じつのところ、創価学会が「反戦・平和の団体」を標榜しはじめたのは1970年秋以降のことだ。その年前半、池田氏の下で強烈な折伏戦を展開し、なおも急角度で組織を拡大させ続けていた創価学会は、批判的なマスコミを押さえ込もうと言論出版妨害事件を引き起こす。 世間の反発は相当なもので、結局、池田氏は謝罪に追い込まれ、1954年の政治進出以来掲げてきた「王仏冥合」や「国立戒壇の建立」といった宗教国家的なスローガンを撤回せざるを得なくなる。 真の歴史を隠した理由 戦後、創価学会は主に「貧・病・争」に悩む社会の下層を取り込み成長した。が、時代は移り変わり、その頃は保革対立の下、学園紛争の嵐が吹き荒れ、中間層が社会の主役に躍り出た時代。そこで創価学会は学生やインテリ層をも取り込むソフト路線に舵を切る。 その際、前面に押し出したのが反戦・平和だった。牧口が獄死した11月18日という日はその14年前の教育書『創