播磨国(はりまのくに)飾東郡(しきとうごおり)姫路(ひめじ)の城主酒井雅楽頭忠実(うたのかみただみつ)の上邸(かみやしき)は、江戸城の大手向左角にあった。そこの金部屋(かねべや)には、いつも侍(さむらい)が二人ずつ泊ることになっていた。然(しか)るに天保(てんぽう)四年癸(みずのと)巳(み)の歳(とし)十二月二十六日の卯(う)の刻過(すぎ)の事である。当年五十五歳になる、大金奉行(おおかねぶぎょう)山本三右衛門(さんえもん)と云う老人が、唯(ただ)一人すわっている。ゆうべ一しょに泊る筈(はず)の小金(こがね)奉行が病気引(びき)をしたので、寂しい夜寒(よさむ)を一人で凌(しの)いだのである。傍(そば)には骨の太い、がっしりした行燈(あんどう)がある。燈心に花が咲いて薄暗くなった、橙黄色(だいだいいろ)の火が、黎明(しののめ)の窓の明りと、等分に部屋を領している。夜具はもう夜具葛籠(つづら)
むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい桃(もも)の木が一本あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は大地(だいち)の底の黄泉(よみ)の国にさえ及んでいた。何でも天地開闢(かいびゃく)の頃(ころ)おい、伊弉諾(いざなぎ)の尊(みこと)は黄最津平阪(よもつひらさか)に八(やっ)つの雷(いかずち)を却(しりぞ)けるため、桃の実(み)を礫(つぶて)に打ったという、――その神代(かみよ)の桃の実はこの木の枝になっていたのである。 この木は世界の夜明以来、一万年に一度花を開き、一万年に一度実をつけていた。花は真紅(しんく)の衣蓋(きぬがさ)に黄金(おうごん)の流蘇(ふさ)を垂らしたようである。実は――実もまた大きいのはいうを待たない。が、それよりも不思議なのはその実は核(さね)のあるところに美しい赤児(あかご)を一人ずつ、おのずから孕(はら)
日清(にっしん)戦争が始まった。「支那も昔は聖賢の教ありつる国」で、孔孟(こうもう)の生れた中華であったが、今は暴逆無道の野蛮国であるから、よろしく膺懲(ようちょう)すべしという歌が流行(はや)った。月琴(げっきん)の師匠の家へ石が投げられた、明笛(みんてき)を吹く青年等は非国民として擲(なぐ)られた。改良剣舞の娘たちは、赤き襷(たすき)に鉢巻(はちまき)をして、「品川乗出す吾妻艦(あずまかん)」と唄(うた)った。そして「恨み重なるチャンチャン坊主(ぼうず)」が、至る所の絵草紙(えぞうし)店に漫画化されて描かれていた。そのチャンチャン坊主の支那兵たちは、木綿(もめん)の綿入(わたいれ)の満洲服に、支那風の木靴(きぐつ)を履(は)き、赤い珊瑚(さんご)玉のついた帽子を被(かぶ)り、辮髪(べんぱつ)の豚尾を背中に長くたらしていた。その辮髪は、支那人の背中の影で、いつも嘆息(ためいき)深く、閑雅
公開中の作品 ああ東京は食い倒れ (新字新仮名、作品ID:52318) 浅草を食べる (新字新仮名、作品ID:52319) 色町洋食 (新字新仮名、作品ID:52320) うどんのお化け (新字新仮名、作品ID:52321) 想い出 (新字新仮名、作品ID:52317) 甘話休題 (新字新仮名、作品ID:52322) 牛鍋からすき焼へ (新字新仮名、作品ID:52323) 下司味礼賛 (新字新仮名、作品ID:52324) 神戸 (新字新仮名、作品ID:52325) 氷屋ぞめき (新字新仮名、作品ID:52326) このたび大阪 (新字新仮名、作品ID:52327) 清涼飲料 (新字新仮名、作品ID:52328) 駄パンその他 (新字新仮名、作品ID:52330) 食べたり君よ (新字新仮名、作品ID:52329) 売薬ファン (旧字旧仮名、作品ID:60474) 八の字づくし (新字新仮名
震災で破壊された東京の史蹟のその中で最も惜(おし)まれる一つは馬琴(ばきん)の硯(すずり)の水の井戸である。馬琴の旧棲(きゅうせい)は何度も修繕されて殆(ほと)んど旧観を喪(うしな)ってるから、崩壊しても惜くないが、台所口(だいどころぐち)の井戸は馬琴の在世時のままだそうだから、埋められたと聞くと惜まれる。が、井戸だから瓦(かわら)や土砂で埋められても旧容を恢復(かいふく)するのは容易である。 この馬琴の硯の水の井戸は飯田町の中坂(なかざか)の中途、世継稲荷(よつぎいなり)の筋向いの路次(ろじ)の奥にある。中坂といっても界隈(かいわい)の人を除いては余り知る者もあるまいが、九段(くだん)の次の険しい坂である。東京のジオグラフィーを書くものは徳川三百年間随一の大文豪たる滝沢馬琴の故居の名蹟としてのこの中坂を特記する事を忘れてはならない。 馬琴は二十七、八歳、通油町(とおりあぶらまち)の地本(
赤いくつ DE RODE SKO ハンス・クリスティアン・アンデルセン Hans Christian Andersen 楠山正雄訳 あるところに、ちいさい女の子がいました。その子はとてもきれいなかわいらしい子でしたけれども、貧乏だったので、夏のうちははだしであるかなければならず、冬はあつぼったい木のくつをはきました。ですから、その女の子のかわいらしい足の甲(こう)は、すっかり赤くなって、いかにもいじらしく見えました。 村のなかほどに、年よりのくつ屋のおかみさんが住んでいました。そのおかみさんはせっせと赤いらしゃの古切れをぬって、ちいさなくつを、一足こしらえてくれていました。このくつはずいぶんかっこうのわるいものでしたが、心のこもった品で、その女の子にやることになっていました。その女の子の名はカレンといいました。 カレンは、おっかさんのお葬式(そうしき)の日に、そのくつをもらって、はじめてそ
一 深川八幡前の小奇麗な鳥屋の二階に、間鴨(あいがも)か何かをジワジワ言わせながら、水昆炉(みずこんろ)を真中に男女の差向い。男は色の黒い苦み走った、骨組の岩畳(がんじょう)な二十七八の若者で、花色裏の盲縞(めくらじま)の着物に、同じ盲縞の羽織の襟(えり)を洩(も)れて、印譜散らしの渋い緞子(どんす)の裏、一本筋の幅の詰まった紺博多の帯に鉄鎖を絡(から)ませて、胡座(あぐら)を掻(か)いた虚脛(からすね)の溢(は)み出るのを気にしては、着物の裾(すそ)でくるみくるみ喋(しゃべ)っている。 女は二十二三でもあろうか、目鼻立ちのパラリとした、色の白い愛嬌(あいきょう)のある円顔(まるがお)、髪を太輪(ふとわ)の銀杏(いちょう)返しに結って、伊勢崎の襟のかかった着物に、黒繻子(くろじゅす)と変り八反の昼夜帯、米琉(よねりゅう)の羽織を少し抜(ぬ)き衣紋(えもん)に被(はお)っている。 男はキュウ
たのしい春の日であった。 花ざかりなるその広い原っぱの真中にカアキ色の新しい軍服を着た一人の兵隊が、朱い毛布を敷いて大の字のように寝ていた。 兵隊は花の香にむせび乍ら口笛を吹いた。 何という素晴しい日曜日を兵隊は見つけたものであろう!――兵隊は街へ活動写真を見に行く小遣銭を持っていなかったので、為方(しかた)がなく初めてこの原っぱへ来てみたのだった。 兵隊は人生の喜びのありかがやっと判ったような気がした。 兵隊はふと病気にかかっているのではないかと思った。 兵隊の額の上にはホリゾントの青空の如く青々と物静かな大空があった。 兵隊は何時しか口笛を忘れて、うつとりとあの青空に見惚れた。 兵隊は青空の水々しい横っ腹へ、いっぱつ鉄砲を射ち込んでやりたい情欲に似た欲望を感じたのだ。ああ一体それはどういうことなのだ? 兵隊は連隊きっての射撃の名手であった。 兵隊は鉄砲をとりあげると、あおむけに寝たまま
吾妻橋(あずまばし)の欄干(らんかん)によって、人が大ぜい立っている。時々巡査が来て小言(こごと)を云うが、すぐまた元のように人山(ひとやま)が出来てしまう。皆、この橋の下を通る花見の船を見に、立っているのである。 船は川下から、一二艘(そう)ずつ、引き潮の川を上って来る。大抵は伝馬(てんま)に帆木綿(ほもめん)の天井を張って、そのまわりに紅白のだんだらの幕をさげている。そして、舳(みよし)には、旗を立てたり古風な幟(のぼり)を立てたりしている。中にいる人間は、皆酔っているらしい。幕の間から、お揃いの手拭を、吉原(よしわら)かぶりにしたり、米屋かぶりにしたりした人たちが「一本、二本」と拳(けん)をうっているのが見える。首をふりながら、苦しそうに何か唄っているのが見える。それが橋の上にいる人間から見ると、滑稽(こっけい)としか思われない。お囃子(はやし)をのせたり楽隊をのせたりした船が、橋の
下(しも)に掲げるのは、最近予(よ)が本多子爵(ほんだししやく)(仮名)から借覧する事を得た、故ドクトル・北畠義一郎(きたばたけぎいちらう)(仮名)の遺書である。北畠ドクトルは、よし実名を明(あきらか)にした所で、もう今は知つてゐる人もあるまい。予自身も、本多子爵に親炙(しんしや)して、明治初期の逸事瑣談(いつじさだん)を聞かせて貰ふやうになつてから、初めてこのドクトルの名を耳にする機会を得た。彼の人物性行は、下の遺書によつても幾分の説明を得るに相違ないが、猶(なほ)二三、予が仄聞(そくぶん)した事実をつけ加へて置けば、ドクトルは当時内科の専門医として有名だつたと共に、演劇改良に関しても或急進的意見を持つてゐた、一種の劇通だつたと云ふ。現に後者に関しては、ドクトル自身の手になつた戯曲さへあつて、それはヴオルテエルの Candide の一部を、徳川時代の出来事として脚色した、二幕物の喜劇だつ
一 それは、華(はな)やかな日がさして、瞞(だま)されたような暖(あった)かい日だった。 遠藤清子の墓石(おはか)の建ったお寺は、谷中(やなか)の五重塔(ごじゅうのとう)を右に見て、左へ曲った通りだと、もう、法要のある時刻にも近いので、急いで家を出た。 と、何やら途中から気流が荒くなって来たように感じた。 「これは、途中で降られそうで――」 と、自動車(くるま)の運転手は、前の硝子(ガラス)から、行く手の空を覗(のぞ)いて言った。 黒い雲が出ている。もっと丁寧にいうと、朱のなかへ、灰と、黒とを流しこんだような濁りがたなびいている。こちらの晴天とは激しい異(ちが)いの雲行きだ。 赤坂からは、上野公園奥の、谷中墓地までは、だいぶ距離があるので、大雨(たいう)には、神田(かんだ)へかかると出合ってしまった。冬の雨にも、こんな豪宕(ごうとう)なのがあるかと思うばかりのすさまじさだ。 私はすっかり湿
一 細木香以は津藤(つとう)である。摂津国屋(つのくにや)藤次郎である。わたくしが始めて津藤の名を聞いたのは、香以の事には関していなかった。香以の父竜池(りゅうち)の事に関していた。摂津国屋藤次郎の称(となえ)は二代続いているのである。 わたくしは少年の時、貸本屋の本を耽読(たんどく)した。貸本屋が笈(おい)の如くに積み畳(かさ)ねた本を背負って歩く時代の事である。その本は読本(よみほん)、書本(かきほん)、人情本の三種を主としていた。読本は京伝(きょうでん)、馬琴(ばきん)の諸作、人情本は春水(しゅんすい)、金水(きんすい)の諸作の類で、書本は今謂(い)う講釈種(だね)である。そう云う本を読み尽して、さて貸本屋に「何かまだ読まない本は無いか」と問うと、貸本屋は随筆類を推薦する。これを読んで伊勢貞丈(ていじょう)の故実の書等に及べば、大抵貸本文学卒業と云うことになる。わたくしはこの卒業者に
京都の高瀬川(たかせがわ)は、五条から南は天正十五年に、二条から五条までは慶長十七年に、角倉了以(すみのくらりょうい)が掘ったものだそうである。そこを通う舟は曳舟(ひきふね)である。元来たかせは舟の名で、その舟の通う川を高瀬川と言うのだから、同名の川は諸国にある。しかし舟は曳舟には限らぬので、『和名鈔(わみょうしょう)』には釈名(しゃくめい)の「艇小而深者曰(ていしょうにしてふかきものをきょうという)」とある(きょう)の字をたかせに当ててある。竹柏園文庫(ちくはくえんぶんこ)の『和漢船用集』を借覧するに、「おもて高く、とも、よこともにて、低く平らなるものなり」と言ってある。そして図には(さお)で行(や)る舟がかいてある。 徳川時代には京都の罪人が遠島を言い渡されると、高瀬舟で大阪へ回されたそうである。それを護送してゆく京都町奉行付(まちぶぎょうづき)の同心(どうしん)が悲しい話ばかり聞かせ
或秋の午頃(ひるごろ)、僕は東京から遊びに来た大学生のK君と一しょに蜃気楼(しんきろう)を見に出かけて行った。鵠沼(くげぬま)の海岸に蜃気楼の見えることは誰(たれ)でももう知っているであろう。現に僕の家(うち)の女中などは逆まに舟の映ったのを見、「この間の新聞に出ていた写真とそっくりですよ。」などと感心していた。 僕等は東家(あずまや)の横を曲り、次手(ついで)にO君も誘うことにした。不相変(あいかわらず)赤シャツを着たO君は午飯(ひるめし)の支度でもしていたのか、垣越しに見える井戸端にせっせとポンプを動かしていた。僕は秦皮樹(とねりこ)のステッキを挙げ、O君にちょっと合図をした。 「そっちから上って下さい。――やあ、君も来ていたのか?」 O君は僕がK君と一しょに遊びに来たものと思ったらしかった。 「僕等は蜃気楼を見に出て来たんだよ。君も一しょに行かないか?」 「蜃気楼か? ――」 O君は
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