今日の授業、太平記で楠木正成が作戦を却下され死を覚悟して湊川へ向かう場面扱ったんだが、誰ひとり正成に共感できず無反応で、一瞬zoomフリーズしたのかと思った。 感想見ると「無茶な命令されたら断るべきだと思う」とあって、そうか朝廷ブラック企業だと思われたのかと腑に落ちた。
ズラリと並んだUマチックテープ!あわせて41本。 すべて背表紙には1975年放送の大河ドラマ『元禄太平記』のタイトルが書かれています!大河ドラマは第1作『花の生涯』(1963年)から『花神』(1977年)までは残っていないものがほとんどで『元禄太平記』がもし見つかれば大・大発掘です! 提供してくださったのは、この方… 歌手の三善英史(みよし えいじ)さんです!1972年に「雨」でデビュー、 誰もが口ずさむ大ヒット曲となりました。その三善さんが『元禄太平記』をはじめ昔のNHKの番組を録画したテープをお持ちだという情報を入手。各地でのコンサートにお忙しい中、12月はじめにご自宅にお邪魔いたしました。ご協力、本当にありがとうございました! ご自宅の部屋の一角の本棚に、積み上げられたビデオテープが…! 背表紙に『元禄太平記』と書かれた大量のテープ!プロジェクトのスタッフは大興奮! 『元禄太平記』は
はじめに 大阪市内から生駒の大鳥に見えるあたり。山麓の東大阪市上四条町一帯には、楠木正成(大楠公)の息子、#楠木正行(まさつら #小楠公)のこん跡がいくつか残されています #太平記 目次 イノシシのワナ 廃神社 奥の基壇に楠木正行公碑 楠木正行公 3つ目の『点』 アラハバキ解 第48章公開 赤い矢と出雲後物部(いずものちもののべ) 本文 大鳥あたり、上四条町の道標 イノシシのワナ 生駒の大鳥の頭あたりは東大阪市上四条町一帯で、本シリーズ初回で紹介した道しるべのところまで行き『奥の院』と書かれた方に進みます。 途中、脇道もあり、ひとつひとつ入ってアヤシゲなものはないか(笑)探し歩きます。 www.zero-position.com そのひとつ。おぉ~!ワナって始めて見た!と興味シンシンで周りをウロウロ。しかしそのうち、あることに気づきましす。 ココにコレがあるということは、、、汗、、、周りの
こんにちは、暖淡堂です。 池波正太郎さんの「真田太平記(十)大坂入城」、面白いです。 真田幸村が、わずかな家臣たちとともに九度山を密かに抜け出して大坂城に入ります。 そこには豊臣方につく武将や浪人たちがたくさん集まっていますが、中心となるべき有力な大将がいません。 幸村は真田家の兵術の真価を世に問うべく、自らに従う兵達のみを率い、大坂城の南に出城「真田丸」を築き、迫りくる家康軍を待ちます。 やがて大坂冬の陣。 緒戦を智謀で勝ち抜く幸村の名は、天下に轟くことになります。 未読の方、オススメです、ぜひどうぞ。 (シリーズ全巻も) 真田太平記(十)大坂入城(新潮文庫) 作者:池波正太郎 新潮社 Amazon 「真田太平記(十)大坂入城」 池波正太郎 真田丸とは dantandho ランキング参加中雑談・日記を書きたい人のグループ ランキング参加中読書
「麒麟がくる」主演の長谷川博己も信頼する池端俊策氏は「太平記」の脚本も書いている(C)朝日新聞社 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が6月7日の放送を最後に、いったん休止される。コロナ禍による収録のストック切れが原因だから、やむをえないとはいえ残念だ。 【写真】「麒麟がくる」注目の新キャストがこちら ただ、不幸中の幸いはテイストの似た旧作が日曜朝のアーカイブ枠(NHKBSプレミアム)で再放送中であること。1991年に同じ池端俊策の脚本で制作された「太平記」だ。 「麒麟」の舞台が室町時代の末期なのに対し「太平記」はその始まりを描く。今回、29年ぶりに大河を手がけるにあたり、池端はこう語っていた。 「以前に(室町幕府初代将軍の)足利尊氏を主人公にした『太平記』を書いたので、室町幕府の終わりを描いてみたいとかねがね思っていました。室町幕府最後の将軍、足利義昭と関係性が深いのが織田信長で、そこから明智
徳川軍の攻撃を凌ぎ切った豊臣方は、徳川家康と和議を結ぶ。 しかしそれは、徳川方の謀略の一段階に過ぎなかった。 豊臣方中枢部の動きに幻滅しながらも、真田幸村は自らの生き方を貫こうとする。 兄、真田信之との対面も、幸村の意志を変えることはできなかった。 大坂城の外堀を埋めきった徳川家康は、最後の仕上げにかかる。 大坂夏の陣が始まる。 真田幸村は、自らに従う兵達とともに奮戦し、一度は家康を敗走させる。 しかし、最後には兵力の差が幸村軍の勢いを止めてしまう。 味方の兵達とはぐれた幸村は、愛馬月影とともに、静かに田の中に倒れる。 幸村は、最後まで、自らの戦いを戦い切った。 真田太平記(十一)大坂夏の陣(新潮文庫) 作者:池波正太郎 新潮社 Amazon ***** この後、真田家の存亡をかけた最後の戦いが始まります。 真田太平記(十一)大坂夏の陣 池波正太郎 真田幸村、愛馬月影とともに dantan
新平家物語を読み終えた背の君👨💼 今度は「太平記」を読んでおります📗 少納言👩がせっせとブログ巡りをしたり書いたりしておりますと、 突然、 👨💼後醍醐天皇ごだいごてんのうの夢に楠木正成くすのきまさしげが出てきたんよねー🌳と聞かれる😅 こないだまでは、清盛がどーとか、以仁王がどうこうと聞かれたが、 またかー💦 👩そうそう、木の下の南向きに座れ いうたから、木に南と書いて楠っていう名前の人が臣下になって支えてくれまっせというお告げがどーとかだったよ🌳 「太平記💠」 中学の時に読んで、鎌倉幕府の弱体化、倒幕の動き、 楠木正成様など悪党の台頭、千早城の戦い、鎌倉幕府滅亡‥‥ ページをめくるのもまどろっかしく思いながら読み進めたものですわ📚 ⬇︎お勧めリンクです🌟 www.yoritomo-japan.com 何が正義で何が悪か、しっちゃかめっちゃか💦 間違いないこ
リンク Wikipedia 太平記 (NHK大河ドラマ) 『太平記』(たいへいき)は、NHKで1991年に放送された第29作目の大河ドラマである。放送期間は1991年1月6日 - 12月8日で、全49回。 鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱期を、室町幕府初代将軍・足利尊氏を主人公に描いた物語。原作は1950年代末から執筆された、吉川英治晩年の作品である『私本太平記』。吉川作品の大河ドラマ化は、1965年(昭和40年)の『太閤記』、1972年(昭和47年)の『新・平家物語』以来で、通算3度目となる。主役の真田広之は、1987年(昭和62年)の『独眼竜政宗』以来4年ぶ 6 users 57 ・踊り念仏を助けに入り斬り合い、高氏まだ若造な筈なのに殺陣がすごい ・馬を走らせながら普通に会話しちゃう乗馬スキル ・速足自慢の旅芸人・ましらの石(演・柳葉敏郎)に煽られ流れるような動作で弓を射る
*1985年にNHKで放映された真田太平記。真田幸村を草刈正雄、実直な兄信幸を渡瀬恒彦、そして「表裏比興の者」昌幸を丹波哲郎が演じました。抜群の安定感!(NHKアーカイブス) 【あらすじ】 徳川秀忠勢は天下が目の前にあり戦意も旺盛、小城の上田城など鎧袖一触の気持ちで攻め込む。そこをあしらい「足止め作戦」によって、関ヶ原での西軍の勝利を期待する真田昌幸と信繁の親子。この作戦は成功し、結局秀忠は天下分け目の一戦には間に合わず家康から怒りを買い、終生秀忠のトラウマとなった。 関ヶ原の戦場では、忍びたちも命を楯にして家康の首を狙うが、分厚い守備陣を打ち破ることはできず犠牲ばかりが増えていく。そして昌幸、幸村(信繁から表記変更)親子の尽力も虚しく、西軍は敗北を喫する。昌幸と幸村は秀忠にとって憎さ百倍の相手で死罪は必至と思われたが、信幸の岳父で家康四天王の1人、本多忠勝の「脅し」とも思える懸命の助命嘆
真田太平記(一)天魔の夏(新潮文庫)【電子書籍】[ 池波正太郎 ] 価格: 781 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 真田の忍び(草)であるお江は、織田家との戦いで重傷を負った向井佐平次を真田領内に連れていく。湯治場で真田信繁(のちの幸村)と偶然出会った佐平次は、「わぬしとは共に死ぬるような気がする」と言われたことに感じ入り、信繁の家臣となる。信繁は佐平次に自分の出生の秘密を打ち明けるが、同じく出生の秘密を抱える信繁の従兄弟の樋口角兵衛は、自分で整理できずに乱暴狼藉が収まらす出奔し、のちのちまで真田家を混乱の渦に巻き込まれていく。 信繁の父昌幸は、若い頃武田信玄の近習として仕え、信玄流の戦術眼を身につけた男。武田家を滅ぼした織田信長が本能寺の変で倒れた後、真田家の領地上田には徳川家、北条家、そして上杉家の勢力圏に囲まれ、微妙な舵取りが迫られていた。昌幸は上田に城を築き、上田を守り抜こうと決
お題「#おうち時間」 こんばんは。 コツメの母さん。です。 www.nhk.or.jp 大河ドラマ 麒麟がくる を毎週楽しみにしているのですが、父さんは日曜日の朝6時から再放送されている大河ドラマ「太平記」も録画しています。 www.nhk.jp 私はみないよ〜といいながら父さんの横で 結局観てしまっています!面白くて! 主人公は真田広之演じる足利尊氏です。 それで北条高時役の鶴太郎がもう、本当に上手。面白くてわくわくします。 脚本は池端俊策さんで、今年の大河ドラマ「麒麟がくる」も池端さんです。 コツメの母さん、子どもの頃は日本史が大好きでした。 きっかけは家のすぐ隣に古墳があり、庭から土器の破片がよくでてきたことなんです。 大きめの欠片が土からのぞいていたこともあり、それを拾うと父が 「縄目のあとがついてるだろう。これは縄文式土器っていうんだよ。」 と教えてくれました。 それが私の日本史
遠いむかし。地方の民が、 大蔵省へ馬で貢税《みつぎ》を運び入れながら 唄った国々の歌が 催馬楽《さいばら》となったといわれるが、 田楽ももとは農土行事の田植え囃子《ばやし》だった。 それがやがて、都人士《とじんし》の宴席に興じられ、 ついには近ごろの如く、 本座、新座などの職業役者をも生むような流行にまでなって来たものだとか。 「……東《あづま》より……昨日来たれば……妻《め》も持たず」 興にそそられた高氏が、 ふと、膝がしらを鼓として、指と小声で、踊りの曲を真似てると、 となりの遊女も、その流し眼に媚びを凝らして、おなじ節で。 「……着たる紺の……狩襖《かりあを》は要《い》らじ ……聟《むこ》とせむ、聟とせむ」 「ほほほほ。小殿も決しておきらいではございませんのね」 「酒か」 「いいえ、田楽」 「酔うにつれて、いつか舞台も面白う見えてきた。 先頃、七条河原の掛小屋で見たのもこの花夜叉の新
蝦夷太平記 十三の海鳴り【電子書籍】[ 安部龍太郎 ] 価格: 1166 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 鎌倉時代末期の奥州(青森)。津軽太守安藤(東)文太郎季長の三男、安藤新九郎季兼は19歳。身長は190Cmを越える巨漢で、大太刀を振るう怪力の持ち主。三男で側室の子のため本家とは離れた場所で育っていたが、父季長から呼び戻されて出羽で起こった反乱を鎮圧せよと命じられる。蝦夷管領としての季長の政策に不満をもつ者たちが、渡党(アイヌ)と組んで反乱を起こし、新九郎の兄で季長の次男にあたる季治が殺されたという。だが、普段渡党と親しくしている新九郎は信じられなかった。調べると、反乱の首謀者が一門の有力者、安藤五郎季久であることがわかる。 当時は北条得宗家が全国の海運を支配することで莫大な利益をあげていた。その要となるのが日本海と太平洋の海運をつなぐ津軽海峡であり、この地域を支配する安藤(東)家だっ
*Amazonより 【あらすじ】 容貌魁偉、髭面の大男の大浦為信。父が戦で亡くなり、叔父の当主為則に可愛がられて、そして文武で卓越した能力を見込まれて次代当主に抜擢される。そんな中、津軽の地に立ち寄った雲水から世の中の動きを教えられて興味を持ち、軍師に招こうと「三顧の礼」で迎え、雲水は面松斎と名を変え「鷹」に対する「鷹匠」の気持ちで為信に仕えることを決意する。 それからの為信は、ただ戦うだけでなく「準備」を周到に巡らすようになる。南部家からの厳しい合力米の要求に対しては、村に火事を起こすことで拒否する一方で、村民には迷惑がかからないように、事前の準備と事後の手当は怠らない。軍事行動を起こすことで実戦の訓練のみならず、周辺の豪族の動向の見極め、兵力の動員能力や指揮官の能力を確認するとともに、南部家が攻め込む口実を作ろうとした。また背後の秋田氏を抑えるために、山形の最上義光を味方に引き入れる「
「この道誉とて、鎌倉の恩寵をうけた一人、 なにも世変《せいへん》を好むものではないが、 かなしいかな、天運循環の時いたるか、 北条殿の世もはや末かと見すかさるる。 高時公御一代と申しあげたいが、ここ数年も、こころもとない」 道誉の眸は、高氏の眸をとらえて、離さない。 横にはまた、息をつめて、 彼の顔いろを見すましている土岐左近の毛あなから立ちのぼる殺気があった。 あわてまい、身じろぎも危険である。 と考えてか、高氏は乾きを覚えた唇もしめさずに凝《じ》っといた。 すると、道誉の頬の黒子《ほくろ》がニヤと笑ったと思うと、 高氏の眸から、眸を外した。 「はははは、ご迷惑かな。かかる心をゆるしたおはなしは」 「いや、ご斟酌《しんしゃく》なく」 「かもうまいか」 「おたがい地方の守護たる身。など無関心には」 「さもこそ。お互いは若い」 手繰《たぐ》り込むような語気と、 その体がもっているといえる妙な
ところで“名のり”を高氏と称する当の人物というのは、 その江北京極家の当主であった。 つまりこの地方の守護大名、 佐々木佐渡ノ判官《ほうがん》高氏殿こそがその人なので……と、 土岐左近は、 一応の紹介の辞でもすましたような、したり顔で 「足利家も源氏の御嫡流、佐々木殿も頼朝公以来の名族。 申さばおなじ流れのお裔《すえ》、 ここでお会いなされる御縁が、自然待っていたものとぞんずる」 舌にまかせてここまで述べた。 しかし自分の小細工を疑われてもと、考えたらしく。 「じつは最前、あなた様を佐々木殿と見違えたのは、 供の列を先にやって、野路の茶店で憩《いこ》うておるうち、 ふと、当の殿を見失うたので、 慌てて後より追っかけたための粗忽《そこつ》でおざった。 くれぐれ、無礼はおゆるしを」 そんなことはどうでもいいように、 又太郎は彼方の群れをチラと見やって。 「会う会わぬは、わしの所存でない。佐々木
「あれを見い、右馬介」 「おあとに、何か」 「いや、覚一の姿が、まだわしたちを見送っておる」 「はて。見えもせぬ眼で」 「そうでない。見える眼も同じだ。 わしたちを振向かせているではないか」 ——この日、都を離れた主従は、 当然、数日後には、 東海道なり東山道の人となっているべきはずなのに、 やがて正月十日の頃、二人の姿は、 方角もまるで逆な難波《なにわ》ノ津(大阪)のはずれに見出された。 渡辺党の発祥地《はっしょうち》、 渡辺橋のほとりから、昼うららな下を、 長柄《ながら》の浜の船着きの方へ行く二人づれがそれで。 「若殿、どうしても、思い止まりはできませぬか」 「まだいうのか」 「でも、今日の便船にお乗りになってしもうては」 「そのため幾日も船宿で日を暮して来たのに、 この期《ご》となって」 「——が、難波の諸所も、はからず見ましたこと。 このたびは、ぜひこの辺でお引っ返し願いまする。
——ははあ。 かかる態の人物の生き方やら嗜好をさしていうものか。 又太郎はふと思いついた。 ちかごろ“婆娑羅《ばさら》”という流行語をしきりに聞く。 おそらくは、 田楽役者の軽口などから流行《はや》り出したものであろうが、 「ばさらな装い」とか。「ばさらなる致しかた」とか。 または 「——ばさらに遊ぼう」「ばさらに舞え」 「世の中ばさらに送らいでは」などと、 その語意、その場合も、さまざまにつかいわけられている。 むかし山門の法師間には “六方者《ろっぽうもの》”という語があったが、 婆娑羅の意味は、それに近くてもっと広い。 ——花奢《かしゃ》、狼藉《ろうぜき》、風流、 放縦、大言、大酒、すべての伊達《だて》をさしてもいうし、 軌道を外れた行為や、とりすました者への反逆や、 そうした世のしきたりに斟酌《しんしゃく》しない 露悪的な振舞いをも、ひッくるめて、 ——婆娑羅に生きる人。 といった
🙇動画のオープニングは私本太平記24が正しいです🙇 「……さ。いま伺えば、 その若公卿が召連れていた侍童の名は、菊王とか」 「たしか菊王と呼んだと思う」 「ならばそれも、天皇に近う仕えまつる近習の御一名、 前《さき》の大内記、日野蔵人俊基朝臣 《ひのくろうどとしもとあそん》に相違ございますまい」 「どうしてわかる」 「菊王は、後宇多の院の侍者、寿王冠者の弟とやら。 ——そして、とくより日野殿の内に 小舎人《こどねり》として飼われおる者とは、 かねがね聞き及ぶところにござりまする」 「そうか。そう分って、 何やら胸のつかえが下がった気がする。 みかど後醍醐のおそばには、なおまだ、 ああした公卿振りの朝臣《あそん》があまたおるのか」 「は。世上、つたえるだけでも、 蔵人殿のほか、日野参議|資朝《すけとも》、 四条|隆資《たかすけ》、花山院師賢《かざんいんもろかた》、 烏丸成輔《からすまなり
「ああ、よいここちだった。 右馬介、よほど長く眠ったのか、わしは」 又太郎は伸びをした。 その手が、ついでに、曲がっていた烏帽子を直した。 やっと現《うつつ》に返った眼でもある。 その眼もとには、人をひき込まずにいない何かがあった。 魔魅《まみ》の眸にもみえるし、 慈悲心の深い人ならではの物にもみえる。 どっちとも、ふと判別のつきかねる理由は、 ほかの部分の、 いかつい容貌《かおだち》のせいかもしれない。 骨太なわりには、痩肉《そうにく》の方である。 顎《あぎと》のつよい線や、 長すぎるほど長い眉毛だの、大きな鼻梁《びりょう》が、 どこか暢《のん》びり間のびしているところなど、 これは西の顔でもなし、京顔でもない。 坂東者《ばんどうもの》に多い特有な骨柄《こつがら》なのだ。 それに、幼いときの疱瘡《ほうそう》のあとが、 浅黒い地肌に妙な白ッぽさを沈めており、 これも女子には好かれそうもない
明けて、ことしは元亨《げんこう》二年だった。 ただしく過去をかぞえれば、武家幕府の創始者、 頼朝の没後から百二十二年目にあたる初春《はる》である。 又太郎は一室で、清楚な狩衣《かりぎぬ》に着かえ、 烏帽子も新しくして、若水を汲むべく、 庭の井筒《いづつ》へ降り立っていた。 彼の伯父なる人とは、六波羅評定衆の一員、 上杉|兵庫頭《ひょうごのかみ》憲房《のりふさ》である。 ここはその邸内だったのはいうまでもない。 「アア都は早いな」 井筒のつるべへ手をかけながら、 又太郎はゆうべの酔の気《け》もない面《おもて》を、 梅の梢《こずえ》に仰向けた。 「——国元のわが家の梅は、まだ雪深い中だろうに。 ……右馬介、ここのはもうチラホラ咲いているの」 「お国元のご両親にも、今朝は旅のお子のために、 朝日へ向って、ご祈念でございましょうず」 又太郎に、返辞はなかった。 彼も若水の第一をささげて、 まず東方
「——いま汝らの怨《えん》じた上の者とは、 みな武家であろうがの。 よいか、守護、地頭、その余の役人、 武家ならざるはない今の天下ぞ。 ——その上にもいて、 賄賂取りの大曲者《おおくせもの》はそも誰と思うか。 聞けよ皆の者」 彼の演舌は、若雑輩のみが目標ではなさそうな眸だった。 「それなん鎌倉の執権高時の内管領、 長崎 円喜《えんき》の子、 左衛門尉《さえもんのじょう》高資《たかすけ》と申す者よ。 うそでない証拠も見しょう。 きのう今日、蝦夷の津軽から兵乱の飛報が都に入っておる。 ——因《もと》を洗えば、それも長崎高資の賄賂から起っておる」 又太郎は、きき耳すました。 はからずも、 彼が長柄《ながら》の埠頭《ふとう》で知った風説と、 それは符節《ふせつ》が合っている。 ——北方禍乱の原因を、なお、若公卿はこう説明する。 津軽の安藤季長や同苗《どうみょう》五郎らが、 一族同士の合戦におよぶま
この時代にはまだ後世のいわゆる茶道などは生れてない。 けれど喫茶の風は、ぼつぼつ、拡まりかけていたのである。 禅僧の手で漢土から渡来した始めのころは、 禅堂や貴人のあいだに、養生薬のように、 そっと愛飲されていたにすぎなかったが、 近ごろでは “茶寄合《ちゃよりあい》”などという言葉さえ聞くほどだった。 花競べ、歌競べ、虫競べなどの遊戯にならって、 十種二十種の国々の銘茶をそろえ、 香気や色味をのみくらべるのを“闘茶”といい、 その闘茶にはまた、 莫大な賭け物をかけたりする婆娑羅な人々もあるとは ——高氏も、聞きおよんでいたことだった。 けれどいま、道誉が彼をみちびいた離れは、 田舎びた無仏の一堂で、一幅の壁画と、 棚には錫の茶壺《ちゃこ》、 天目形《てんもくなり》の碗などがみえ、 庭園の休み所らしい趣《おもむき》はあるが、 闘茶の茶寄合の俗風はどこにもない。 「……ここなれば人けもなし、
「さすが花奢《かしゃ》だな、右馬介」 「おなじ守護大名ながら、 下野国の御家風と、ここの佐々木屋形では」 「まさに、月とすっぽん」 ——翌朝、起き出てみると、 総曲輪《そうぐるわ》は砦《とりで》づくりらしいが、 内の殿楼、庭園の数寄《すき》など、 夜前の瞠目《どうもく》以上だった。 遠くの高欄《こうらん》をちらと行く侍女やら 上﨟《じょうろう》の美しさも、都振りそッくりを、 この伊吹の山城《やまじろ》へ移し植えたとしか思えない。 それにつけ、又太郎は、 「当主高氏とは、そも、どんな?」 と、今日の会見が変に待たれた。 やがて。 夜前に約した時刻になると、土岐左近が迎えにみえ、 ふたりを誘ってべつな広間へみちびいた。 上座《かみざ》の茵《しとね》は、 上下なしの意味か、親しみの心か、二つならべて敷いてある。 右馬介は、もちろん末座。 そして又太郎だけが、ずっと進んで、 その一つに着こうとした
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く