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2013年1月4日のブックマーク (7件)

  • 葉室家(名家) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~ - Reichsarchiv ~世界帝王事典~

    藤原顕隆 生没年:1072-1129 父:参議 藤原為房 通称:葉室中納言、夜の関白 1087 院蔵人 1087 左兵衛尉 1087 左近将監 1087 従五位下 1089 宮内権少輔 1090 従五位上 1090 勘解由次官 1095 正五位下 1096 若狭守 1097 右衛門権佐 1098 左衛門権佐 1098 右少弁 1099 左少弁 1101 防鴨河使 1102 播磨介 1103 春宮大進 1104 正五位上 1106 右中弁 1107 備前権介 1109 従四位下 1109 左中弁 1109-1118 内蔵頭 1110 近江守 1113 正四位下 1115 右大弁 1115 蔵人頭 1117 越前権守 1118 中宮亮 1120 従三位 1121 周防権守 1122 権中納言 1126 按察使 :藤原悦子(父:右衛門権佐 藤原季綱) 1094-1148 顕頼 1107-113

    葉室家(名家) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~ - Reichsarchiv ~世界帝王事典~
    pirachan
    pirachan 2013/01/04
    谷崎作品読解のためにブックマーク。
  • 葉室定嗣 - Wikipedia

    承元2年(1208年)に誕生、父は葉室光親、母は藤原定経の娘(経子)[1]。兄には歌人として知られる光俊がいた[2]。建保2年(1214年)に叙爵[2]。以後但馬国、美濃国などの国司に任官した[2]。しかし、承久の乱の際、父の光親が上皇方として処罰されたため、しばらくの間、昇進は滞るようになった[3]。寛喜3年(1231年)、中宮権大進に任じられた以降は、実務官人として再び官歴を進めていき、仁治2年(1241年)に蔵人頭、同3年(1242年)に従三位、参議にも任じられた[4]。宝治2年(1248年)には正三位、権中納言に昇る[5]。後嵯峨上皇の院司として重用され、院と六波羅探題との間に立って両者の調整役を務めた。 建長2年(1250年)には出家し、法名を定然と称した。その後も度々後嵯峨院中に出入りし、院からの諮問などを受けた[6]。文永9年(1972年)7月28日に死去[7]。 その日記『

    pirachan
    pirachan 2013/01/04
  • 葉室光俊 - Wikipedia

    葉室 光俊(はむろ みつとし)は、鎌倉時代中期の公家・歌人。権中納言・葉室光親の子。官位は正四位下・右大弁。新三十六歌仙の一人。子に大僧都・定円、尚侍家中納言(藤原親子)、鷹司院帥がおり共に勅撰歌人である。出家して真観と称した。右大弁入道等とも呼ばれる。 葉室光親の子として誕生。母は順徳天皇の乳母としても知られる藤原経子。同腹の弟に後嵯峨院の院司葉室定嗣がいる[1]。 承久2年(1220年)、右少弁蔵人に任じられる。翌承久3年(1221年)、承久の乱敗北により、父光親は死罪、光俊も連座して筑紫国に配流されたが、嘉禄2年(1226年)以降は中央に返り咲き、後堀河院院司別当に至る。正四位下、右衛門権佐、右大弁。嘉禄2年(1236年)出家、法号真観[* 1]。 歌人としては、始め藤原定家に師事し、『新勅撰和歌集』で勅撰集入集を果たすが、やがて正三位知家(藤原知家)らと共に、御子左派への対抗勢力を

    pirachan
    pirachan 2013/01/04
    母は順徳天皇の乳母としても知られる藤原経子。あー、あー、谷崎潤一郎著『細雪』と『夢の浮橋』で、お兼と経子、二人の名前がつながった。
  • 細雪 の検索結果 - i-miya's diary

    …ウェイリー 谷崎から細雪をもらう、それをもらう フォード財団で来日のキーン 東京在住、サイデンステッカー 2006.02.08 「小説滋幹の母」1949-50 S31「鍵」夫各日記を各人了解のうえの生活を送る夫 S36 「風癲老人日記」老人の性生活 P041 川端康成 P050 葬儀の名人 三島に言われる、その三島の葬儀委員長、川端康成 P059 古賀春江 雪国、島村、駒子、葉子 眠れる美女 S35-6 江口老人、大量の薬で眠らされた娘達と添い寝する老人5夜 P099 「… …仏次郎 P109 「細雪」でこいさんと(S25)(写真) P111 「武原はんに舞の指導を受ける私」 嶋川信子(写真) 2006.01.30 P チャーチル会 むらがるマスコミ 我という人の心はただ一人 我より他に知る人はなし P163 24歳のころの私(写真) P186 「カルメン故郷へ帰る」 S22.01

    細雪 の検索結果 - i-miya's diary
    pirachan
    pirachan 2013/01/04
    このサイトすごい。谷崎作品の分析に活用させていただきます。もちろん自分で読んだうえでだけれども。
  • レオ・シロタ - Wikipedia

    レオ・シロタ(Leo Sirota, 1885年5月4日 - 1965年2月25日[1])は、ウクライナ出身のユダヤ系ピアニスト。名はレイブ・グリゴローヴィ・シロタ(Leib Grigorovich Sirota, Лео Григорьевич Сирота)。娘は舞台芸術ディレクターで元GHQ民政局局員のベアテ・シロタ・ゴードン。 略歴[編集] 5歳でピアノを始め、9歳までに演奏活動を行ってイグナツィ・ヤン・パデレフスキの注目を浴び、自分の門人になるようにと招かれた。しかし、両親が「息子は幼すぎており、それにふさわしくない」と判断したため、当初はキエフ音楽院に、その後はペテルブルク音楽院に学んだ。 1904年になるとウィーンに留学してフェルッチョ・ブゾーニに師事することができた。 指揮者ヤッシャ・ホーレンシュタインのコレペティトールを務めたことが縁となり、その妹と結婚した。彼女は上流

    レオ・シロタ - Wikipedia
  • 【産経抄】1月4日 - MSN産経ニュース

    谷崎潤一郎の『細雪』は、4人姉妹のうち次女の幸子、三女の雪子、四女の妙子が出かける場面で始まる。3人は「阪急御影の桑山邸にレオ・シロタ氏を聴く小さな集り」に招待されていた。 ▼名ピアニストのシロタ氏の娘として、当時東京で暮らしていたのが、後のベアテ・シロタ・ゴードンさんだ。年末にニューヨークの自宅で89歳の生涯を終えたことを、きのう知った。 ▼ロシア系ユダヤ人のゴードンさんは、5歳のとき東京音楽学校に招かれた父とともに来日した。約10年間を過ごした後、米国の大学に進む。戦争が終わってすぐGHQの民間要員となったのは、日で消息不明となっている両親に会うためだった。22歳のゴードンさんは昭和20年12月24日、5年ぶりに日の土を踏み、再会を果たす。 ▼翌年2月に日国憲法の草案づくりのメンバーとなってからは、多忙をきわめた。なにしろ作業期間はたったの9日間である。日語を含めて6カ国語に堪

  • 葉室家 - Wikipedia

    葉室家(はむろけ)は、藤原北家勧修寺流の支流にあたる公家・華族の家。公家としての家格は名家、華族としての家格は伯爵家[1]。 分家に姉小路家などがある。 概要[編集] 藤原高藤の後裔で、参議藤原為房の二男・顕隆を家祖とする。家名は、3代光頼が洛西葉室(京都市西京区山田)に営んだ別業に因む。 白河法皇の近臣として信任を得た家祖顕隆は兄為隆をも凌ぐ目覚ましい昇進を遂げ、「夜の関白」と称されるほどの権勢を有した。孫の光頼は剛直の人として知られ、平治の乱では平清盛や信西と通じ、内裏に幽閉された二条天皇を六波羅に遷すなど、平氏政権樹立の道を開いている。光頼には光雅・宗頼の実子がいたが、弟の成頼が一旦家督を継ぎ、次いで宗頼がこれを受けた。光雅の子光親は承久の乱に際し、鎌倉幕府追討の宣旨を書いたために駿河で斬られ、その子光俊も配流された。光俊の弟定嗣は後嵯峨上皇の近臣として活躍し、日記『葉黄記』を残して

    葉室家 - Wikipedia
    pirachan
    pirachan 2013/01/04
    谷崎著『細雪』絡みで『一寸法師』を読んでたどり着く。多くの谷崎作品に繋がる。『白日夢』と『蘆刈』に共通点があることは気付いていたけれども。水害で亡くなった人がいるはずと読み返したら、謎が一つ解けた。