エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
内紛に乗じて自立~津軽為信(1550~1607) : 戦国武将の実力 : 知る・極める : 新おとな総研 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
内紛に乗じて自立~津軽為信(1550~1607) : 戦国武将の実力 : 知る・極める : 新おとな総研 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
江戸時代、陸奥国(青森県)では、津軽藩主の津軽氏と南部藩主の南部氏の仲が非常に悪かったといわれて... 江戸時代、陸奥国(青森県)では、津軽藩主の津軽氏と南部藩主の南部氏の仲が非常に悪かったといわれている。それは、ただ、隣りあう藩同士で仲が悪かったというのではなく、津軽氏が、南部氏内紛のどさくさにまぎれて自立していったということに由来するという。 本来、津軽氏は南部氏一族の大浦氏で、大浦城(同県弘前市)に拠(よ)り、鼻和郡一帯に勢力を伸ばし始めたのが隆盛のもとになったといわれている。『津軽氏系図』などでは、大浦政信の嫡子為則の娘と結婚した為信(ためのぶ)が、為則の死後、大浦氏を継いだことになっている。 そして、この為信が、本家南部氏における内紛の間隙(かんげき)を縫って巧みに津軽全域の支配に成功したのである。具体的にみると、天正6年(1578年)、浪岡城(青森市)の北畠顕村(あきむら)を攻め滅ぼしている。この北畠氏は、南北朝時代以来の名族で、南朝方北畠顕家(あきいえ)の後裔(こうえい)だ。一