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  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(29)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    8月14日(日)に放送された第32回は、慶長3年(1598)8月の羽柴(豊臣)秀吉の死去後から、翌4年正月までの動きが扱われていました。最後のナレーションで出てきた、正月21日への導入の話になっていました。 その正月21日、何があったかは次回のお楽しみにしていただきたいのですが、史実でいうと、家康以外の四大老・五奉行が、家康の違反行為に対して詰問使を派遣した日になります。正月初めに秀頼が羽柴家の家督を相続した後、政権の拠は大坂城に移されて、家康以外の四大老・五奉行は大坂に移っていました。家康だけは、政権の京都での拠点である伏見に居住となっていました。 大坂では、家康の違反行為、具体的には諸大名との勝手な婚姻にあたりますが、これを詰問するということになりました。しかしドラマでは、大坂と伏見と動きを分けてしまうと作劇にならないということで、全員が伏見に居て、評定の場で家康を詰問する、という設

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(29)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(28)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    8月7日(日)に放送された第31回は、慶長3年(1598)8月の、羽柴(豊臣)秀吉の死去が扱われていました。この後は、秀吉死後における徳川家康と石田三成との激しい権力闘争が展開していくことになります。 今回は、その序章のようなかたちで、秀吉の遺言状の作成をめぐる両者の動きがありましたね。もちろんこれはフィクションですが、実際に残る遺言状から、このようなドラマを創る三谷さんの作劇力の凄さをあらためて感じました。 秀吉は、死後の政治体制として、「五大老・五奉行制」をとります。ドラマでも扱われていましたね。ただしドラマのなかでは、「五大老」の部分、「老(おとな)衆」と言い換えています。「五大老」の呼称は学術用語としては定着してはいるのですが、「大老」というのは江戸時代の用語で、この時代には相応しくないからです。実際には「五人の衆」と呼ばれていましたが、奉行との違いを出すために「老」と呼ぶことにし

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(28)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/08/10
    "実際には、出浦はこれより先の小田原合戦後から、信幸の家老になって、上野沼田領に在国してその統治にあたっています。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(27)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    7月31日(日)に放送された第30回は、文禄5年(慶長元年・1596)閏7月の伏見地震のあとをうけて、慶長3年(1598)7月の、秀吉の死去の直前までが扱われていました。 このなかで、秀吉の嫡子拾の元服が取り上げられていました。そして元服後の名が「羽柴藤吉郎豊臣の朝臣秀頼」となっていたのに気がつかれたでしょうか。 拾は文禄5年5月に初参内しましたが、その時に官位を与えられ「左近衛権中将(さこのえごんのちゅうじょう)従四位下(じゅしいのげ)臣豊臣朝臣藤吉郎秀頼」を名乗ったとする記録があります(『太田牛一旧記』)。ただしこれは2度目の参内での叙任と混同したものと考えられます。実際の元服は伏見地震後の同年閏7月のことのようで、慶長2年(1597)9月に二度目の参内を行い、ここで従四位下・左近衛権少将に叙任、すぐに左近衛権中将に昇進されています。 ただ先の記録により、秀頼の仮名(けみょう)が「藤吉

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(27)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(26)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    7月24日(日)に放送された第29回は、前回の文禄4年(1596)の羽柴(豊臣)秀次事件の後をうけて、翌同5年(慶長元年・1597)閏7月の伏見地震までが扱われていました。 真田家にまつわるエピソードとしては、信繁と大谷吉継の娘(竹林院殿、ドラマでは「春」)との婚姻がありました。しかし実際には、婚姻の時期は明らかではありません。竹林院殿が信繁の子を生むのは、慶長7年(1602)のことになります。 ちなみに父親の吉継は、永禄8年(1565)生まれなので、娘の誕生が20歳頃とすると、竹林院殿が生まれたのは1580年代後半のことになり、彼女が子を生んだのは20歳以前の10歳台後半のことになります。婚姻が何時であったかは不明ですが、10歳台半ばのことであったことは間違いないでしょう。 今回のところでは、大谷吉継の病気が取り上げられるようになっています。一般には、吉継の病気はハンセン病と思われていま

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(26)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/07/27
    "わかっているのは「悪瘡」(皮膚病)というだけなのです。ハンセン病に基づいたエピソードは、すべて近代になってからの創作らしいんですね。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(25)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    7月17日(日)に放送された第28回は、関白秀次切腹事件が扱われていました。前回に予告したように、今回、秀次事件については最新の研究成果に基づいて新しい描き方をしています。その結果が、自殺という設定だったのですね。 さて今回のなかで、信幸・信繁の母の出自問題が取り上げられていました。近世真田家の記録では、公家の菊亭晴季の娘、あるいは正親町実彦の姪で菊亭晴季の養女、などの説があげられています。実際にも「京の御前」と呼ばれていたので、京都の公家社会の出身であったことは間違いないのでしょう。 ところが昌幸との婚姻時期、昌幸はまだ武田信玄の奥近習衆(身のまわりの世話をする家臣)でしかなく、公家の娘をにできるような立場にはありませんでした。なので、昌幸のは、公家社会の出身だろうけれども、公家の娘ではない、おそらく侍女クラスだろう、と考えられています。ドラマでは、これをもとにちょっとした小芝居を仕

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(25)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/07/18
    "なので、昌幸の妻は、公家社会の出身だろうけれども、公家の娘ではない、おそらく侍女クラスだろう、と考えられています。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(24)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    7月10日(日)に放送された第27回は、豊臣政権のターニングポイントの一つとなった、秀次事件への展開が扱われていました。今回、秀次事件をどう描くかにあたっては、最新の研究成果に基づいて、これまでとは異なる新しい描き方をしています。どのような結末になるのかは来週のお楽しみで、今回はそこへの過程を描いているものになります。 今回のなかで、真田信幸・信繁兄弟は、従五位下の位階に叙位され、相応の官職に任官されました。位階につくことを叙位、官職につくことを任官といっていました。とくに注目していただきたいのは、その叙任(叙位・任官の略)に際して、二人とも姓は「豊臣」になっていたことでしょう。 真田家の姓は、「滋野」でしたが、この豊臣時代に限っては、叙任にともなって「豊臣」に改められていました。これは秀吉の時代、武家の官位はすべて秀吉の差配によるものであり、豊臣氏の氏長者として、氏人を推薦するという体裁

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(24)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/07/12
    "「豊臣」は姓で、真田や徳川は名字になります。明治時代にその区別はなくなり、現在のように姓と名字は同一化していますが、それ以前は厳然と区別されていました。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(23)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学

    7月3日(日)に放送された第26回は、天正19年(1591)末の羽柴(豊臣)秀次の羽柴家相続・関白任官から、真田家の肥前名護屋在陣を挟んで、文禄2年(1593)8月の昌幸母の死去、秀吉嫡子秀頼の誕生までが扱われていました。 肥前名護屋城は、秀吉による「唐入り」(朝鮮出兵)の陣とされ、秀吉自ら在陣しました。諸国の大名もすべて同地に在陣しました。当然、真田家も、昌幸・信幸が在陣し、信繁は秀吉の馬廻衆として、名護屋城に在城しました。 ただし昌幸・信幸が名護屋に着陣した時期、名護屋から帰陣した時期は正確にはわかっていません。昌幸らは、徳川家康を大将とする軍団に編成されていたので、おそらくは家康に従って文禄元年4月末の着陣、同2年8月中旬の帰陣と推測されます。 なおドラマでは、昌幸らは8月1日死去の昌幸母河原氏(ドラマでは「とり」)の死去にあたって、帰陣してその死に目に立ち会っていますが、これはド

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(23)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/07/04
    "昌幸らは、徳川家康を大将とする軍団に編成されていたので、おそらくは家康に従って文禄元年4月末の着陣、同2年8月中旬の帰陣と推測されます。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(22)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学

    6月26日(日)に放送された第25回では、天正19年(1591)の一連の事件、羽柴(豊臣)秀長の死去、千利休事件、秀吉嫡子鶴松の死去が扱われていました。そしてそれらがその後の羽柴(豊臣)家の行く末に大きな影響を与えていく様が描かれていました。それがこれからどのように描かれていくのかを、予感させるものとなっていましたね。 さて、ドラマのなかで、秀長は「大納言様」と呼ばれ、秀次は「近江中納言様」と呼ばれていました。これまでも、秀長は「大和宰相様」次いで「大和大納言様」と呼ばれ、秀次も「近江宰相様」と呼ばれていたのを覚えていますか。「宰相」とか「中納言」「大納言」は朝廷における公家の官職で、彼らはそれらの官職に任官していたとともに、それに大和や近江など領国の名を冠して、そのように呼ばれていました。 豊臣政権は、秀吉が関白であったことから、一門や有力大名を「公家」にして、序列化していたのです。「公

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(22)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/06/27
    "「公家」というのは、天皇に対面できる身分をいい、従五位下・侍従以上の官位にあるものたちになります。侍従のあとは、少将・中将・参議(中国風の呼び名が宰相)・中納言・大納言・内大臣(中国風の呼び名が内府
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(21)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学

    6月19日(日)に放送された第24回では、ついに最大の戦国大名・小田原北条氏が滅亡し、羽柴(豊臣)秀吉の「天下一統」が遂げられました。 北条氏の当主氏直が秀吉に降伏した際の姿、「墨衣入道」の姿になっていましたね。実際にも氏直はこの姿で降伏したと考えられています。この「墨衣入道」という姿をとることは、当時の「降参の作法」なんですね。頭を剃って出家姿になることで、詫びを入れる態度を示すものになります。現在でも、「頭を剃る」ことは反省する態度の象徴になっていますが、これはそこからきているんですね。 それともう一つ。最後の場面での秀吉のセリフとして、「天下一統」が使われていました。普通は「天下統一」という用語が使われるところで、ドラマでも実はその言葉を使ってきていました。しかし当時は「天下一統」というのが正しいんですね。意味は変わらないのですが、当時は「統一」という言葉は使っていなくて、「一統」と

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(21)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/06/20
    "当時は「天下一統」というのが正しいんですね。意味は変わらないのですが、当時は「統一」という言葉は使っていなくて、「一統」といっていました。「天下統一」という言葉は、江戸時代以降の使用になります。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(20)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学

    6月12日(日)に放送された第23回では、いよいよ戦国最後の合戦となる小田原合戦に突入し、最大の戦国大名であった小田原北条氏の滅亡への過程が取り上げられていました。ここで茶々(淀殿)と信繁が、北条氏滅亡に立ち会い、何らかの感慨を抱いているわけですが、これはおそらく、「真田丸」のクライマックスとなる大坂の陣への伏線でしょうね。豊臣家ですら滅びるのだ、というね。 ドラマの終盤で、信繁が開城交渉のために小田原城に入っていきます。もちろん信繁にそのような史実はありませんが、徳川家康・織田信雄が家臣を城内に入れて、北条氏直と交渉していたことは史実です。ドラマではこれを信繁に演じさせているわけです。 また信繁が背中に指していたものは、「母衣(ほろ)指物(さしもの)」という武具の一種です。秀吉は、馬廻衆のなかから黄色い母衣を指すものを選抜していて、これを「黄母衣衆」と呼んでいました。いわば馬廻衆のなかの

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(20)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/06/13
    "また信繁が背中に指していたものは、「母衣(ほろ)指物(さしもの)」という武具の一種です。秀吉は、馬廻衆のなかから黄色い母衣を指すものを選抜していて、これを「黄母衣衆」と呼んでいました。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(19)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学

    6月5日(日)に放送された第22回では、天正17年(1589)2月頃の羽柴(豊臣)秀吉による上野国沼田領問題の裁定から、同年12月の秀吉が出した「北条討伐」のための最後通告状が北条氏政のもとに届けられたところまで、まさに小田原合戦の直前までの状況が取り上げられていました。 「北条討伐」の直接の切っ掛けとなったのは、同年10月末に生じたとみられる、名胡桃城奪取事件です。これは真田方に留保されていた沼田領三分一に所在していた名胡桃城を、北条氏の沼田城代猪俣邦憲が奪取した事件になります。 歴史の結果を知っている私たちは、なぜ奪取などしてしまったのか、と思いがちになります。奪取しなければ「討伐」されなかったのに、と考えるからです。しかしこれは完全に、結果からの判断でしかありません。では当事者たちはどう思っていたのでしょうか。 秀吉から最後通告状を突きつけられた北条家は、名胡桃城奪取事件について弁明

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(19)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(18)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学

    5月29日(日)に放送された第21回も、結構盛りだくさんの内容でした。この回から、いよいよ天正壬午の乱からの争点になっていた、上野国沼田領問題が決着する、小田原合戦へと格展開していきます。 今回で注目されるのは、何と言っても「惣無事令」とは何か、ということでしょう。秀吉が大名に命じたその内容は、大名同士の戦争は互いの領国の境界をめぐるものだから、それぞれの領国の境界は自分が裁判で解決するから、停戦せよ、というものでした。ドラマでは、これを秀吉の御前での裁判劇にすることで、惣無事令の性格を端的に表現しているのです。 そもそも秀吉の「天下統一」は、諸国の戦国大名を従属させることで遂げられていきます。これまでは大抵、統一する側の秀吉目線で語られてきました。今回、注目されるのは、それを、服属する大名側の目線で描いていることでしょう。その際、すみやかに服属した上杉景勝と、最後まで抵抗する北条氏政が

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(18)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/05/30
    "秀吉の「天下統一」とは、戦国大名を戦国大名でなくすものでした。それは戦国大名としては自己否定でしたから、服属という決断は簡単ではなかったのです。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(17)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学

    5月22日(日)に放送された第20回は、結構盛りだくさんの内容だったんですね。 信繁らが尾藤道休を尋問しているなかで、「刀狩り令」と「喧嘩停止令」のことが出ていました。前者は天正16年(1588)に発令されたもので、百姓からの武器の没収しようとしたもの、後者はさらにその前年あたりから実行されていたもので、村同士の合戦を禁止しようとしたもの。ともに百姓の「自力救済」の凍結をすすめていくものになります。 聚楽第の落書(らくしょ)の話も史実で、『多聞院日記』という史料に出てくるものです。事件は天正17年2月25日のこと、その日に番衆10人が牢に籠められ、3月18日に番衆17、8人が磔にされました。 現在からみると何と理不尽な、と思われるでしょうが、当時の慣習からすると、一定の妥当性もあるのです。事件が起きた場所の人々は、加害者と同類とみなされたのです。 また犯人に仕立て上げられた尾藤道休が、大坂

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(17)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/05/23
    "そしてその解決方法としての身代わり。これも当時は「解死人」の慣行といって、身代わりを出すことで問題を解決するという方法がとられていました。信繁の発案は、まさにこれにあたることになります。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(16)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学

    5月15日(日)に放送された第19回では、真田昌幸の嫡子信幸と、多忠勝の娘稲姫(小松殿)との婚約の話が取り上げられていました。「稲姫」という名は、近世真田家において伝承された名の一つで、他には「於子亥(おねい)」ともいったといいます。「小松殿」というのは、後の呼び名になります。彼女が出した消息では、「久」と署名しているので、少なくとも信幸に嫁いでからは、実名は「久」といっていたようです。 信幸と小松殿の婚姻の時期については、明確ではなく、いくつかの伝えがあります。多くは天正13年(1585)あるいは同14年としているのですが、これだと真田家が羽柴(豊臣)秀吉に服属する以前のことになるので、ありえません。そのなかで「沼田日記」という史料は、同16年12月の婚約、同17年9月の婚姻という伝えを載せています。状況としては、その可能性が高いと考えています。 また小松殿は、婚姻にあたっては徳川家康

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(16)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/05/16
    "そのなかで「沼田日記」という史料は、同16年12月の婚約、同17年9月の婚姻という伝えを載せています。状況としては、その可能性が高いと考えています。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(15)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学

    5月8日(日)に放送された第18回では、天正15年(1587)2月における真田昌幸の羽柴(豊臣)秀吉への上洛・出仕、同年3月の駿河駿府城での寄親となった徳川家康への出仕が扱われていました。 昌幸が秀吉に出仕した時期については、実は近年まで明確ではありませんでしたが、それを記した史料が新しく確認されたことでわかったのです。そのことを記しているのは、今のところ私の『真田昌幸』(小学館)だけのようですね。 さてこの回で、いよいよ「惣無事令」がセリフとして登場しました。すでにその内容については、前回までのうちに何度となく出てきていましたが、昌幸の秀吉への出仕に合わせて、この用語を登場させています。惣無事令の遵守は、秀吉に服属することと一体のことでしたので、そのことがより印象付けられるようにという、ちょっとした工夫といえるでしょう。 昌幸は、徳川家康の与力にされますが、これも史実です。おそらくは家康

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(15)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/05/09
    "小笠原・木曾は完全な家康家臣にされてしまいます。昌幸だけは独立大名の立場を認められるのですが、ドラマでの、家康の家臣にされてしまうかもという昌幸の不安は、実際にもかなりの確率で存在していたのでした。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(14)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学

    5月1日(日)に放送された第17回では、天正14年(1586)10月における徳川家康の羽柴(豊臣)秀吉への上洛・出仕が話の中心になっていました。 その前段階で、家康が真田討伐を秀吉から許可を得ていたところ、すぐに撤回されるという内容がありましたが、これは史実なんですね。すでに家康は2月に秀吉への服属を表明、その後は何時上洛・出仕を実現するかが政治的焦点になっていました。そのなかで秀吉は、上洛命令を無視した真田昌幸の討伐を家康に命じます。おそらくは家康からの要求をうけてのことでしょう。秀吉から許可を得た家康は、7月17日に家臣に出陣を命令、8月6日付で秀吉も家康に正式に真田討伐を命令します。ところが翌7日、秀吉は一転して真田討伐の中止を命じます。その背景には、上杉景勝の働きかけがあったようです。 真田昌幸をめぐる動きは、実際のところも、まさにドラマのような展開をみせていたんですね。このあと昌

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(14)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/05/03
    "一般的には、秀吉は「羽柴」から「豊臣」に変えたと思われていますが、これは間違いです。「羽柴」は苗字、「豊臣」は「氏」です。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(13)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学

    4月24日(日)に放送された第16回では、いよいよ信繁が羽柴(豊臣)秀吉の馬廻衆に加えられました。これによって信繁はこの後、秀吉の側にあって物語の中心に位置していくことになります。しかもこれについては、根拠となる史実があるのです。少し後の文禄元年(1592)のことになりますが、『太閤記』にも引用されている「秀吉公名護屋御陣之図ニ相添候覚書」に、信繁が秀吉の馬廻衆であったことが記されているのです。 もっとも信繁が何時、秀吉の直臣に取り立てられたのかは明らかではありません。ドラマでは信繁に、真田昌幸の秀吉への服属の動向を、秀吉の側で体験させるために、上杉景勝の上洛後のことにしていますが、これはもちろんドラマ上の設定になります。 昌幸が秀吉に服属するのは天正15年(1587)2月のことで、その時に信繁は、秀吉への人質として送られたと考えられます。その2年後に、秀吉は服属大名に対してとともに在京

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(13)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/04/25
    "そうはいっても、信繁が秀吉馬廻衆であったという史実は、ドラマをすすめていく上で大きな支えになります。信繁を常に秀吉の側に置くことを、正々堂々と行えるからです。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(12)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学

    4月17日(日)に放送された第15回では、時代考証上の工夫がいくつかみられていました。 一つは、前回でも出てきたことですが、秀吉家臣同士の飲み会です。前回は加藤清正が石田三成屋敷で飲み会、今回は大谷吉継が三成屋敷で飲み会していました。実はこれ、制作側から家臣同士の自由な飲み会をできないか、と尋ねられたので、それならこの当時、誰かの屋敷に集まって飲み会が行われていたと答えたところ、このようなかたちで採り入れられたものになります。 実際、この頃から城下の屋敷で、知り合いが集まっての飲み会が、朝・昼・晩と行われるようになっていきます。とくに江戸時代では、江戸に出府した大名は、出府したその日から、知り合いの大名達との飲み会を繰り返していきます。平和な時代、大名の何よりの仕事は、友達の維持と拡大におかれていて、そのための手段が飲み会だったのです。 もう一つは、いわゆる「太閤検地」の話。ここでは秀吉の

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(12)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/04/18
    "教科書的にはいろいろな側面で画期的なものとして取り上げられていますが、私はそのようには考えていなくて、唯一画期的といえるのは、全国の計量単位(枡や棹[さお])を統一したことだけとみています。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(11)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学

    4月10日(日)に放送された第14回から、いよいよ大坂編がスタートしました。ここで源次郎信繁は、上杉景勝に供して上洛していますが、これはあくまでもドラマ上の設定になります。 信繁は、真田昌幸が羽柴(豊臣)秀吉に従属して、上洛・出仕(天正15年2月のこと)した後に、人質として秀吉に差し出されたと考えられますが、その時期は明確ではありません。近世真田家の家伝によれば、昌幸が上洛・出仕した際に、信幸とともに供したと伝えられているので、そのまま人質として置かれたと思われます。 しかしいずれにしても、信繁が何時上洛したのか定かではないので、ドラマではそのように設定して、信繁を早くから秀吉らと関わらせています。それによって、上杉氏、真田氏、徳川氏らの秀吉への従属をめぐる動きにあたって、秀吉の側に居させることで、ドラマの展開と信繁の動きをリンクさせようとしているのです。 ドラマの展開と主人公の動向が乖離

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(11)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/04/12
    "信繁は、真田昌幸が羽柴(豊臣)秀吉に従属して、上洛・出仕(天正15年2月のこと)した後に、人質として秀吉に差し出されたと考えられますが、その時期は明確ではありません。"
  • 教員書籍の紹介 Vol.7 「豊臣大名」真田一族|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学

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    教員書籍の紹介 Vol.7 「豊臣大名」真田一族|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学