真木和泉(まきいずみ)は、文化10年(1813)この地、筑後国久留米の水天宮の神職の家に生まれ、尊攘派の先達として幕末の志士たちを指導しました。 寿永4年3月壇の浦の合戦の後、女官按察使局(あぜちのつぼね)伊勢(のち千代と改む)が筑後川畔鷺野(さぎの)に遁れて始めて水天宮を祀る。時に建久初年という。その後諸処に移転し慶安3年9月藩主有馬忠頼(ただより)公が社地社殿を寄進して現在の所に遷し奉る。此処は古の鷺野ヶ原の故地にして、これより神威弥益に輝き水徳の神として水難、安産、火災、疫病、除災の霊験を以て知られ、海運、農漁、商業の信仰篤く又、子供の守護神として筑肥一円の民は春大祭に子供を参拝せしむる習慣がある。当社は往時全国唯一の禁裏ご祈祷書に仰付けられた名社にして全国水天宮の総本営である。東京の水天宮は藩主有馬頼徳(よりのり)公のとき文政元年ここから江戸にご分霊したもので、その全国所在の水天宮