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大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(14)|お知らせ|法学部|学部・大学院|駿河台大学
5月1日(日)に放送された第17回では、天正14年(1586)10月における徳川家康の羽柴(豊臣)秀吉への上... 5月1日(日)に放送された第17回では、天正14年(1586)10月における徳川家康の羽柴(豊臣)秀吉への上洛・出仕が話の中心になっていました。 その前段階で、家康が真田討伐を秀吉から許可を得ていたところ、すぐに撤回されるという内容がありましたが、これは史実なんですね。すでに家康は2月に秀吉への服属を表明、その後は何時上洛・出仕を実現するかが政治的焦点になっていました。そのなかで秀吉は、上洛命令を無視した真田昌幸の討伐を家康に命じます。おそらくは家康からの要求をうけてのことでしょう。秀吉から許可を得た家康は、7月17日に家臣に出陣を命令、8月6日付で秀吉も家康に正式に真田討伐を命令します。ところが翌7日、秀吉は一転して真田討伐の中止を命じます。その背景には、上杉景勝の働きかけがあったようです。 真田昌幸をめぐる動きは、実際のところも、まさにドラマのような展開をみせていたんですね。このあと昌
2016/05/03 リンク