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津軽為信の検索結果1 - 17 件 / 17件

  • 津軽為信 - Wikipedia

    津軽 為信(つがる ためのぶ)/ 大浦為信(おおうらためのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。陸奥国弘前藩初代藩主。官位は従四位下・右京大夫。 生涯[編集] 出自[編集] 津軽為信の出自には様々な説や伝承があり、南部氏支族で下久慈城主であった久慈氏の出とも、大浦守信の子とも言われる。為信の経歴は津軽氏側に残される資料と、南部氏側の資料との間で記述に食い違いがあるため、はっきりしない点が多い。 為信が南部氏の一族であったという見方は、南部氏側の資料に存在する。この見方を補強する資料が津軽家文書の中にもある。その文書は豊臣秀吉から送られたもので、宛名は「南部右京亮(なんぶうきょうのすけ)」とある。この書状は為信に宛てられたものであると推定されていることから、大浦氏が三戸南部氏、八戸の根城南部氏等と同様に南部氏の一族であったことを示す証拠の一つと推定されている。 為信の実家と言

      津軽為信 - Wikipedia
    • 1 津軽太平記(津軽為信) 獏 不次男(2005) - 小説を 勝手にくくって 20選!

      *Amazonより 【あらすじ】 容貌魁偉、髭面の大男の大浦為信。父が戦で亡くなり、叔父の当主為則に可愛がられて、そして文武で卓越した能力を見込まれて次代当主に抜擢される。そんな中、津軽の地に立ち寄った雲水から世の中の動きを教えられて興味を持ち、軍師に招こうと「三顧の礼」で迎え、雲水は面松斎と名を変え「鷹」に対する「鷹匠」の気持ちで為信に仕えることを決意する。 それからの為信は、ただ戦うだけでなく「準備」を周到に巡らすようになる。南部家からの厳しい合力米の要求に対しては、村に火事を起こすことで拒否する一方で、村民には迷惑がかからないように、事前の準備と事後の手当は怠らない。軍事行動を起こすことで実戦の訓練のみならず、周辺の豪族の動向の見極め、兵力の動員能力や指揮官の能力を確認するとともに、南部家が攻め込む口実を作ろうとした。また背後の秋田氏を抑えるために、山形の最上義光を味方に引き入れる「

        1 津軽太平記(津軽為信) 獏 不次男(2005) - 小説を 勝手にくくって 20選!
      • 北奥のヒゲ殿・津軽為信4.大浦為信vs近衛前久

        大浦為信も、南部信直が豊臣秀吉に臣従し、諸大名と親しく交わっていることは知っていた。 「おれも上洛して秀吉の臣下にならねば」 それは分かっていたが、地理的な理由でできなかった。 何しろ津軽から上洛するには、敵国である南部領か秋田(安東)領を通るしかないからである。 「強行突破だ!」 為信は何度も挑戦したがかなわなかった。 秋田領を通れば秋田実季(さねすえ。安東実季。愛季の子)にじゃまされ、南部領を通れば信直の手の者に殺されかけ、海路を行けば暴風でふっ飛び、蝦夷地まで流される始末であった。 為信はあせった。 「何だよクソッ!こんなことをしていれば、ますます立場は悪くなるばかりだ!」 中央からこんなうわさが流れてくるようになった。 「関白殿下はいまだに上洛しない関東の北条や奥羽のザコどもにお怒りじゃそうな」 「近々、小田原(おだわら。神奈川県小田原市)攻め(「変化味」など参照)が始まるそうな」

        • 内紛に乗じて自立~津軽為信(1550~1607) : 戦国武将の実力 : 知る・極める : 新おとな総研 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

          江戸時代、陸奥国(青森県)では、津軽藩主の津軽氏と南部藩主の南部氏の仲が非常に悪かったといわれている。それは、ただ、隣りあう藩同士で仲が悪かったというのではなく、津軽氏が、南部氏内紛のどさくさにまぎれて自立していったということに由来するという。 本来、津軽氏は南部氏一族の大浦氏で、大浦城(同県弘前市)に拠(よ)り、鼻和郡一帯に勢力を伸ばし始めたのが隆盛のもとになったといわれている。『津軽氏系図』などでは、大浦政信の嫡子為則の娘と結婚した為信(ためのぶ)が、為則の死後、大浦氏を継いだことになっている。 そして、この為信が、本家南部氏における内紛の間隙(かんげき)を縫って巧みに津軽全域の支配に成功したのである。具体的にみると、天正6年(1578年)、浪岡城(青森市)の北畠顕村(あきむら)を攻め滅ぼしている。この北畠氏は、南北朝時代以来の名族で、南朝方北畠顕家(あきいえ)の後裔(こうえい)だ。一

          • 『笹森館遺跡≒津軽為信家臣居館(青森県弘前市)』

            ☆☆★☆★☆☆歴史タイムッス★☆☆★☆★★古今東西歴史関連記事リンク集日本史娯楽検証物語サイト「歴史チップス」執筆のネタ探しとして日本や世界のメディアや個人・企業サイトから歴史関連記事リンク集を作成(リンク切れ御免)。また、「古今チップス(旧歴史タイムズ・現歴史タイムス)」の2005年11月~2014年12月のバックナンバーも掲載。

              『笹森館遺跡≒津軽為信家臣居館(青森県弘前市)』
            • 今に生きる歴史を動かした男たち 第3回 津軽為信 -海の町・青森をつくった男-

              北米トレンド 織田 浩一 連載 米国を中心にモノやサービスのデジタル化が進み、競争の鍵は顧客体験の向上と価値創造に移行しました。新たなトレンドに対応するため、北米の最新情報を毎月お届けします。

                今に生きる歴史を動かした男たち 第3回 津軽為信 -海の町・青森をつくった男-
              • 「どメジャーじゃないけど好きな歴史上の人物はおられますか」津軽為信に触れつつの問いに”東西の推し偉人”が続々

                洋介犬 @yohsuken ホラー漫画家・洋介犬(ヨウスケン)日本漫画家協会特別職参与:商業連載中→黒懺悔/反逆コメンテーターエンドウさん/JC殺人鬼やめました/メメ/パラウドで逢いましょう/LaLaLa… ※Amazonアソシエイト登録者です ご依頼ご連絡はDM(開放中)もしくは公式ブログへ→yohsuken.blog.jp yohsuken.blog.jp 洋介犬 @yohsuken おはようございます。 「ジゴサタ」では歴史上の有名人が出る回も作者の予想以上の人気です。 みなさんは「どメジャーじゃないけど好きな歴史上の人物」はおられますか? pic.twitter.com/fu3HDdd1P3 2023-09-21 09:24:47

                  「どメジャーじゃないけど好きな歴史上の人物はおられますか」津軽為信に触れつつの問いに”東西の推し偉人”が続々
                • 長崎氏古記録:永禄2年(1559年)憲祐の弟民部大夫勝頼が中野城に入城した記録あり~秋田藩主, 安藤親季との不和により戦いには参加せず~浅利頼平~津軽為信:亡くなった浅利氏は佐竹氏に鷹匠として仕え, 近世まで生き残ったとされる.

                  Days where you can feel the importance of agricultural promotion with your skin. Agriculture's the foundation and primary industry that supports us. Please forgive me even if the seasons shift a little, because I just want to tell you the process of agricultural products. Let's blow away the epidemic! Food is our future and continues to evolve. Agricultural crops are not just deals for trading. It

                    長崎氏古記録:永禄2年(1559年)憲祐の弟民部大夫勝頼が中野城に入城した記録あり~秋田藩主, 安藤親季との不和により戦いには参加せず~浅利頼平~津軽為信:亡くなった浅利氏は佐竹氏に鷹匠として仕え, 近世まで生き残ったとされる.
                  • 家康と三成の物語。裏設定解説。 北辺の大名津軽為信と「三成・徳川」の物語があった!【どうする家康 満喫リポート】戦国秘史秘伝編 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

                    TOP趣味・教養どうする家康家康と三成の物語。裏設定解説。 北辺の大名津軽為信と「三成・徳川」の物語があった!【どうする家康 満喫リポート】戦国秘史秘伝編 ライターI(以下I):『どうする家康』における徳川家康(演・松本潤)と石田三成(演・中村七之助)のやり取りがじわじわと胸に迫ってきます。 編集者A(以下A):松本潤さんと中村七之助さんはプライベートでは昵懇の間柄だそうです。頭は切れるがどうも人望がないという石田三成と、毛利輝元(演・吹越満)や上杉景勝(演・津田寛治)らに「狸」と呼ばれる家康との、視聴者を交えた形で「化かし合い」が続いているようで、じわじわくるというIさんの意見に賛成です。 I:さて、今週は、本編をより楽しむための「裏設定」的な歴史ネタを紹介しましょう。 A:秀吉による小田原北条氏の平定後に、実は東北地方で天下統一前最後の戦いが繰り広げられました。奥羽の諸大名が中央の実力

                      家康と三成の物語。裏設定解説。 北辺の大名津軽為信と「三成・徳川」の物語があった!【どうする家康 満喫リポート】戦国秘史秘伝編 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
                    • 国重文:豪華な内部 津軽為信霊屋 保存修理中に特別公開 | 毎日新聞

                      華麗な内部が公開された「津軽為信霊屋」。天井画には天女が描かれている=2016年11月3日、松山彦蔵撮影 初代弘前藩主・津軽為信(1550~1607年)の菩提(ぼだい)寺である革秀寺(青森県弘前市藤代1)で、保存修理中の国の重要文化財「津軽為信霊屋(たまや)」が今月初めに特別公開され、故郷の歴史と文化に触れようと多くの市民らでにぎわった。 革秀寺は京都で客死した為信の遺言で、死の翌年、2代藩主・信枚(のぶひら)が岩木山を背に弘前城のある東を向くような造りで創建したと伝えられる。 3日に特別公開された霊屋は、けたとはりが各3.1メートルの入り母屋造り。今も金箔(きんぱく)がまばゆく映える為信の墓塔「宝篋(ほうきょう)印塔」(福井産石、高さ約1メートル)が中央奥に置かれ、計62本の塔婆(とうば)(高さ約1.5メートル)が内壁を飾る。

                        国重文:豪華な内部 津軽為信霊屋 保存修理中に特別公開 | 毎日新聞
                      • 戦国カードゲーム『津軽為信統一記』App Store/Google Playに進軍! 戦国の青森津軽地方を統一をテーマとするローカル戦記もの - ゲームキャスト

                        津軽為信統一記 (itunes 980円 / GooglePlay 900円) 戦国時代の本州埼北(青森県の津軽地方)を舞台に一代で大名へ成りあがった津軽為信になり、地方統一を追体験するゲーム『津軽為信統一記』がついにiOSでリリースされた(Android版は昨年末リリース)。本作は対戦カードゲームに戦国SLGをミックスしたゲームとなっており、『信長の野望』のようなマップ画面から攻める土地を定め、カードバトルで合戦し、天正15年(1587年)の冬に豊臣秀吉が私闘を禁ずる“惣無事令”を発するまでに津軽地方を統一する者となっている。 合戦は攻撃札と策略札、合計で20枚以上を選んでデッキを作り、敵と戦うものとなっている。やや力押し感はあるが、戦国な雰囲気の演出や動物として描かれる妖怪チックな武将のイラストなどは良し。 価格980円(Androidは900円)と高めだが、本作はアナログ版もリリース

                          戦国カードゲーム『津軽為信統一記』App Store/Google Playに進軍! 戦国の青森津軽地方を統一をテーマとするローカル戦記もの - ゲームキャスト
                        • 歴史・時代小説──は行の著者 津軽太平記 みちのくの鷹 津軽為信一代記 [単行本]

                          著者名:獏 不次男 獏 不次男 (著) ? 獏 不次男のAmazon著者ページを見る 著者の作品一覧、著者略歴や口コミなどをご覧いただけます この著者の検索結果を表示 あなたは著者ですか? 著者セントラルはこちら (著) 出版社:河出書房新社 (2005/12/16) ISBN-10:4309017401 ISBN-13:978-4309017402 発売日:2005/12/16 商品の寸法:19 x 12.6 x 3 cm 価格:¥ 1,995

                          • #仕事 津軽為信 - フリューキシーラのイラスト - pixiv

                            ソーシャル向けのキャラクター絵

                              #仕事 津軽為信 - フリューキシーラのイラスト - pixiv
                            • 戦国大名の戦績 - 戦国時代の著名な戦国大名の戦績(何戦何勝)を教えてください。北から津軽為信南部信直最上義光伊達政宗芦名盛... - Yahoo!知恵袋

                              デアゴスティーニ・戦国武将データファイルからの抜粋です。 津軽為信・・・19戦17勝1敗1分け 南部信直・・・14戦8勝5敗1分 最上義光・・・まだ収録されてません。。。 伊達政宗・・・19戦15勝1敗3分 芦名盛氏・・・28戦18勝6敗4分 佐竹義重あるいは義宣・・・義宣・10戦7勝3分 上杉謙信・・・38戦23勝4敗11分 北条氏綱あるいは氏康・・・氏康・44戦24勝12敗8分 武田信玄・・・54戦37勝8敗9分 今川義元・・・24戦14勝5敗5分 徳川家康・・・51戦31勝13敗7分 織田信長・・・68戦49勝15敗4分 斎藤道三・・・16戦11勝3敗2分 朝倉孝景あるいは義景・・・義景・21戦10勝7敗4分 尼子経久・・・19戦12勝4敗3分 毛利元就・・・48戦42勝5敗1分 大内義隆・・・義隆はまだ収録されてないので、父。義興の戦績・21戦16勝4敗1分 長曾我部元親・・・29

                                戦国大名の戦績 - 戦国時代の著名な戦国大名の戦績(何戦何勝)を教えてください。北から津軽為信南部信直最上義光伊達政宗芦名盛... - Yahoo!知恵袋
                              • 「青森のエンタメは俺たちが担う」 情熱と勇気で道なき道を切り開く。 IT×地方の未来を体現し、未来への架け橋をつくる。 ~アプリゲーム『津軽為信 統一記』の神髄に迫る弘前旅~ - ひとりメディア

                                【ブログに移行しました↓こちらをご覧ください↓】 スマホゲーム『津軽為信 統一記』の神髄に迫る弘前旅 ~IT×地方の未来を体現し、未来への架け橋をつくる~ | manish+(マニッシュプラス) ※取材当時は9月中旬でしたので、その時のテンションでお送りしています。 こんにちは。ライターのシオリです。本日は青森県弘前市に来ております 青森県内の中でも大きい都市です。 弘前市は、青森県西部の市です。 なんと日本で最初に市制を施行した都市の1つです。 東京から新幹線で約4時間。到着しました! 9月半ばですが、暑すぎず気持ちがよい気温でした。 弘前駅です(ドドーン) 弘前駅オシャレ…!大きい! 駅構内もオシャレ~! 駅前は広々とした空間。 弘前といえば、太宰治と弘前城。そこはかとなく昭和文学の香りが漂う、レトロな街並み。そうか…ここが…城下町なのか。 …PayPayも使えるし! 青森県にもキャッ

                                  「青森のエンタメは俺たちが担う」 情熱と勇気で道なき道を切り開く。 IT×地方の未来を体現し、未来への架け橋をつくる。 ~アプリゲーム『津軽為信 統一記』の神髄に迫る弘前旅~ - ひとりメディア
                                • 戦国武将・津軽為信が息子に説いた教え 最北の現存天守「弘前城」 - おとなの週末公式|おいしくて、ためになる食のニュースサイト

                                  桜が美しい弘前城、現存12天守のうち東北で唯一 桜が美しいことで知られる弘前城は現存12天守のうち、日本列島で最も北にあり東北で唯一のものです。この天守は文化7(1810)年に再建されたものです。寛永4(1627)年に落雷で焼失して以来、天守再建は弘前藩の願いでしたが、幕府の目を気にして櫓を改築するという名目で建てられました。 南部と津軽は犬猿の仲 ところで、南部と津軽は犬猿の仲といわれます。よく理由として挙げられるのが、戊辰戦争の際の遺恨です。津軽藩も南部藩も奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍に抵抗しましたが、津軽藩はいち早く恭順し、南部藩に攻め入るといったことがありました。野辺地戦争と呼ばれる事件ですが、南部藩を懲罰する意味もあって南部地方の北部は切り離され文化も言葉も違う津軽と合併させられ、青森県になったのです。そのことを八戸あたりの旧南部領だった人たちは、面白くないと思う感情があっ

                                    戦国武将・津軽為信が息子に説いた教え 最北の現存天守「弘前城」 - おとなの週末公式|おいしくて、ためになる食のニュースサイト
                                  • 【名城と事件】弘前城(上) お家騒動に乗じた津軽為信

                                    ★弘前城(上) 津軽地方(青森県西部)は、もともと南部氏の支配地であった。元亀2(1571)年、南部氏のお家騒動に乗じて、家臣の大浦為信(ためのぶ)が反旗を翻した。次々と津軽の諸城を攻め滅ぼし、大浦氏による津軽一帯の支配が始まった。 天正18(1590)年、為信は南部氏に先んじて豊臣秀吉の小田原攻めに参陣し、念願の津軽安堵(あんど)の朱印状を秀吉から下付される。このとき、大浦から姓を津軽に改名する。 以降、津軽氏と南部氏は対立する。南部氏にしてみれば、家臣であった津軽氏が勝手に独立を宣言し、しかも公的に認められたのだから、おもしろいわけがない。 慶長5(1600)年の関ケ原の合戦では、為信は徳川方(東軍)に属し、2000人の兵を率いて大垣城(岐阜県大垣市)攻めに参戦。津軽領主の地位を確保した。 為信は慶長8(1603)年、高岡(青森県弘前市)の地に目をつけ、新城と城下町の建設を計画するが、

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