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光明天皇 足利尊氏の検索結果1 - 27 件 / 27件

  • 歴史人物スイング 足利尊氏 室町時代1人目 - 素振り文武両道

    皆様、ご機嫌いかがでしょうか。 本日は【160】バットを振りました。 今日は歴史人物、足利尊氏を読みながらバットを振りました。 室町時代1人目。 足利尊氏あしかがたかうじ ウィキブックスより引用。 後醍醐天皇は 天皇中心政治をしたく、 幕府に2回争いを仕掛け敗北。 島根に追放される。 しかし後醍醐天皇は島根から脱出、 3度目の争いに挑む。 この時に尊氏は天皇軍に加わる。 その後色んな場所で戦い、 幕府を滅ぼした。 しかし尊氏は 天皇政治に不満を持ち、 武士政治を取り戻そうと、 光明天皇を即位させた。 後醍醐天皇を奈良に追い払い、 光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開いた。 ピンクの12行を 【言ってバットを振り】ました。 1行5回ずつ繰り返し60振り。 足利尊氏くらいの人物が現れないと、現政権に勝てない気がします。 全員が選挙に行けば、勝つかも。 本日の素振り文武両道の概要。 2

      歴史人物スイング 足利尊氏 室町時代1人目 - 素振り文武両道
    • 建武の新政に失敗した後醍醐天皇が吉野に逃れたあと、足利尊氏が北朝で即位させた天皇は? 北方謙三「道誉なり」を読む - 安心感の研究 by 暖淡堂

      こんにちは、暖淡堂です。 歴史に関心があって、色々と歴史書などを読んでいても、鎌倉幕府体制の終了から建武の新政、南北朝にかけての時代はわかりにくいですよね。 後醍醐天皇、足利尊氏、楠木正成の他、登場する人物も非常に多い。 後醍醐天皇は南朝なのは知っていても、例えばその時の北朝側で即位していた天皇は誰だったのでしょう。 この記事では、その辺りを確認した上で、南北朝と呼ばれ始める時代を簡単に振り返ってみたいと思います。 前南北朝時代 後醍醐天皇と足利尊氏 北朝の成立 北方謙三「道誉なり」で描かれる時代 前南北朝時代 鎌倉時代後期、天皇家は持明院統と大覚寺統の二派に分かれて、交互に天皇に即位していました。 この状態が生じていたのが、南北朝に分裂するきっかけとも言えます。 幕府はこの皇位継承に直接干渉し、皇室側も幕府に頼って自らの立場を維持しようとしていました。 鎌倉幕府を倒し、政治の実権を取り戻

        建武の新政に失敗した後醍醐天皇が吉野に逃れたあと、足利尊氏が北朝で即位させた天皇は? 北方謙三「道誉なり」を読む - 安心感の研究 by 暖淡堂
      • 逃げ上手の若君 - Wikipedia

        『逃げ上手の若君』(にげじょうずのわかぎみ)は、松井優征の日本の漫画作品。集英社の『週刊少年ジャンプ』にて2021年8号から連載中で、で2024年1月時点にて電子版を含む累計発行部数が200万部を突破している[要出典]。 概要[編集] 『暗殺教室』終了以来、約5年ぶりとなる松井の連載作品[1][2]。鎌倉時代から室町時代にかけて[3]、北条時行の生涯を描く歴史漫画である[1][2][3][4][5]。足利尊氏[注 1]によって鎌倉幕府が滅ぼされ[3][6]、北条家の一族郎党が次々と死を選ぶ中[2]、高氏の手から逃げ延び諏訪頼重らとともに再起を期す時行の物語が展開される[6]。戦って死ぬことこそが武士の誉れとされた時代において[2][4]、敵から逃げることで英雄となった時行の生涯を[2][5]、史実をもとに描いている[2][3][4][5][7][8]。 第1話は『週刊少年ジャンプ』の202

        • 吉野朝廷・南朝の宮跡 - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

          おっさんは小学校の時に日本史を習い、室町時代の南北朝時代に興味を持ちました。 南朝=吉野朝廷は、鎌倉幕府滅亡後に始まった建武の新政に失敗した後醍醐天皇などの大覚寺統の天皇が、京都の都を逃れ奈良県吉野郡吉野町や奈良県五條市西吉野町などを本拠とした朝廷のことです。 ここでは叙位や元号などを制定していて政権としての機能をもっていました。 その南朝最初の都に行きたいと長年思っていました。 そこで後醍醐天皇が南朝の都をおいた奈良吉野に行ってきました。 (南朝の都) 吉野の都は、奈良県吉野町吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)のなかにありました。 中世、金峯山寺は付近に多くの子院があったために多くの僧兵を抱えていました。 その規模は興福寺や延暦寺に匹敵するものでした。 後醍醐天皇が吉野の地を選んだのは、この力を借りようという軍事的背景もありました。 ここです。 「吉野朝」と言われた南朝56年のうち。ここ吉野

            吉野朝廷・南朝の宮跡 - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)
          • 11 風の群像(足利尊氏) 杉本 苑子 (1997) - 小説を 勝手にくくって 20選!

            風の群像(下) 小説・足利尊氏【電子書籍】[ 杉本苑子 ] 価格: 734 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 源氏の名門、足利家の嫡男足利高氏は、その血筋と野放図で開けっ広げな性格によって、周囲から慕われていた。理論家で理想肌の弟足利直義。反対に現実主義で何事にも如才ない、足利家の執事の家に生まれた高師直。師直の弟で無口だが、戦いでは誰にも負けない高師泰。年は若いが一本気な上杉重能。高氏と仲間たちは好き勝手に語らいながらも、後醍醐天皇が1度ならず2度目の挙兵をするに及び、北条家に代わり武家の棟梁になる野望を口にする。 高氏は後醍醐天皇に呼応して仲間たちと共に倒幕を決断し、京における幕府の役所、六波羅探題を攻め落とす。同じとき高氏と同じ源氏の名門、新田義貞が鎌倉を攻め滅ぼし、倒幕を果たした。 天皇は高氏を功一等とし、自らの諱「尊治」から偏諱(へんき)され「尊氏」と名を変える。そして後醍醐天皇

            • 後醍醐天皇陵 - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

              吉野には、この地に逃れ、南朝を作り、いつか京都に戻り天皇中心の政治をおこしたいと思いながらも夢かなわず吉野の地で命を落とした後醍醐天皇の御陵があります。 (如意輪寺) 奈良県吉野郡吉野町にある浄土宗の寺院如意輪寺(にょいりんじ)。 901~22年の創建と伝えられています。 1336年には後醍醐天皇および南朝歴代天皇が、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建した寺・勅願寺とされました。 この本堂の後ろには、吉野の地で崩御した後醍醐天皇の陵があります。 こちらの階段を登ります。 こちらです。 (激動の人生・後醍醐天皇) 後醍醐天皇の人生を見ますとなかなか激動です。 まず天皇として即位したのが鎌倉時代後期の1318年。 1324年には鎌倉幕府転覆を企画した疑いがかけられます(正中の変) 1331年には、鎌倉幕府打倒の挙兵。失敗して隠岐に流されます。(元弘の乱) しかし、漁船のイカの下に隠れ、隠岐か

                後醍醐天皇陵 - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)
              • 鎌倉幕府滅亡から南北朝争乱へ - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

                14世紀の日本は混乱の時代である。鎌倉幕府が倒れ、天皇家は分裂し、足利(あしかが)氏でも内部抗争が起こる(観応の擾乱)。めまぐるしく状況が変わる。決着はなかなかつかない。ややこしくてグダグダな展開が続く。ここのところの歴史はわかりにくいのである。 南北朝争乱期のおおまかな流れをたどってみた。なお、年号は南朝のものと北朝のものを併記する。日付は旧暦にて記す。 天皇家分裂 倒幕失敗 倒幕挙兵、再び 鎌倉陥落、幕府滅亡 建武の新政 護良親王が失脚 中先代(なかせんだい)の乱 足利尊氏が建武政権に叛く 足利尊氏の九州大返し 建武政権の終焉、武家政権の樹立 もうひとつの朝廷 南朝、旗色悪し 足利直義の失脚 足利直冬の反乱 足利直義が南朝へ 足利兄弟の対立と正平一統 南朝の裏切りと北朝の復活 両朝の対立つづく 和議成立、朝廷が一本化 こちらは南九州の南北朝争乱について。おもに島津家の動きである。状況が

                  鎌倉幕府滅亡から南北朝争乱へ - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
                • 3つの幕府のうち、なぜ室町だけ京都なのか?【動画で語る日本史の疑問】

                  大学受験のとき、丸暗記ばかりで覚えるのがとても辛かった「世界史」。 その中で、いろいろと不自然なところに気が付き、気になったところを調べて紹介するのが、このブログです。 雑談のネタはもちろん、教養や受験勉強の一助になれば幸いです。 今回は、日本三大幕府のうち、なぜ室町幕府だけ関西に置かれたのか、についてです。 足利氏は、その名の通り栃木の足利に地盤を持つ武士ということもあり、関東に幕府を置くべきところ、京都にしたのはなぜなのか、調べてみました。 皆様の雑談の種、あるいは試験勉強のお供にでもしていただければ幸いです。 [YouTube] [ニコニコ動画] #日本史 #疑問 #室町幕府 #鎌倉幕府 #江戸幕府 #関東 #征夷大将軍 #平安時代 #蝦夷 #朝廷 #坂上田村麻呂 #東夷 #西戎 #北狄 #南蛮 #オランダ #西洋人 #南蛮人 #棟梁 #東国武士 #足利尊氏 #鎌倉公方 #後醍醐天皇

                    3つの幕府のうち、なぜ室町だけ京都なのか?【動画で語る日本史の疑問】
                  • 「鎌倉時代ってどんな時代?」「鎌倉時代はいつからいつまで?」「人物や流れは?」わかりやすく解説! - 元予備校講師の受験対策ブログ

                    「鎌倉時代ってどんな時代?」 「鎌倉時代がいつからいつまでか知りたい!」 「鎌倉時代の人物は?」 このページをご覧の皆さんはそのようにお考えかもしれません。 鎌倉時代は武士中心の時代でした。 源頼朝は関東の御家人たちをまとめあげ、鎌倉に武士の都を建設します。 そこからおよそ140年にわたる鎌倉時代が始まりました。 鎌倉時代は1185年、または1192年から1333年。 世紀でいうと12世紀末から14世紀前半にあたります。 世界的にはモンゴル帝国の拡大や中世ヨーロッパの騎士の時代でした。 また、鎌倉時代はそれ以前に比べ覚えるべき人物が増える時代でもあります。 政治や経済に限っても重要人物が大勢います。 流れを理解するには、彼らがどんな人物か知った方がよいでしょう。 鎌倉時代に興味がある方は、こちらの記事もどうぞ! kiboriguma.hatenadiary.jp 今回は鎌倉時代がどんな時代

                      「鎌倉時代ってどんな時代?」「鎌倉時代はいつからいつまで?」「人物や流れは?」わかりやすく解説! - 元予備校講師の受験対策ブログ
                    • 足利尊氏の書き残した書状 : この世は夢のごとくに候

                      5月29 足利尊氏の書き残した書状 カテゴリ:神宝・寺宝・美術品足利尊氏 室町幕府を開きその初代将軍となった足利尊氏という人物の人柄・評価・魅力などは、平成26年4月20日の記事、同年5月4日の記事、昨年10月12日の記事などで詳述しましたが、今回の記事では、その尊氏が直筆し今も残っている書状等の一部を、以下に紹介させて頂きます。 必ずしもそうとは言い切れないのでしょうが、大凡の傾向として、尊氏の直筆文書は、あまり豪快とは言えない線の細い文字が多い、という印象を受けます。 ▲ 足利高氏自筆 願文 1333年4月、尊氏は、鎌倉幕府の命令により、西国の討幕勢力を鎮圧するため幕府方の司令官として鎌倉を発して上洛しますが、自身の所領である丹波の篠村八幡宮に到着した際に、後醍醐天皇方に転じて討幕する意思を内外に明らかにしました。この文書は、その時に源氏再興を祈って尊氏が奉納した願文です。 ちなみに、

                        足利尊氏の書き残した書状 : この世は夢のごとくに候
                      • 太平記37

                        第三十七回「正成自刃」(9月15日放送) ◇脚本:仲倉重郎 ◇演出:佐藤幹夫 ◇アヴァン・タイトル◇ 湊川合戦の経過を振り返る前回のまとめ。足利軍35000に対する楠木軍1000余の死闘が6時間にも及ぶ。 ◎出 演◎ 真田広之(足利尊氏) 根津甚八(新田義貞) 陣内孝則(佐々木道誉) 高嶋政伸(足利直義) 石原良純(脇屋義助) 赤井英和(楠木正季) 藤木孝(坊門清忠) 森次晃嗣(細川顕氏) 瀬川哲也(恩智左近) 桜金造(和田五郎) でんでん(神宮寺正房) 井上倫宏(四条隆資) 辻輝猛(光厳上皇) 相原一夫(一条行房) 加藤盛大(楠木正行) 近藤大基(小太郎=義貞少年時代) 山崎満(洞院公賢) 菊池章友(草野秀永) 海野義貴(光明天皇=豊仁親王) 渡辺寛二(大高重成) 芹沢名人(細川頼春) 中島定則(三戸七郎) 山浦栄・村添豊徳・須藤芳雄・奥出博志(家臣) 藤真利子(久子) 大地康雄(一色右

                        • 足利尊氏とはどんな人物? どこで幕府を開いた? 家系・性格・肖像画・略歴まとめ【親子で歴史を学ぶ】 | Hugkum(はぐくむ)

                          足利尊氏とはどんな人物? どこで幕府を開いた? 家系・性格・肖像画・略歴まとめ【親子で歴史を学ぶ】 PR 鎌倉時代末期から室町時代前期の武将、足利尊氏。足利尊氏というと「室町幕府を作った人」というイメージがありますが、そのほかにはどんなことを成し、どんな生涯を送ったのでしょうか。この記事では、足利尊氏にスポットを当て、どんな人となりだったのか、どこで幕府を開いたのか、後醍醐天皇と争った南北朝時代をどう生き抜いたのかなどを解説していきます。さらに、足利尊氏にまつわる本のおすすめもご紹介します。 歴史に興味を持ち始めたお子さんといっしょに、パパ・ママも、もう一度おさらいしてみましょう。 足利尊氏とはどんな人?性格は? 足利尊氏は、鎌倉時代末期の1305年(嘉元3年)に生まれた武将です。まずは尊氏の家系と性格について、紹介していきましょう。 足利氏の家系 足利氏の家系は、平安時代の清和天皇の孫・

                            足利尊氏とはどんな人物? どこで幕府を開いた? 家系・性格・肖像画・略歴まとめ【親子で歴史を学ぶ】 | Hugkum(はぐくむ)
                          • 逃げ上手の若君 原作ネタバレ

                            北条時行9歳 足利尊氏に攻め入られ、父と親族ら数百人が自害or虐殺。一人だけ逃げ延び、信濃の諏訪氏に匿われる 10歳 北条の残党など5万騎を従えて鎌倉に帰還、「中先代の乱」によって足利直義に勝利し鎌倉奪還。 わずか20日で足利尊氏に鎌倉を奪われる。 その際に時行を擁護していた諏訪頼重らが自害、集団心中した遺体らは「先祖に顔向けできない」として自ら顔の皮を剝いでおり、その中の死体の一つが時行とされたが、実際には別の子供だった。 11歳 足利尊氏と後醍醐天皇が決裂、尊氏が光明天皇を立て、南北朝時代へ。 時行は南朝後醍醐天皇につき、父や親族らが後醍醐天皇のもとで死んだ件について父の自業自得であるとの文書を送る。 12歳 南朝公卿の北畠顕家を味方にし、再び鎌倉に帰還、「杉本城の戦い」によって足利家長を討ち鎌倉奪還。 翌月の「般若坂の戦い」で形勢逆転し敗走。 数か月後の「石津の戦い」で北畠顕家が死亡

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                            • 南北朝時代をわかりやすく解説!天皇家の祖先についても考える

                              2019年4月30日に、私が皇室の中で一番親しみ深い天皇が生前退位され、上皇となられました。日本の皇室(天皇家)は「世界最長の歴史を誇る王室」と言われ、明治時代に作られた「大日本国憲法」では第一条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と書かれていました。しかし、過去の歴史を振り返ると不可解な「南北朝時代」というものがあります。 前に私の素朴な疑問であった「皇居や京都が空襲を免れた理由」の記事を書きましたが、今回は、この不可解な南北朝時代や天皇の祖先について考えてみたいと思います。 1.南北朝時代とは何か 足利尊氏が京都で光明天皇(北朝)を擁立したのに対し、吉野で後醍醐天皇(南朝)が新たな朝廷を開いた延元元年(1336年)から、北朝第六代・後小松天皇に対して南朝第四代・後亀山天皇が譲位して両朝が合一した元中9年(1392年)までの56年間が「南北朝時代」です。その間、南朝と北朝との間でた

                              • 建武の乱 - Wikipedia

                                建武の乱(けんむのらん)は、建武政権期(広義の南北朝時代)、建武2年11月19日(1336年1月2日)から延元元年/建武3年10月10日(1336年11月13日)にかけて、後醍醐天皇の建武政権と足利尊氏ら足利氏との間で行われた一連の戦いの総称。延元の乱(えんげんのらん)とも。広義には、中先代の乱など建武政権期に発生した他の騒乱も含まれる。足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立した。一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し(南朝)、幕府が擁立した北朝との間で南北朝の内乱が開始した。 経緯[編集] 前史[編集] 後醍醐天皇は大覚寺統と持明院統、更に自己の系統と実兄後二条天皇の系統(後の木寺宮・花町宮)との決着をつけるべく、倒幕運動を起こし、一度は事敗れて隠岐島に流されたものの、楠木正成や新田義貞、そして足利高氏(後の尊氏)の活躍で、元弘3年(1333年)遂に鎌倉幕

                                • 南北朝(日本)とは (ナンボクチョウとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

                                  南北朝(日本)単語 10件 ナンボクチョウ 8.7千文字の記事 15 0pt ほめる 掲示板へ 記事編集 概要その他関連商品関連項目掲示板 日本の歴史 建武の新政 (1333 - 1336) ← 南北朝時代 (1336 - 1392) → 室町時代 (1338 - 1573) 南北朝とは、日本の時代区分の一つである。 概要 この時代は教科書ですら大幅な簡略化で説明している時代であるため本記事もごく簡単な説明で終える。 足利尊氏が擁立する京都の光明天皇(北朝)と吉野の後醍醐天皇(南朝)が並び立った時(一天両帝南北京。1336年)が南北朝の始まり、明徳の和約による南北朝合一(1392年)が終わりである。 しかし南北朝に至るまでには後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕が密接にかかわっており、一連の政治情勢を説明するために後醍醐天皇が引き起こした元弘の乱(1331年)を南北朝に含むことも多い。 本項もこれに倣

                                    南北朝(日本)とは (ナンボクチョウとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
                                  • 後醍醐天皇とは (ゴダイゴテンノウとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

                                    後醍醐天皇単語 57件 ゴダイゴテンノウ 2.8千文字の記事 11 0pt ほめる 掲示板へ 記事編集 概要関連動画関連項目掲示板後醍醐天皇とは日本の第96代天皇である。 鎌倉幕府が滅んでから室町幕府が成立する前の時期に一時的に天皇親政を成し遂げ、また南北朝分裂時代の引き金を引いた天皇としても知られる。 概要 1288年に後宇多天皇の第2皇子として誕生。 当時の朝廷では後深草天皇系の持明院統と亀山天皇系の大覚寺統で派閥争いが生じており、鎌倉幕府の介入でお互いの天皇が交互に即位する「両統迭立」が取られていた。 大覚寺統の後醍醐天皇はこの両統迭立に嫌気が刺した上、承久の乱以来、朝廷にも盛んに口出しする幕府にも強く不信を抱き、天皇を中心とした平安時代の体制を時勢も顧みず取り戻したいと考えるに至る。 1324年に倒幕計画を立てるが、幕府の監査機関である六波羅探題に知られ失敗(正中の変)。 1331

                                      後醍醐天皇とは (ゴダイゴテンノウとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
                                    • 足利尊氏、征夷大将軍となる 1338年 - 500字日本史

                                      2021年12月18日2023年4月30日 1338年、足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が名実ともに成立した。 足利尊氏 Wikipediaより 翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御すると、尊氏は後醍醐天皇の菩提を弔うため、当時帰依していた禅僧夢窓疎石の勧めに従って、京都嵐山に天龍寺の造営を開始した。尊氏と後醍醐天皇は不倶戴天の敵となったが、尊氏個人は、後醍醐天皇に対して終生尊崇の念を抱いていたといわれる。 なお、天竜寺の造営費を賄うため、元へ天龍寺船が派遣されている。 さらに諸国に安国寺と利生塔の建立を命じた。これは元弘以来の争乱による戦死者の冥福を祈るため、全国の国ごとに寺院1宇と塔婆1基を建立するよう定めたものである。 幕府の組織は、執権の代わりに管領(この頃は執事)を置いたほか、鎌倉幕府の仕組みを基本的に受け継ぎ、中央に評定衆・引付方・侍所・政所・問注所を置いた。地

                                        足利尊氏、征夷大将軍となる 1338年 - 500字日本史
                                      • 楠木正行 足利尊氏 - Google 検索

                                        ... 楠木正成公の3人の息子(正行、正 ... 楠三兄弟物語(正行、正時、正儀) ... 少ない兵の中から、出陣より多い護衛の兵をつけて 息子; 京都を制圧した足利尊氏は 光明天皇を立て ...

                                        • 南北朝時代をわかりやすく解説!タブーとされる理由や歴代天皇についても

                                          勢力図 (出典:コトバンク 南北朝時代) (出典:コトバンク 南北朝時代) 天皇系図 (出典:小・中学生のための学習教材の部屋 知識の泉 南朝と北朝について) 次の章では、南北朝時代の有名な武将たちについてご紹介します! 武将 足利尊氏 代表的な武将たちをご紹介していきます。 まずは室町幕府の初代将軍となった足利尊氏です。 彼は当初後醍醐天皇に従って鎌倉幕府の滅亡に大きく貢献しました。 彼はもともとは「足利高氏」だったのですが、この勲功が評価されて、後醍醐天皇の諱(本名)である尊治から一字をもらって「尊氏」となったのです。 しかし、後醍醐天皇の建武の新政には反対し、結果的に光明天皇を擁立して後醍醐天皇と対立してしまいます。 彼は弟の直義とともに室町幕府を動かしていましたが、両者はその後対立して「観応の擾乱」という幕府内の内紛が起こります。 実はこの時、尊氏は直義派に対抗するため一時南朝に降

                                            南北朝時代をわかりやすく解説!タブーとされる理由や歴代天皇についても
                                          • 「『太平記』と『難太平記』」のブログ記事一覧-学問空間

                                            投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月25日(水)18時46分28秒 昨日の投稿では桃崎有一郎氏『室町の覇者足利義満』の記述について、「桃崎氏はいったい何を根拠にこんなことを言っているのだろう、と不思議に感じた次第です」などと息巻いてしまいましたが、これは『大日本史料』ですね。 私の場合、『大日本史料』は某大学図書館で閲覧できるのですが、コロナの関係でちょっと行きづらくなってしまっていて、代わりに何かないかなと考えて、『続史愚抄』を見て昨日の投稿となりました。 ただ、結果的には『大日本史料』を見ないまま色々考えたことが良かったようです。 というのは、『大日本史料』の記述にも少し問題がありそうだからです。 まず、『大日本史料 第六編之二』の建武二年八月一日条を見ると、 ------- 一日、<庚戌>成良親王ヲ征夷大将軍ト為ス、 〔相顕抄<前田侯爵家本>〕<鎌倉将軍次第> 成良親王<自元

                                              「『太平記』と『難太平記』」のブログ記事一覧-学問空間
                                            • 南北朝のはじまりと足利尊氏の大立回り 楽しい日本史 -武士による支配- 16. - オハナミライフ

                                              皇位継承の争い 13世紀後半、朝廷は大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)の二派にわかれ、皇位継承をめぐる争いをした。鎌倉幕府はこれに介入し、両派から交代で天皇を出す方法を提案した。 後醍醐天皇の挙兵 幕府の皇位継承介入を不快に思った後醍醐天皇は、即位後、政権を幕府から朝廷に取り戻すため、倒幕を決意し、挙兵するが、失敗。隠岐に流される。 護良親王の救出 皇子の護良親王や悪党の楠木正成らが畿内の悪党をまとめ、反幕府の動きを活発化させ、後醍醐天皇を助けようと一致団結する。 反幕府勢力討伐の命令 足利尊氏 対する鎌倉幕府は御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏)を京都に派遣、反幕府勢力の討伐を命令する。しかし、14代執権・北条高時の政治に不満のあった高氏は幕府を裏切り、逆に幕府の出先機関である六波羅探題を攻め落とす。 鎌倉幕府の滅亡 新田義貞 同じころ、関東の有力御家人・新田義貞も後醍醐天皇につくことを決

                                                南北朝のはじまりと足利尊氏の大立回り 楽しい日本史 -武士による支配- 16. - オハナミライフ
                                              • 建武の新政に失敗した後醍醐天皇が吉野に逃れたあと、足利尊氏が北朝で即位させた天皇は? 北方謙三「道誉なり」を読む - 還暦記:暖淡堂

                                                歴史に関心があって、色々と歴史書などを読んでいても、鎌倉幕府体制の終了から建武の新政、南北朝にかけての時代はわかりにくいですよね。後醍醐天皇は南朝なのは知っていても、その時の北朝側で即位していた天皇は誰だったのでしょう。 建武の新政に失敗した後醍醐天皇が吉野に逃れたあと、 足利尊氏が北朝で擁立した天皇は? 北方謙三「道誉なり」を読む 前南北朝時代 後醍醐天皇と足利尊氏 北朝の成立 北方謙三「道誉なり」で描かれる時代 前南北朝時代 鎌倉時代後期、天皇家は持明院統と大覚寺統の二派に分かれて、交互に天皇に即位していました。幕府はこの皇位継承に直接干渉し、皇室側も幕府に頼って自らの立場を維持しようとしていました。鎌倉幕府を倒し、政治の実権を取り戻して建武の新政を実現した後醍醐天皇は大覚寺統で、持明院統の花園天皇の次に即位しました。 後醍醐天皇と足利尊氏 後醍醐天皇は親政を行い、発言力を強めました。

                                                  建武の新政に失敗した後醍醐天皇が吉野に逃れたあと、足利尊氏が北朝で即位させた天皇は? 北方謙三「道誉なり」を読む - 還暦記:暖淡堂
                                                • 天皇家のルーツとは。日本人と天皇の歴史を探る | 家系図作成の家樹-Kaju-

                                                  天皇家は世界最古、最長の王朝 現在では「日本国民の象徴」(憲法)とされている天皇ですが、元々、天皇とは日本の王様でした。さらに世界との比較でいうと、天皇家は現在では世界最古の王家であり、王朝としての歴史も世界最長で、さらに古代天皇のお墓は、世界最大級です。 日本の天皇家と世界を比較すると… このように3つの世界一があり、天皇家は世界で類を見ない長い歴史を持っていることになります。そして今現在でもその歴史は続いています。 天皇家は初代の神武天皇が紀元前660年に即位されてから令和の今上陛下で126代目。古事記・日本書紀(記紀)などによれば2600年以上の歴史があるとされています。紀元前660年という年代自体は学問的には肯定できるものではありませんが、実在が確かな天皇から数えても世界最古、最長の王朝といえます。6世紀前半に実在し、血筋としても連続性があることは確かとされる第26代継体天皇から数

                                                    天皇家のルーツとは。日本人と天皇の歴史を探る | 家系図作成の家樹-Kaju-
                                                  • 8月11日 足利尊氏が征夷大将軍になる - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

                                                    8月11日は、1338年に足利尊氏が、征夷大将軍となった日です。 この足利尊氏は、調べてみると裏切ったり裏切られたりの人生です。 弟や自分の息子と対立し、さらに南朝も絡んで来てなんとも複雑です。 それでは足利尊氏の人生を見てみましょう。 ①鎌倉幕府の有力御家人 足利尊氏は、源氏の流れをくむ正当な血筋でかつ鎌倉幕府の御家人でした。 足利尊氏の名前は、もともと「高氏」で鎌倉幕府の第14代執権・北条高時から 一字もらったものです。 ② 鎌倉幕府を裏切る 1333年、足利高氏は、鎌倉幕府の命令で吉野の山に立てこもった護良親王の討伐に向かいますが、途中で反旗を翻し、幕府の京都機関の六波羅探題を攻め滅ぼします。 ③後醍醐天皇から「尊」の字をもらい「尊氏」と改名 鎌倉幕府を倒した中心人物の1人として足利高氏は後醍醐天皇から「尊」の1字をもらい足利尊氏となります。 ④後醍醐天皇と決別 しかし、この後醍醐天

                                                      8月11日 足利尊氏が征夷大将軍になる - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)
                                                    • 南九州の南北朝争乱【まとめ】 1331年~1397年を一気にたどる - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

                                                      14世紀の日本は、まさに乱世である。京では足利尊氏(あしかがたかうじ)が樹立した武家政権(室町幕府、北朝)と、吉野に逃れた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の政府(南朝)が並び立つ。北朝と南朝の争いはなかなか決着がつかず、日本中が振り回される。 【関連記事】鎌倉幕府滅亡から南北朝争乱へ 九州の有力者たちも北朝方と南朝方にわかれて激しく争った。南北朝争乱期の南九州の状況を、島津(しまづ)氏の動きを中心に追っていく。元号は北朝・南朝のものを併記。日付は旧暦で記す。 鎌倉時代末期までの島津氏 朝廷は弱体化、おまけに分裂 後醍醐天皇の倒幕挙兵 挙兵再び 幕府滅亡 建武の新政はじまる、そして崩壊 足利尊氏の反乱(建武の乱) 九州大返し 足利氏の政権と、吉野の朝廷と 南九州でも南朝方が蜂起 足利尊氏が幕府を開く 後醍醐天皇が崩御、後村上天皇が遺志をつぐ 懐良親王が薩摩入り 観応の擾乱 九州では三つ巴の戦い

                                                        南九州の南北朝争乱【まとめ】 1331年~1397年を一気にたどる - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
                                                      • [地域][歴史]  太平記の世界 (1)−2 ”足利尊氏と東京浅草” - 旧聞アトランダム

                                                        足利尊氏と云えば太平記の世界ですが、もし東京浅草の要害が無ければ征夷大将軍足利尊氏は新田氏に討たれたか、自害していたかも。東京浅草に中世の武将足利尊氏の生死を分けた古戦場が存在したとは!歴史のロマンを感じます。 隅田川浅草今戸と待乳山 なにせ絵巻物語のような”太平記”の話ですから、詳細は”講談師見てきたような嘘をいい”の例えも在るでしょうが、大要は云われているところの歴史と同じなのかも知れません。 ものには順序があります。…南北朝時代の太平記の根幹から。 …武士階級の勃興により最早形骸化していた朝廷ですが、それでも寛元4年(1246)僅かに残る政治利権の相続に係わり大覚寺統と持明院統の二派に分裂して骨肉の争いになります。 見兼ねた鎌倉幕府が調停して両統が交互に十年毎に天皇になる取り決めが成立しましたが。…元弘三年(南朝側元号)(1333)に至り、大きな野望を胸に大覚寺統の後醍醐天皇が即位す

                                                          [地域][歴史]  太平記の世界 (1)−2 ”足利尊氏と東京浅草” - 旧聞アトランダム
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