は30日、同市中央卸売市場本場跡地(同市兵庫区中之島2)で不発弾が見つかったと発表した。自衛隊が信管を覆うなどの防護措置を施し、爆発の危険性はなくなったという。付近の住民や交通などに影響はなく、市は8月中にも撤去する方針。 跡地には江戸時代の町屋群が見つかった兵庫津遺跡の一部があり、発掘調査の作業員が29日午後3時半ごろ市に通報。30日午前、自衛隊が米国製250キロ爆弾(長さ140センチ)の一部と断定した。 見つかったのは弾頭部(長さ85センチ)で、太平洋戦争時の空襲で投下されたとみられる。弾底は爆発したが、弾頭だけが不発で残った珍しいケースだという。 発見場所は跡地に隣接する道路から約150メートル離れている。通行などに影響はないが、撤去時は、市が周辺住民の避難や市営地下鉄の運休などの措置をとる可能性がある。 跡地には、大型商業施設の建設が予定されている。(小川 晶)
「馬車道」と呼ばれる通路。沿道には造営時に植えられたカイヅカイブキが並ぶ=神戸市須磨区東須磨(撮影・辰巳直之) 神戸市須磨区の須磨離宮公園にあった皇室の別荘「武庫離宮」が、今年で造営100年を迎える。太平洋戦争末期の神戸空襲で焼失するまで、大正、昭和天皇や中国・清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)らが利用。石造りの正門や中門の白壁などが当時のまま残り、歴史の香りを漂わせる。同公園は100年を記念し、展示や催しを計画している。(斉藤正志) 1908(明治41)年、西本願寺門主、大谷光瑞(こうずい)の別邸があった場所に、当時の宮内省が建設を決定。14(大正3)年12月、須磨海岸や淡路島が一望できる総面積180ヘクタールの敷地に、総ヒノキの2階建て御殿などが完成した。 45(昭和20)年3月17日の空襲で焼け、戦後は米軍の射撃演習場として接収された。 現在の天皇陛下のご成婚記念事業として公園造成が始まり、
終戦間際、乗っていた船が米軍機に攻撃を受け、鳴門海峡で命を落とした宝塚海軍航空隊の予科練習生ら82人の70回忌法要が2日、兵庫県南あわじ市阿那賀の春日寺で営まれ、生き残った戦友や遺族ら約40人が出席した。生存者らの高齢化は進んでいるが、今年は祖父の体験を聞いた孫の小学生が初めて参列し、戦争のない世界を祈った。(上杉順子) 111人が乗った機帆船「住吉丸」は1945年8月2日朝、鳴門要塞(南あわじ市)の工事のために徳島から南あわじ・阿那賀港に向けて出港。正午すぎ、米艦載機の機銃掃射を受け、14~17歳の練習生76人を含む82人が亡くなった。阿那賀の住民は同船を港までえい航し、遺体を同寺に運び込んで弔ったという。 犠牲者82人のうち26人は行方不明だったが、近年になって練習生1人の遺体が徳島県鳴門市の寺院に埋葬されていることが判明。今回の法要に合わせて分骨し、阿那賀の墓地に合葬された。 法要
シカ肉のカンボジア風カレーのほか、多彩な料理をレトルト食品で紹介する本山尚義さん=世界のごちそうパレルモ 世界の多様な食文化を紹介する無国籍料理店「世界のごちそうパレルモ」(神戸市東灘区本山中町3)の店主本山尚義さん(48)が、丹波産の野生シカ肉を使ったカンボジア風カレーを開発し、レトルトパックでの販売を始めた。 本山さんは30カ国を訪れて料理の勉強をした後、1999年に同店をオープンさせた。料理を通じ、世界各国の食文化や歴史を知ってもらおうと、2010年4月からの2年間で、194カ国の料理を提供。ユニークな企画で話題を呼ぶ。 昨秋から取り組むのがアジアやアフリカ、南米の郷土料理のレトルト食品づくり。最近は、“世界の珍食材”に焦点を当て、オーストラリアからラクダやワニ、カンガルーの肉を輸入し、それぞれカレーにした。 今回は、県内で食害被害が増えるシカの肉を活用するよう薦められたこともあり、
国の文化審議会は18日、ヒノキの皮を剥ぐ「檜皮(ひわだ)採取」を選定保存技術に選定し、丹波市の大野浩二さん(49)をその保持者に認定するよう下村博文文部科学相に答申した。兵庫県内の選定保存技術保持者(団体)の認定は今回が9件目。 兵庫県教育委員会によると、選定保存技術は文化財保全のために必要な伝統技術。檜皮採取はヒノキの立ち木から厚さ3~5ミリの樹皮を剥ぎ取る。樹皮を再生させるため、樹皮下の形成層を傷つけないように木べらで甘皮1枚を残して剥ぐ高度な技術が求められる。 檜皮は約1300年前には建造物の屋根などに使われたとされ、現在は国宝や重要文化財など檜皮ぶき建造物の修理に用いられる。 大野さんは、全国社寺等屋根工事技術保存会に所属する約30人の中で最高の腕前とされ、採取した檜皮は国宝「善光寺本堂」や「清水寺本堂」、重要文化財「厳島神社能舞台」などの修理に使われている。 大野さんの父豊さんが
太平洋戦争末期、兵庫県加東市畑の国宝・朝光寺に学童疎開した神戸市中央区の元洋裁師五水井(旧姓勝間)千恵子さん(82)が12日、同寺を訪れた。本堂には、疎開した児童が当時使っていた机やげた箱などが残る。五水井さんは69年ぶりに向かい合い、懸命に生きた激動の時代を振り返った。 五水井さんは、神戸市立宮本国民学校(現宮本小)6年生だった1944年9月、引率の教諭と5、6年生計八十数人で同寺へ身を寄せた。当初は、寺から米田国民学校(現米田小)に通い、授業を受けた。距離があったため、寺の本堂が教室に使われることになり、机や椅子などが運び込まれたという。 午前中は本堂で授業を受け、午後からは農作業や物資の運搬などを手伝った。収穫期の秋に暮らし始めたため、食べ物は都会に比べ恵まれていたという。五水井さんは「お米が本当においしかった。水を抜いた池で拾ったヒシの実や、やぶの中で採ったハツタケを煮て食べた」と
明石藩に代々家老として仕えた織田家の墓所の副葬品を保管する兵庫県の明石市に対し、子孫が返還を求めている。10年前に発掘された寛永通宝や数珠、墓誌などは武家の暮らしを伝える貴重な史料。市は所有者を特定できなかったとして市立文化博物館(上ノ丸2)に保管したが、織田家側は「発掘の際、返さないという説明はなかった」と不信感を募らせており、事態は平行線をたどっている。 発掘は2003~04年、墓所のある雲晴寺(人丸町5)の本堂の増築に際して市が実施した。副葬品は、江戸時代、家老を務めた織田常寿の祖母(1732年死亡)の墓所から出た寛永通宝や数珠、墓誌など。 市は「実際に掘ってみると他家の墓も混在しており、その時点で所有者を特定できなかった」とする。出土品の所有権は土地所有者である寺と発見者の市にあるといい、寺が権利を放棄したため、市が市立文化博物館で保管してきた経緯がある。墓誌は織田家の副葬品と判明
神戸大付属住吉小学校の最後の6年生が学ぶ校舎。中等教育学校の生徒らと“共有”してきた=神戸市東灘区住吉山手5 明治10(1877)年創設の神戸大付属住吉小学校(神戸市東灘区)が来月、137年の歴史に幕を下ろす。出身者には、ノーベル化学賞受賞者の野依良治・理化学研究所理事長や同物理学賞を受賞した江崎玲於奈・横浜薬科大学長、吉田茂元首相の懐刀として活躍した白洲次郎(1902~85年)ら著名人も多い。歴史に名を残す人材が幼少期を過ごした学びやから、最後の卒業生120人が巣立つ。(紺野大樹) 神戸大付属住吉小学校は創設の翌年、神戸師範学校付属小学校として現在の兵庫県庁近くで開校。神戸市東灘区の御影に移転した後、地元から土地の寄付を受け1938年、現在の場所に移った。 昭和の初めには給食が始まり、神戸のハイカラな土地柄からか、コロッケやキャベツのバター炒めなど洋食もメニューに並んだという。また、自主
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