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  • 【畝傍山】眼福地蔵の慈愛があふれる。懿徳天皇陵を過ぎて - 旅ながらの日々

    畝傍山。神武天皇陵と橿原神宮を山麓にいだき、この国の始源のすがたを可視化した聖なるお山は、荘厳神聖な山容で大和盆地に屹立している。 しかし、いまわたしたちが眺める畝傍山の樹相は、明治期以降に、往古の神々しさを取り戻す、などとした声の末に、ヒノキ、カシなどを植林したものだ。 古い時代のお山の写真を目にしたひとは、現在とは幾分違った、そのおだやかで、あまりにも優しい印象に驚くだろう。 そして、昔のそんな時代の畝傍のお山に接したいと願うのならば、今も山中におられる眼福地蔵に会いに行かれるといい。 地蔵様はきっと、来る人すべてを優しく受け入れてくださる…。 ~目次~ 眼福地蔵への道案内 眼福地蔵にまつわるお話 やまとの国で 幼き日々のおもいで 眼福地蔵 傘さす地蔵様 眼福地蔵への道案内 第四代 懿徳天皇陵 畝傍山の登山道といえば、橿原神宮の北参道を進んだ先にある道、あるいは畝火山口神社の脇からはじ

    【畝傍山】眼福地蔵の慈愛があふれる。懿徳天皇陵を過ぎて - 旅ながらの日々
    ot_nail
    ot_nail 2024/04/22
    お地蔵様に傘をさしてあげた方がいるって思うと今のこんな日本にもまだ信じられる人はいるのかもって、少し優しい気持ちになれます。
  • 【八幡神社 (八井神社) 】神武天皇の皇子、神八井耳命の墳墓伝承地 - 旅ながらの日々

    神武天皇の皇子、神八井耳命 (かむやいみみのみこと) は第二代・綏靖天皇の兄御子で、多氏の祖とされている。 日書紀は畝傍山の北に葬られたと記す。 かつて八井神社と称されていたとされる八幡神社 (橿原市山町) の殿がたつ、盛り土状の小丘が、その神八井耳命の墳墓であるとも見做されている。 ~目次~ 八幡神社 御陵山 神功皇后信仰 畝火山口神社 仙洞御所 陽物信仰 おわりに 八幡神社 橿原市山町 (旧 山村) の集落からすこし離れて、畝傍山の山中にあしを踏み入れたとき、ちいさな八幡神社を見過ごさずに立ちどまれたことは、幸運だった。 それは八幡神、あるいは村の鎮守といった言葉から想像されるたたずまいからは幾分かかけ離れた、不思議な光景だった。 tabinagara.jp いったいどこからが境内なのか、それを示すものはなにもなく、わずかばかりの平らな土地に、いきなり石造の鳥居と灯籠が目にと

    【八幡神社 (八井神社) 】神武天皇の皇子、神八井耳命の墳墓伝承地 - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2024/03/27
    なんだかものすごく神秘的なところですね。その風も神々からのご挨拶かも、なんて思ってしまいました。
  • 【出雲大社】縁結びの神様に素敵なご縁を頂戴したはなし - 旅ながらの日々

    みんなが良き縁 (えにし) をもとめている。 自分自身、あるいは家族の誰かがすてきな縁を結びますようにと。 縁結びの御利益をもとめて、大勢の参拝者があしをはこぶ出雲大社は、国譲りに際して大国主神が幽世にお隠れになるために建てられた天日隅宮 (あめのひすみのみや) を始まりとする、と日書紀は記す。 そして十月 (神無月・出雲では神在月) には、神々がこの大社を訪れて様々なことを話しあう、とされたことから、いつしか縁結びに御利益があると考えられるようになった。 『多賀は命神、住よしは船玉、出雲は仲人の神』との一文を井原西鶴の『世間胸算用』にも見ることができる。 わたしも、出雲大社でかけがえのないご縁を頂戴することができた。 ~目次~ 出雲は仲人の神 出雲の土産物店 夫婦こけし 国譲り 縁結び 出雲は仲人の神 出雲の土産物店 出雲大社の参拝をおえて、大鳥居をでた。 そのまま、まっすぐに神門通り

    【出雲大社】縁結びの神様に素敵なご縁を頂戴したはなし - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2024/03/15
    こけしとの出会い、素敵なご縁だったんですね。出雲大社、いつか行ってみたい。ご縁欲しい😆😆😆
  • 【丸山宮祉】もうひとつの神武天皇陵、畝傍山山麓に眠る丸山を行く - 旅ながらの日々

    幕末の文久年間に、現在の四条ミサンザイが神武天皇陵と治定される際には、そこからすこし離れた畝傍山の尾根のうえにある、墳丘状の丸山と呼ばれていた場所も有力な候補地だった。 遠く歴史の向こうに置いてこられたまま、いまでは顧みられることさえまれな、その丸山を訪ねた。 tabinagara.jp ~目次~ 洞村について 全村移転 村人の息づかい 丸山宮祉 洞之清水 (洞) 穴のちから おわりに 洞村について 全村移転 神武天皇陵の参拝道から、石段をのぼったさきに西へとぬける脇道がつづいている。 その道にそうようにして、かつて洞村という集落が存在した。 しかし明治以降、政府や奈良県などが推し進める畝傍山、神武天皇陵、橿原神宮を一体化した神園化のながれのなかで (いにしえの荘厳な風景を現出させる)、時代が大正にうつると、神武陵のすぐ目前で日々の生活を営んでいた総戸数約200、村民1000人にもおよぶ洞

    【丸山宮祉】もうひとつの神武天皇陵、畝傍山山麓に眠る丸山を行く - 旅ながらの日々
    ot_nail
    ot_nail 2024/02/09
    全村移転。そんなことが現実にあったんですね。非常に興味深い歴史を初めて知りました。
  • 神武天皇陵、橿原神宮にみる建国神話の可視化過程について - 旅ながらの日々

    大和三山のひとつ、畝傍山は古来より幾たびもうたによまれ、また祈りの対象ともなってきた。いま、その優美な山容を眺めるとき、思わず静かに手をあわせたくなるのも至極当然のことなのかもしれない。 山麓にひろがる橿原神宮の杜に、初代・神武天皇陵、第二代・綏靖天皇陵、第三代・安寧天皇陵の深い緑がつづいて、そこはさながら広大な神域の様相を呈している。 しかし、横大路をみやこから難波 (なにわ) に向かう古人 (いにしえびと) たちが畝傍山を眺めたとき、いまのわたしたちとはすこし違う印象をもったに違いない。 麓には、未だ木々に囲まれた大きな陵も神宮もなく、そこには田畑がひろがり、いくつもの集落があった。 かまどからは、幾筋の煙が上がっていたことだろうか。 お山は聖なる山であるよりもまず、芝や薪といった民の暮らしに必要な恵みをもたらすところであり、誰しもが自由に立ち入ることができた。 幕末、大和国の儒学者・

    神武天皇陵、橿原神宮にみる建国神話の可視化過程について - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2024/01/26
    書籍に残して欲しいくらいの素晴らしいレポートですね。一気に惹きこまれました。
  • 変遷する玉手山公園―西日本初の遊園地から地域の憩いの場へ― - 旅ながらの日々

    玉手山遊園地…。なんと懐かしい響きだろう。 1,908年 (明治41年) に西日初の遊園地として開園され、昭和30年代の最盛期には、年間数万人の来園者をかぞえ大変な賑わいをみせていたこの遊園地も、しかし、その後は少子化などの影響から徐々に来園者数が減少し、1998年 (平成10年) 5月、ついには惜しまれながらの閉園に至った。 現在、その跡地は柏原市立玉手山公園・ふれあいパークと装いを新たにし、多くの市民に親しまれている。 玉手山公園の魅力とは 玉手山公園の来園について アクセス 駐車場 入園料・休園日 園内案内 蛍の光 玉手山公園の魅力とは 玉手山公園 (玉手山遊園地) の魅力のひとつに、その立地をあげてもいいだろう。 北を流れる大和川と西の石川との合流地点から南にひろがる狭い玉手山丘陵には、多くの古墳が点在し、玉手山古墳群をなしている。 玉手山古墳群の範囲については様々な提言があるが

    変遷する玉手山公園―西日本初の遊園地から地域の憩いの場へ― - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2023/12/08
    大人だって滑らせてくれてもいいですよねー。童心にかえれる時があってもイイじゃない、って思っちゃいます。そして禁止されると余計にやりたくなる😁
  • 【高井田横穴公園】古墳を頂く史跡公園の魅力を解説。駐車場、アクセス情報も - 旅ながらの日々

    大阪府柏原市にある高井田横穴公園は、6世紀中ごろから7世紀前半にかけて築造された高井田横穴群を史跡公園として整備し、平成4年 (1992年) 5月に開園された。 現在までに確認されている横穴は162基。 そのうちの27基から線刻壁画が発見されている。 しかし、この公園のもうひとつのハイライトは、園内のもっとも標高の高いところにある。 ~目次~ 高井田山古墳 高井田横穴群 駐車場、アクセス情報 柏原市立歴史資料館 園内散策 おわりに 高井田山古墳 標高わずか65メートルの高井田山の山頂には、斜面に掘られた横穴群に先行すること約1世紀、5世紀後半の築造と考えられる高井田山古墳がある。 直径約22メートルの円墳。ただし小さな前方部が接続されている可能性を指摘する声もある。 現在では墳丘部は取り払われ、石室は透明のアクリル板で覆われており、外から石室内部を見ることが可能となっている。 石室から出土

    【高井田横穴公園】古墳を頂く史跡公園の魅力を解説。駐車場、アクセス情報も - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2023/11/17
  • 【高井田横穴群】横穴墓を築造したのはどのような集団だったのか。彼らの死生観とは。 - 旅ながらの日々

    高井田横穴群の存在をはじめて知ったときの、あの高揚した気持ちを、言葉で表現することはむずかしい。 高井田山は標高わずか65メートル。その丘と呼びたくなるような小さな山に、6世紀中ごろから掘られ始めた横穴墓が、いまもたくさん残っているという。 わたしは魅せられて、これまで何度足を運んだことだろう。 そして秋晴れのなか、いままたそこに向かっていた。 ランカシャーのブラックバーンに4000の穴があいていると歌ったのはビートルズだ。 わたしは久方ぶりに、大阪府柏原市の高井田で160余の横穴と対峙した。 ~目次~ 史跡 高井田横穴公園へ 高井田横穴群 概要 横穴墓を築造したのは誰か 線刻壁画に見る死生観 祭りのあと 線刻壁画をめぐる5つの断章 騎馬人物 (第2支群3号墳) 手足をひろげた人物 (第2支群10号墳) 鳥 (第2支群3号墳) 片手をあげる人物 (第3支群5号墳) 船に乗る人物 (第3支群

    【高井田横穴群】横穴墓を築造したのはどのような集団だったのか。彼らの死生観とは。 - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2023/11/03
    なんだか少し恐い気もしてしまいます。貴重な体験ですね。
  • 【相撲の神様】不本見神社のヤーホ様に会いに行ったのに会えなかったはなし - 旅ながらの日々

    大阪府千早赤阪村の不見神社 (ふもとみじんじゃ) 周辺には不思議な話が伝わる。 むかし、子供たちが不見山で相撲をとっていたところ、樹々のうえのほうから「ヤーホ、ヤーホ」と声がした。見上げるが誰もいない。ただ風が吹くばかり。そしてどこからか笑い声が聞こえてきた。 子供たちは怖くなって逃げかえり、大人たちをつれて山に戻ってきた。 みなで手分けしてあたりを探しまわるが、誰もいない。 ふと見ると、子供たちが脱ぎ捨てておいた衣服が、きれいに畳まれていたという。 ああ、これはきっと相撲好きの神様が、子供たちの取り組みを楽しみに見に来られたのだということになり、以来、不見神社では子供たちによる奉納相撲が行われるようになった。 いまも秋祭りには「ヤーホ相撲」がにぎやかにひらかれている。 このはなしを知ってからというもの、わたしはこの神様を相撲の神様「ヤーホ様」と呼び、ひそかに親しみを寄せている。 ヤ

    【相撲の神様】不本見神社のヤーホ様に会いに行ったのに会えなかったはなし - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2023/09/10
  • 【壷阪寺】眼病封じの御利益、壺坂霊験記の夫婦愛をいまに伝える - 旅ながらの日々

    奈良県のほぼ中央に位置する高取町を象徴するものとはなにだろう。 「くすりの町 高取」 日書紀・推古天皇の段にみられるように、古くからこのあたりでは薬猟 (くすりがり・鹿の角や薬草を集めること) がおこなわれていた。土佐街道 (飛鳥時代に土佐高知から移ってきたヒトたちが住まうようになったことが、命名の由来するとされる) 沿いにある、黒の外壁に白い六角形の亀甲型が施された古い蔵を改装したくすり資料館を訪ねれば、薬の歴史を体感することができる。 ~目次~ 壷阪寺へ 境内案内 壺坂霊験記 光のほうへ また、高取城も忘れることができない。 壺阪山にあって、かつて山城としては異例なほどの荘厳なすがたをみせていた高取城、その城址には、いまも多くの観光客が訪れる。 そして壺阪寺もまた、よく知られるところだ。 壷阪寺へ 壷阪寺を参拝した。 入山料をおさめているあいだ、じっとこちらをうかがっていたネコたちが

    【壷阪寺】眼病封じの御利益、壺坂霊験記の夫婦愛をいまに伝える - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2023/09/01
    土佐に由来していると聞き、改めて土佐はものスゴいパワーを持つ場所なんじゃないかと思いました。今の朝ドラを見ているせいかもしれませんが😅高取も土佐も足を踏み入れたことがないので、1度出かけてみたいです。
  • 【祇園祭】前祭、後祭。あなたは今年もただ山鉾巡行を眺めていただけ? - 旅ながらの日々

    7月の京都は、祇園祭一色になる。 連日のように祭りの様子が話題になり、なかでもその前祭 (さきまつり) 後祭 (あとまつり) のクライマックスとも目される山鉾巡行の当日は、多くのヒトたちがまちに繰り出し、浴衣姿の人波がゆっくりと押し寄せるなか、市街の中心部には大規模な交通規制が敷かれて、そこではアジール (聖域) さながら、非日常的な、喜びの充溢をいたるところで見ることになる。 ~目次~ 祇園祭の歴史 祇園祭のはじまり 山鉾巡行の変遷 山鉾の作りについて ウイルス禍をこえて こころに鉾を立てよ 祇園祭の歴史 祇園祭のはじまり 2022年 7月撮影 平安時代、京のみやこに疫病が蔓延するなか、ときの朝廷は863年 (貞観5年) 神泉苑において御霊会 (ごりょうえ・死者の怨霊を鎮めるためのまつり) を執り行った。御霊会とされたからには、陰陽寮・陰陽師による卜占があったのだろう。非業の死を遂げた早

    【祇園祭】前祭、後祭。あなたは今年もただ山鉾巡行を眺めていただけ? - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2023/07/21
    祇園祭について何も知らなかったことに気づいてしまった。勉強させていただきました。
  • 【等乃伎神社】古事記にしるされた古代巨樹祭祀の残像を求めて - 旅ながらの日々

    失われた古代祭祀の全容を知ることは容易ではない。 周知のように銅鐸などはなんらかの祭祀につかわれていたのでは、と考えられているが、それについての詳細な記述は、記紀のような古典においても見ることができない。ただ土の中に埋められて、語られることさえ憚られたとでもいうように忘れ去られてしまい、後世、偶然に掘り返されたときには、みなが首をかしげて言う。 どうしてこんなところに埋めたんだ? これにはどんな意味があるんだ? なにに使った? また荒神谷遺跡 (出雲市斐川町) から、1984年 (昭和59年)に358もの銅剣が出土したとき、世間はその数の多さから世紀の大発見と騒ぎたてたが、実際に現地に足を運び、遺跡を目前にしたものは、そこが言うべき特徴のない、何の変哲もない谷の斜面であることに驚いたことだろう。 新たな祭祀が生まれるとき、その執行者は、先行する祭祀の伝承を認めることはなかったのだと、想像

    【等乃伎神社】古事記にしるされた古代巨樹祭祀の残像を求めて - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2023/07/10
  • 【信太の森】葛の葉姫伝承をうんだ悠久の森を行く。聖神社を中心に - 旅ながらの日々

    関西地方に住まうものにはとくによく知られているように、信太の森 (しのだのもり) は大阪府和泉市にひろがる、古来よりいまに至るまでつづく悠久の森だ。 「森は信太の森」と清少納言が枕草子において称えたそこにも、しかし近年においては開発の波が押し寄せて、信太山丘陵の斜面にも家々など建ち並び、豊かな自然はすこしずつ浸されるに及んでいる。 しかし、人々がこの地に魅了され集うのは、故なきことではないのかもしれない。 はるか昔より、そこでは日々の営みといえるものが盛んにおこなわれていた。 信太山丘陵をくだってすぐのところには、国内屈指の規模を誇る弥生時代中期の環濠遺跡、池上・曽根遺跡が間近にせまっている。当時にあっては、海岸線はいまよりもさらに近く、森に入れば用のどんぐりなども取れたとされている。 平安時代になると、京のみやこの皇族、貴人たちが熊野詣に向かうための街道 (熊野街道) が信太を通る。

    【信太の森】葛の葉姫伝承をうんだ悠久の森を行く。聖神社を中心に - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2023/07/01
    勉強不足で存じ上げない場所でしたが、何とも聖なるものを感じますね。ラストにリンクされていた曲、チャララララー♪のメロディがほんとそっくりで驚きました😳
  • 【京都市上京区】晴明神社 ~五芒星、清明井、一条戻り橋を越えて~ - 旅ながらの日々

    京都の晴明神社というと、なにやら魑魅魍魎の跋扈するといったイメージを抱くヒトもおられるのだろうか。曰く、陰陽師、安倍晴明公、式神…。 しかし、それらは人気の歌舞伎や映画などの創作の世界にに引きずられたものだ。 実際の晴明神社の坐すのは、京都御所から西にわずか1キロ足らず、様々な伝承をもつ一条戻り橋からすぐのところになる。 蒼とした鎮守の杜に囲まれているのではなく (しかし立派な御神木はある)、境内は日の光をいっぱいにうけて、突き抜けるように明るい。そして、清浄な風が吹き抜けている。 京都を南北にはしる幹線道路、堀川通に面し、日々多くの参拝者が訪れている。 ~目次~ 晴明神社の創建 清明公屋敷跡 晴明神社と陰陽道 一条天皇と怨霊伝説 境内案内 一の鳥居 二の鳥居 一条戻り橋 五芒星 清明井 聚楽屋敷跡 一条戻り橋を越えて 晴明神社の創建 清明公屋敷跡 晴明神社は1005年 (寛弘2年)、清

    【京都市上京区】晴明神社 ~五芒星、清明井、一条戻り橋を越えて~ - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2023/05/21
    カクテル2杯では到底止められない酒飲みですが、晴明に思いを馳せながら、京都ブライトンホテルでカクテルを楽しみたくなりました。
  • 【大阪市阿倍野区】安倍晴明神社。清明公御生誕伝承の地で葛の葉姫に出会う - 旅ながらの日々

    平安時代の陰陽師 (おんみょうじ)、天文博士、 安倍晴明公の人気は、現代にいたり世上ますます高まっているように思われる。幾たびも小説映画に取り上げられ、先日 (2023・4・2~2023・4・27) も、東京銀座の歌舞伎座において、市川猿之助、脚・演出の『新・陰陽師』が披露されていた。 そんな清明公の生涯には謎が多い。 伝えられている生年や出自にも確たるあかしはなく、御生誕の地としてあげられているところも複数存在する。常陸、讃岐などと並んで、摂津国の、現在では大阪市阿倍野区とされるところもそのうちのひとつだ。 阿倍野区元町に坐す安倍晴明神社は社の由緒書きによると、寛弘4年 (1007年) 花山法皇の命により清明公御生誕の地に創建されたとされる。 しかし江戸時代末には衰微し、明治になる頃には祠と「安倍晴明誕生地」の石碑が残るばかりとなったが、大正14年 (1925年) 阿倍王子神社の飛地

    【大阪市阿倍野区】安倍晴明神社。清明公御生誕伝承の地で葛の葉姫に出会う - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2023/05/05
    安倍晴明、映画で観た知識しかありませんでした。だからイメージは野村萬斎か、はたまた羽生結弦か😅謎めいているところがまた、惹かれるところですね
  • 【相撲の歴史】国譲り神話にみるその起源から現代に残る奉納相撲の跡まで - 旅ながらの日々

    相撲の起源はいつどこに求めればよいのだろう。 向きあった力士どうしが呼吸を合わせ、両手を土俵につけるや、立ち合いの一瞬、バシンッ、と凄まじい音を立ててぶつかりあう二つの巨きなからだ。隆起する二の腕の筋肉、四つの足が土俵にめり込まんばかりになる。 見るものを陶酔と熱狂へと連れ去る、そんな相撲の始まりは、いったいどのようなものだったのだろうか。 国譲り神話 野見宿禰と當麻蹶速 初の天覧相撲 腰折田 當麻蹶速之塚 奈良時代から江戸時代まで 相撲節会 武家相撲と勧進相撲 奉納相撲の跡をたずねて おわりに 国譲り神話 神話の世界にまで遡ってみると、古事記における出雲の国譲り神話の、大国主神の子、建御名方神 (たけみなかたのかみ) と天津神・建御雷神 (たけみかづちのかみ) との伊耶佐之小濵 (いなさのおはま・稲佐の浜) でのちからくらべを相撲の起源とみることができる。 ■それぞれの国譲り神話■ 古事

    【相撲の歴史】国譲り神話にみるその起源から現代に残る奉納相撲の跡まで - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2023/04/14
    お相撲の歴史ってスゴいですね。競技自体は普段あまり関心がないのですが、歴史には興味があります。でもそれ以上に、ちゃんこ鍋に興味津々😁
  • 行ってよかった 葛城市相撲館「けはや座」 大相撲春場所開催によせて - 旅ながらの日々

    我が国最古の天覧相撲の記録は、日書紀によると、第11代垂仁天皇の御前での大和の當麻蹶速 (たいまのけはや) と出雲の野見宿禰 (のみのすくね) のとりくみとなる。 もっともこの時代の捔力 (すまひ)、現代の角力 (すもう) とは少々異なっている。 なにしろ野見宿禰は、敗れた當麻蹶速の腰骨を踏み折ったというのだから、いまならさしずめデスマッチのレスリングといったところか。 また、そのとりくみの日が「垂仁天皇7年7月7日」とされているなど、相撲が七夕を中心とした一連の行事のひとつであったとも考えられている。 へえ、野見宿禰って出雲のヒトなんだね。 そうなんだ。ただ、山陰の出雲国とする説と、大和国の出雲、現在の奈良県桜井市出雲とする説の二説があるね。 どちらかはわからないのね。 日書紀を読むと、七夕の7月7日に呼ばれてすぐに来たように読めなくもないから、大和の出雲とするほうが説得力があるかも

    行ってよかった 葛城市相撲館「けはや座」 大相撲春場所開催によせて - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2023/03/22
  • 【奈良県葛城市】當麻寺の門前で中将姫の夢をみる - 旅ながらの日々

    先月のこと。 二月といえば寒気もさかりで、わたしなど、ついつい背になってポケットに手をいれて、うつむき加減で過ごしがちだった。 そんななかにあって、うれしいのは日照時間が日に日にながくなってきているのを実感できることだ。日没時間が遅くなって、いつまでも明るいとなんだか得をした気分になる。 夕方四時半、すこし前までならもう薄暗かったのが、まるで嘘のようだった。 そんなわけで、すこし寄り道をしたくなった。 當麻寺に向かって 中将姫伝説 葛城市相撲館「けはや座」 當麻寺に向かって 二上山の山麓にのびる国道165号線とそれに続く県道30号線は、地元では文字通り山麓線の愛称でよばれている。 穴虫交差点からのびるバイパスをのぼっていき、こんどは一転下り坂になると、左前方に大和三山の麗しい山容を望むことができる。 tabinagara.jp さらに数分クルマで進んでいくと、當麻寺 (たいまでら・当麻寺

    【奈良県葛城市】當麻寺の門前で中将姫の夢をみる - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2023/03/19
    ここがあの當麻曼荼羅の😲バスクリンのパッケージ女性、復刻した時にちらっと見かけたのを覚えています。あれが中将姫だったんですねー。勉強になりました。
  • 因幡の白兎伝承をめぐって。古事記神話、白兎神社、亀井玆矩公の視点から - 旅ながらの日々

    古事記にあって、もっともよく知られひろく親しまれているのは、因幡の白兎 (稲葉之素菟) のくだりに違いない。 淤岐島から今まさに気多の前に渡り終えようとしたときに、兎は鰐を怒らせてしまい毛皮を剝がれてしまう。そこに八上比賣 (八神姫) に求婚するために通りかかった八十神たち。兎は八十神に教わったままに、海水を浴びて風に当たっていたが、やがて海水が乾くにつれて皮膚がひび割れ、痛みのあまり泣きだしてしまう。 ■淤岐島は隠岐の島?■ 島根半島の50キロ北方に位置する隠岐の島とする説が有力。しかし、同じ古事記の国生みのくだりには淡路島、四国と国生みしたあとに、隠伎の三つ子の島を生んだ、と隠岐の島のことを表していることを踏まえれば、これを白兎海岸のさき、150メートルの海上にある小さな岩島、淤岐ノ島と考えることもできる。もっともそれは古事記等にならって後代に名付けられたものに違いなく、それまでは長い

    因幡の白兎伝承をめぐって。古事記神話、白兎神社、亀井玆矩公の視点から - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2023/02/24
    因幡の白兎。全く知識がありません。日本に生まれたからには人生を終えるまでに1度は古事記を読むべきと最近ある著名な方がお話されていて、そしてこのタイミングでこの記事に出会ったのは今がその時なのかな、と。
  • 【奈良県東吉野村】天誅組終焉の地、烈士の熱き誠のあとを訪ねて - 旅ながらの日々

    天誅組の変に対する世間の評価は、令和のいまとなっても定まっているとは言い難い。 おなじ江戸時代の大塩平八郎の乱などには、われわれは散りゆく美学のようなものをそこに見る。 しかし40日にわたって大和国を転戦した天誅組にたいしては、そのような視線を向ける者ばかりではない。 暴徒、あだ花と一蹴する向きもある。 文久3年8月13日、孝明天皇による大和行幸の詔勅が発せられると、公卿 中山忠光 (孝明天皇の元侍従、明治天皇の叔父) を主将とする天誅組は「皇軍御先鋒」を自負し同17日、幕府天領の五條 (現在の奈良県五條市) にあった五條代官所を焼き払い、近くの桜井寺を陣に定めると「五條御政府」の表札を門前に掲げた。 あとは御親兵として天皇をお迎えするはずだった。 しかし翌18日、京の政局は一変する。 攘夷派の公卿は官位を剝奪されて失脚し、長州藩は御所の御門警護の任を解かれ (8月18日の政変) 、大和

    【奈良県東吉野村】天誅組終焉の地、烈士の熱き誠のあとを訪ねて - 旅ながらの日々
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    ot_nail 2023/01/06
    明けましておめでとうございます。天誅組、不勉強で存じ上げませんでした。幕末は苦手意識が強く最近漸く書籍を手に取るようになったところ。今年は少し知識を深めていきたいです。今後も更新を楽しみにしています。