本姓は橘氏である[7]。正確な出自は不明で諸説ある。『系図纂要』などでは伊予橘氏(越智氏の分家)の橘遠保の末裔とされる。『尊卑分脈』(橘氏系図)や『太平記』は楠木正成の出自を橘氏嫡流系統の為政の後裔としている。『吾妻鏡』に登場する楠木氏は元は関東にいた御家人で、玉井氏・忍氏・岡部氏・滝瀬氏ら武蔵七党の横山党や猪俣党と並ぶ家柄であるように記されるが、河内の楠木氏との関係は不明である。『吾妻鏡』には1190年(建久1年)の源頼朝入洛の際の随兵として楠木四郎の名前が見える。御家人の一人と思われるが、正成流との関係は不詳である[8]。他に熊野新宮神職楠氏の系統とする説(『熊野年代記』)や熊野国造の末裔とする説(長谷1975)もある。楠木正成以降に河内国の金剛山の麓に本拠を持つようになり、和泉国まで一族が広がった[8]。 史料上はっきり記されているのは、鎌倉時代後期に後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して挙兵